第五話 馬毛鹿(まげしか)

 追いかけろ。

 追いかけて捕まえるのだ。

 抗いがたい声が、頭の中で響く。

 考えるよりも早く体が動いていた。

 追うものはわかっている。前を行く馬毛鹿である。手にはなんの得物も持っていなかった。

『素手で捕えろと言うのか』

声に向かって算長かずながは叫んだ。算長の声は森の奥深くに吸い込まれていった。

 下草が邪魔をして足はもつれがちだったが、鹿との距離は縮まっていた。

 若い雌の鹿だ。

『なぜそんなことがわかる』

 背中の毛が黒く光る。

『光る?』

 不意に、あたりは深い森の中であることに気が付いた。しかも夜だ。月が出ているかどうかもわからない。

 暗闇の中をなぜ俺は鹿を追っているのだ。なぜ鹿が見える。光る背中の毛までも。

『なにも考えるな。考えずに追え。追って仕留めるのだ』

 その声に押されるように算長は走った。

 若い雌鹿は素晴らしい跳躍力で藪を超える。全身をしなやかに弾ませ駆けていく。  藪の中で時折、こむらが白く浮き立つ。

『腓だと?』


 気が付くと算長は見知らぬ井戸端にいた。夜が明け始めたばかりのようだ。濃い霧はまだしばらく晴れそうにない。

 両手がべたついている。赤黒い血がべったりと付いていた。

 算長の頭に、たった今見ていた夢が甦る。

 あれは本当に夢だったのか。

 この血は鹿の血なのか、それとも。

 その時、家の引き戸が開く音がした。算長は急いで水を汲み、両手の血を洗い流した。着物の泥と足もついでに洗う。

 桶を抱えて井戸端にやってきたおんなは、間近に来てようやく算長の存在に気付いたようである。しばらくは算長がだれかわからないようで、六尺を超える算長を見上げ、しげしげと顔を見ていた。そして、ようやく思い当たって、慌てて桶を下に置きひざまずいた。

「井戸を借りたぞ。布はあるか」

 婢は腰に下げたぼろ布をおずおずと差し出した。

 顔と手足を拭いて婢に返すと、算長は自分があてがわれている部屋のある方へ向かって歩き出した。

 種子島時堯公の客人となり、家老西村壱岐守いきのかみ時弘ときひろの屋敷に寄留してから半月ほどになる。時堯公の跡目相続の祝いに来たのだが、居心地が良いためについ長居をしてしまった。種子島家とは時堯公の父、種子島恵時公の時代から親密な関係にある。互いが交易品の取引相手という関係なのだが、それ以上に肌が合うというか馬が合うというか、損得抜きの間柄になっていた。

 先日も家来を大勢付けてもらって豪勢な鹿狩りをしたばかりだった。時堯公は公務多忙のために同行できないのを大層済まながって、気を使ってくれたのだ。種子島の西に浮かぶ馬毛島という小さな島で狩りは行われた。鹿狩りは初めてだったが、日頃、武芸の鍛錬を怠らない算長は、弓矢の腕前を披露し面目を施した。

『そうか、それであんな夢を』

 だが、あの血はどうしたのか。深酒をしたわけでもないのに覚えていないとはどういう訳なのだ。この島に来てからしばしばおかしな夢を見る。柄にもなく夢を気に病む自分に、算長はかつてない奇妙な感覚を抱いた。

 紀州根来寺ねごろじの院主として、多くの学侶と行人ぎょうにんを束ねる立場にあって、いささかの判断の誤りも許されない身としては、あってはならぬ事と自分を戒めていた。

『寺へ戻って修法ずほうを修めるか』

 種子島での気楽な生活が精神に悪影響を与えているのかもしれない。算長は武士もののふであると同時に新義真言宗を奉ずる学徒でもある。その異能は算長に対する絶大なる崇敬を集めるもととなっている。

