クワガタ、野球、リング。夏の回廊

クワガタ


野球


リング





外はがやがやと、わいわいと、かあかあと賑わっている。

第二十二期、夏。そのように僕の日記には記録される。

僕は青年。そうさ、青年。見た目の歳はまあ、二十かそこら、少し大人びた感じかな?

そうだな……いくら若者とは言っても、流石にもうあどけなくは見えないかも知れない。

だって。僕は回廊を生きている。僕は去年期の記憶がある。その更に前年の期の記憶もある。

歳は。じゃあ本当の歳は?

二十一だ。

街中を歩くと野球の音が聞こえる。僕は、野球自体に興味は無くて、ただ霧の出る扇風機に当たりに行く。

うーん。

僕は独り言を呟く。

うーん。


「――え?」


そんな言葉を呟いた。僕は今、目が覚めた気がした。

暑いな。いかんせん。

日射病になりそうだ。まずいまずい。少し休もう。

僕は野球会場を離れ、公園。と言っても、いかにも都会の公園というような、舗装された地面に、木を囲うようにした丸くて長い椅子がある。

「ふむ」

――――――

クワガタ。クワガタが木にくっついていた。

ふーん。

僕は手を伸ばす。今期より前の時代のように。僕はそのクワガタに手を伸ばす。


「あら、珍しいね?」


女性の声がした。

「……何?」

僕は顔をしかめて、その女性をまじまじと見る。

「何ですか?珍しいって」

「クワガタ、珍しい。こんな所に」

へえ。そうなの?

その女性は、美しい目をしている。この僕、回廊を生きるよどんだ僕からしても、美しい目のように見える。

「でも」

その女性は、視線を、手元のクワガタから僕の顔に移して。

「お兄さんの方が、幾千倍も珍しい」

む。

それはつまり。

「へえ」

僕は返事をする。

「分かる?」

「うん。願わくば詳細に説明をもらいたいかな」

僕はこの女性に、今期と去期、そして来期。そういう回廊を生きる僕の頭の中を話す事にした。

本当はそんなに簡単に話すべきではないのかも知れないけれど。でも、この女性はそこそこに。ええ。まあまあ、そこそこに。勘が良いだろうと見えたから。



「夏が来る度に、目が覚めるような気がするんだ」

頭の霧が晴れるとでも言おうか。そのような爽快な感覚。それが毎年起こるんだ。

つまりそれは、その瞬間の度に、今までの事項が全て過去、もっと言えば、もう現実には存在しない記憶。あたかも夢だったかのようなものとなって、回廊に放たれてしまうような気がするんだ。

「このように、生きる時間に区切りが存在する。それを知覚できるようになってから、僕はそのひと区切りひと区切りを、その度に「今期」と呼ぶようにしているんだ」

僕の説明を聞いた、僕とよく似たその女性は、うんうんと頷いて、僕に質問を投げてきた。

「してお兄さん、実際は?何期ほど前の記憶があって?」

「およそ七十期。まあ半世紀以上だろうかね」

僕はそう答えた。しかしながら。

「しかしね、実際に五十年前の記憶がある訳ではないんだ。僕は二十一歳だからね。実際にはそれしか、まだ生きていない」

その女性は、ふふ、と笑った。

「そうね。そうさね。まあ誰しも持ちえる感覚として、経験していない事への懐古とか、まああとはデジャヴとか。そういうものってあるけれど、それとはまた違うんだいね?」

「まあ」

どうなんだろうね。明確な境界は無いのかも知れない。僕なんか結局、ちょっと頭がどうかしているというか、神経過敏というか、まあそういう独特の感覚を持っているだけの、ただの人間なのかも知れない。

「しかし」

しかし僕は、回廊を生きている。

僕が信念を確かめて頷いた時、その女性がまた意見を言ってきた。

「そうだね。お兄さんはちょっと違う。数世代前の感覚を無意識に保有する現代人。夏は野球を楽しむもの。木にはクワガタが住んでいるもの。まあ特に後者かな。それを無意識に知覚し、さっき実行しているのを私は見た。それから見たところ、なんと言うかな。ごめんね?まとまってなくて」

「いや、そんな」

それでいい。僕が生きる回廊とはつまり。


――リングの人――



え?

「つまりさ」

その女性が、考えながら僕に言う。

「心の中に、こう、ひとつのリングが埋め込まれているとして、そこに延々と、延々と、ビデオテープのように毎期毎期の物語が刷られていって。そのリングはごく小さいから、すぐ一周は終わりを迎えて、二周目以降はもう全部、重ね塗りがただ連ね。そして、今となっては、始まりがいつだか、もう分からない。実際、いつ生まれたのかも、覚えていない。そうじゃない?」

そう、かもな。それに近いかも知れない。

「私もあるよ。そういう感覚。お兄さん程じゃないかも知れないけれど」

そうだね。そうだろうね。良い目をしているもの。

「でもさ、お兄さん。そんなあなたは、そこまでニヒルになっていないじゃない?」

ああ。まあ。そうだね。

「そこそこ楽しんでるよ。この人生」

「吹っ切れているんだね。疑惑は晴れないのに。例えば分かりやすく言うなら、この現実世界は偽物で、あの世や異界こそが本物なのかもなって。そのような疑惑は晴れないのにね」

――いいのさね。

この紅く紅く暑い世界で、楽しくそこそこに生きる事は、心得をひとつ挙げるならそれは、混濁する意識。それ自体を見つめること。混濁、混沌、迷妄とする事。それ自体への受容。迷い迷って走りを強要される事の承諾。

「いいのさね……」



――こころ、大事に、リングの人――

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