 時堯に暇乞いをしようとしていた矢先、思いもよらぬことが起きた。南蛮人がこの島に上陸したというのだ。琉球や明に渡航した折に、南蛮人の噂を聞いたことはある。天竺てんじく臥亜ゴアに壮麗なる都市を築いた南蛮人は、その後、東にある満剌加マラッカを占領したという。琉球人はそれをたいそう恐れて、南蛮人との交易をやめたのだそうだ。しかし、天竺は想像もつかぬほど遥か遠く海の彼方である。東へ東へと南蛮人は勢力を伸ばすつもりらしいが、日本が易々と南蛮人ごときの手に落ちるはずがない。とは言うものの、南蛮人がどのようなものであるか、確かめておく良い機会だ。種子島の南に停泊している船から、陸路をとって南蛮人が城に到着するのを算長は待った。

 初めて見た南蛮人に驚いている暇もなく、算長はさらに驚くべきものを目にした。 南蛮人が手に携えていた長い鉄の棒が、轟音とともに火を噴き遥か彼方の貝の的を打ち砕いたのである。

 その瞬間、時堯の目が変わった。

「津田殿、儂に撃ち方を教えるよう伝えてくだされ」

 算長は時堯に言われたように、五峰ごほうという明国人に伝えると、五峰は南蛮人に伝えた。そうやって半刻ほど手ほどきを受けると、時堯は、ほぼそれの扱いを習得してしまった。そして驚くほどの高値で買い取ってしまったのだ。

「のう、津田殿。これをなんと呼べばよいであろうか。明ではなんという名で呼ばれておる」

 算長は五峰に時堯の言葉を伝えた。五峰は畏まって答えた。

「明にはこのようなものはございませぬ」

 五峰は南蛮人の言葉でそれを呼んでいたという。火の兵器という名のそれを、算長が『火筒』という名ではどうか、と進言すると時堯は、「それでよい」とあっさり答えた。名前などどうでもいいというように、手の中の黒光りする新兵器に見入っていた。

 時堯は南蛮人を酒食でもてなすと、すぐに城下の刀鍛冶を呼びにやらせた。やってきた鍛冶の者が目を白黒させているうちに、火筒を急ぎ拵えるように厳命してしまった。

 種子島の刀鍛冶がこれを作ることができるのか、見届けたいという思いが、根来寺への帰心を上回った。

 もうしばらく居れば、作れるかどうかわかるだろう。

 そう考えたのは昨日のことだった。一日も経たぬうちに迷いが生じたのはあの不快な夢のせいだ。いや、夢自体が不快なのではない。むしろ夢の中では森の中を疾走する爽快感を味わっていた。だが目覚めた時に付いていた血は、あれはどういうことなのだ。いくら夢をたどっても欠片も思い出せない。それでも、すっかり目覚めぬうちに血を洗い流そうとして井戸端に行ったのだろう、ということは想像がつく。

 算長は頭にかかった靄を振り払うように首を振った。髷を作らぬ総髪から、森の臭いと血の臭いがした。

「津田さま、こちらにいらっしゃいましたか」

 家老の西村が人懐こい笑顔で近寄ってきた。五十がらみの痩せた小柄な男である。  算長の汚れた着物が目に留まると、一瞬言葉を切って眉をひそめた。

「殿が、朝餉あさげをご一緒にとの仰せでござる」

 算長は頭を上げて城のある方を見た。木が鬱蒼としていて城は見えないが、見上げる斜面の上に時堯の城があるはずだ。家臣たちの屋敷は頭の上から押さえつけられてでもいるように、城の足元に蝟集していた。

「当家の居心地はいかがでござるか。不便なことなどござらぬか」

 西村は顔を見れば、毎度同じようなことを聞いた。種子島時堯の大事な客人と心得ての言葉だろうが、少々うるさくもある。西村は譜代の重臣の一人である。代々種子島家の重臣たちは主君に忠義を尽くす者たちであるそうだ。

 算長は西村に丁寧に礼を言い、着替えをしたのち、城へ向かう旨を伝えた。

 朝餉は庭を望む書院の間に用意されていた。遣水が目にも耳にも清々しい。わずかに秋めいてきた空と風情のある四阿あずまやが池に映っている。膳には菜飯と汁物、飛び魚の干物、香の物と意外に質素だった。西村の屋敷で出されるものとさほど変わらない。

「津田殿とは、なかなかゆっくり話すことも敵わず心苦しゅう思うておった」

「お気遣い、痛み入ります。おかげさまで自儘に過ごさせていただいております。なにしろここは私にとっては故郷も同じ、水が合うのでしょうなあ」

 算長は柄にもなくお追従を言った。しかし半分は本当だった。若いころから度々訪れる種子島はいつ来てものどやかで、ここだけが戦乱の世から取り残された桃源郷かと思うこともある。

 時堯の後ろには例の火筒が置いてある。緞子どんすで作られた小布団に鎮座している姿はまさに家宝といったところだ。このぶんだと、時堯は寝る時にも離さずそばに置いているに違いない。

「大したものですなあ。南蛮人にも驚きましたが、この火筒というやつは」

 時堯はまるで自分が褒められたかのように破顔した。

「津田殿には頼みたき義があるのじゃ」

 時堯の頼みというのは、火薬の組成を五峰から聞きだしてもらいたいというものだった。

「あの五峰という男、明の国の儒者などというのは真っ赤な偽りで、王直おうちょくという倭寇の頭目なのだ。平戸を根城に禁制品の密貿易で巨額の富を得ているらしい。火筒を撃つには鉛の玉と火薬がどうしても必要じゃ。五峰はそれをとんでもなく高く売ろうとしておる」

 憤懣やるかたない、という言いかただが、火筒はあれほど高額で買い取ったことを思うと、時堯の腹立ちはどうも理解できない。

「そこで津田殿、火薬の作り方を聞いてもらいたいのじゃ。火筒は金兵衛に任せた。火薬はあの、篠川小四郎ささがわこしろうに任せることにした」

 時堯の顎の指す方を見ると、いつの間に来たのか、上背のある三十歳ほどの男が四阿のそばに控えていた。こちらの視線に気が付くと、いやに白く四角なおもてを下げて一礼した。

「あの者が申すには、硫黄と木炭が混ざり合っていることは間違いないそうじゃ。しかし、それだけではあのように爆発はしない。他に何が入っているのかどうにかして聞きだしてもらいたいのじゃ」

 火薬を作るつもりでいる、ということは大量に使うということか。算長はようやく時堯が火筒を飾り物の家宝にするのではなく、合戦で使うつもりであることに気が付いた。

「なんとか、やってはみますが」

「うむ。頼みましたぞ」

「火筒はどのくらいの数を作るおつもりで?」

「そうじゃな。とりあえず五、六十はいるな」

「五十や六十では、数百の騎馬武者にはとうてい太刀打ちできないのでは」

 算長がそう言うと、時堯はさも可笑しそうに笑った。算長は時堯の次の言葉を待ったが、笑うばかりでなにも言おうとはしなかった。

 その時、算長は昨年起こったという種子島家の内紛を思い出した。人から聞いた話では、時堯の父、恵時はかねてからの奢侈放埓を弟、時述ときのぶに咎められ、二人の仲は険悪になっていた。それに乗じた禰寝重長ねじめしげたけは時述を担ぎ、兵三百を率いて浦田に上陸した。浦田とは赤尾木の港から北へ十五里のところにある小さな漁港である。種子島のちょうど先端にあたるところだ。驚いた恵時は兵五十余人と共に屋久島に脱出した。敗走した父に代わって時堯は命を賭して防戦した。 しかし、あえなく敗退する。

 時堯が妙久寺で死を覚悟したときであった。禰寝重長より、時堯の命を奪う意思はない旨の使者が使わされた。恵時の民を苦しめる政道に挙兵したまでであって、時堯には恨みはないと。

 これによって屋久島は時堯の命と引き換えに禰寝氏のものとなった。これが天文十二年二月のことである。このときに恵時は隠居し、時堯が島主となったのであった。

 禰寝氏のものとなってしまった屋久島には、種子島氏の収入源の一つである屋久杉がある。

『まさか、屋久島を取り返すつもりなのか』

 算長にはそれが、俄かには信じられなかった。時堯は元来、温厚な質だった。好んで戦をするような男ではない。

 だが、と算長は改めて小布団に収まる火筒を見た。

 五、六十の火筒があれば屋久島奪還は案外たやすいことかもしれない。火筒を手に入れたことで、時堯が屋久島奪還を目論んだということだろうか。

 五峰は昼過ぎに城へ来るという。それまでは、やりたいこと欲しいものなど、なんなりと篠川に言いつけ愉快に過ごしてくれ、と言い置いて慌ただしく出かけていった。

「今朝早くに、川で死体が上がったとかで」

 篠川小四郎は申し訳なさそうに頭を下げた。

「いえ、本来なら殿がお出ましになることもないのでござるが、何分、交易船の客のようでして。それも殺されて川に捨てられたとあっては、ただ事ではありませぬでのう」

 篠川は一応渋面を作って見せたのち、時堯の言い付け通り、「なんなりとお申し付けくだされ」と気負って付け加えた。

「少々、寝足りぬによって、五峰が来たら起こしてくれぬか」

 算長はわざとぞんざいに言って、ごろりと横になった。

 篠川はよく見ると童顔であった。ふくよかな頬をほっとしたようにほころばしたのは、算長が面倒な注文をするのではないかと恐れていたのだろう。大きな肩を揺すって立ち去る篠川を横目で見ながら、算長はそっとため息をついた。

 弱冠十六歳の島主とこの人のさそうな篠川は、言葉さえ通じれば五峰に火薬の作り方を教えてもらえると思っているようだ。五峰が火薬で儲けをたくらんでいることに気が付いているのかいないのか。気付いていて、なお作り方を伝授してもらえると思っているのなら、二人とも人が好いにもほどがある。

 昨日は離れた場所から、ちらりと見ただけだったが、五峰はさすがに倭寇の頭目というだけあって、肝の据わった顔をしていた。肚の中はさぞかし強欲なのだろう。ああいう男には、普通の手は使えない。そう、まともにやったのでは無理だ。

 広縁ひろえんの端に掛かった日差しの温かさが、算長の膝元に徐々に這い寄ってくる。眠気がさざ波のようにやってきて、算長を揺さぶりさらっていった。

 眠ったのは、ほんのわずかだろう。だが、頭はすっきりと冴えていた。

 庭の中をぶらりと歩き、四阿を覗き築山に登った。城下の町が木々の間に見える。港には倭寇船と堺から着いた交易船、それに半月も前から停泊している算長の伊勢船が見える。他にも漁船が何艘も出入りしていて、なかなかの賑わいだ。

 屋敷の方を振り返ると榕の大木が涼しげな影を落としている。下には渡り廊下の小屋根がある。その向こうに宝珠が突き出ているのが見えた。

 算長は築山を降り、榕の木を目指して歩き出した。渡り廊下と木の間をすり抜けると、蔵の立ち並ぶ一隅に小さな堂があった。護摩堂なのか、白い壁に朱色の柱が美しい。

 扉を開けると香の臭いが鼻を突く。目が慣れてくるにしたがって中央に三角形の護摩壇と、奥には大日如来の像があるのが見えてきた。

 反対側の隅には木箱がいくつも重ねられている。中の一つを開けると書物がびっしりと入っていた。『大日経』をはじめとする経典や、『三教指帰さんごうしいき』『弁顕密二教論べんけんみつにきょうろん』『十住心論じゅうじゅうしんろん』といった主だった空海の著書のほかに、『即身成仏儀そくしんじょうぶつぎ』『吽字義うんじぎ』『声字実相義しょうじじっそうぎ』といった算長もまだ精読していない書物もあった。他の箱にも『千金要方』とか『郷薬集成方』などと、聞いたこともない書物がたくさん入っていた。書物を多く読むことにかけては人後に落ちない算長だったが、この堂の持ち主が、もしこれを全部読んだのだとしたら、恐ろしいほどの読書量だ。

 気になるのは三角形の護摩壇だ。これは調伏ちょうぶくのためのものだ。誰かを呪詛するために修法を行ったのか。護摩壇のそばには泥や汚物が散乱している。護摩壇の中には燃え残った護摩が細い煙を上げていた。算長は何げなく灰に埋もれている何かの種子を拾い上げた。茄子の種を大きくしたような丸く扁平な形をしている。  どこかで見たことがある気がしたが思い出せない。半分が消し炭になっている。指で潰すと、ほろほろと崩れた。

 鼻の先に持ってきて、臭いを嗅いだ瞬間だった。頭の芯が激しく揺さぶられた。次に来たのは耐え難い頭の痛みだった。痛みに耐えかねうずくまる。

 痛みが引き、何かの気配を感じて顔を上げた。

 白い獣毛が鼻先をかすめる。

 白狐びゃっこ に乗った女神が算長の頭上を横切る。美しい女神だった。頭には炎をかたどった金色の冠をかぶり唐風の着物を柔らかくはためかせていた。女神は蠱惑的な微笑みを浮かべ、算長に向かって白く細い手を差し伸べた。算長は触れようとして手を伸ばした。その時だった。女神の顔は一瞬のうちに忿怒の表情になった。さっきまでの輝くような美しさは微塵ものこっていない。恐ろしい形相で算長を睨み付けた。

 算長は威容に圧倒されて後ずさった。

 女神はさながら悪鬼のようであった。右手と左手にそれぞれ血の滴る人間の手足を持っている。口元は赤く血塗られていた。

 算長はこの神を知っていると思った。胎蔵曼荼羅たいぞうまんだら外金剛院げこんごういん南方に配せられ、閻魔天えんまてん眷属けんぞくとなっている。そこまでわかるのに、その神の名がどうしても思い出せない。

 右の手に違和感を覚えて、そろりと腕を上げた。生臭い肝臓が握られていた。

 算長の頭に今朝見た夢が再現される。

 湿った暗い森。疾走する馬毛鹿。

 鹿を追い詰めた算長は、ひと思いに首の骨を折り、そして……。

 算長は突然の悪心おしんに襲われた。目の前の像が歪む。醜い女神が算長を見下ろしている。足元を見ると若い娘を踏みつけていた。算長に助けを求めていた。

『俺はこの娘の生肝いきぎもを取り出したのか? ばかな、そんなはずはない』

 しかし算長の体は娘のほうへと引き寄せられて行く。手にはいつの間にか短刀が握られていた。

 娘は泣いて命乞いをする。

『俺にはこの娘を殺す理由などない』

『だが殺らねばならぬ』

 それは夢の中で聞こえた声だった。

「だれだ」

『娘の生肝を取り出し、儂に渡すのじゃ』

 声は抗いがたい力を持っていた。どう足掻いても算長は自分の体を押しとどめることができない。算長の意に反して短刀を握った腕は高く振り上げられた。

 そのとき、算長は臓腑を絞るように真言を唱えた。

多姪咃たにゃた 鳥耽毘詈うたんびり 兜毘詈どうびり 耽埤たむぴ 波羅耽埤ばらたむぴ 捺唾修捺唾なたしゅなた 枳跋侘ていばた 牟那耶まぬや 三摩耶さんまや 檀提だんてい 膩羅枳尸にらていし 婆羅鳩卑ぶらくび 烏詈うり 穣瞿詈なんくり 裟訶すばあーはー

 すべての恐れ、すべての害毒、すべての悪鬼あくりょう、虎、狼、獅子が、この呪文を聞いたならたちまちその口は閉ざされ、人に害を加えることはできなくなり、その悪行によるさわりはなくなるであろう、という意味の神呪である。これまでに幾度も助けられたことのある、霊験あらたかな真言である。

 ところが、どうしたわけか一向に算長の体は自由にならない。それどころか、手に持った短刀は、まるで意思を持っているかのように算長に向かって斬りつけてきた。 一刀目はすんでのところでかわしたが、二刀目は自らの胸を切り裂いた。短刀を離そうにも自力では指一本動かすのも容易ではなかった。刃向かう短刀を渾身の力で押さえつけるが、算長の力は尽きようとしていた。

 苦しい息で、もう一度真言を唱える。これでだめならば、死を覚悟しなければならない。真言を唱え終わると同時に、算長は自分の体が炎に焼かれるのを見た。目の前にいた女神と女神に踏みつけられていた娘は算長を見て笑っていた。すべて悪鬼に仕組まれた芝居だったのだ。

 算長の真言は制御を失い我が身を襲った。初めて自分の力を恐ろしいと思った。これまで自分の力をたのみに思うことはあっても恐れたことはなかった。

 算長は炎に巻かれ、舞うように身悶えし、ばったりと倒れた。

 頬に床板が当たる。体の熱さが消えていた。

 目を開けた。

 書院の間の広縁でうつ伏せに寝ている算長を、中天に昇った太陽が煌々と照らしていた。起き上がって切られたはずの胸を確かめる。傷もなければ痛みもない。

『また夢を見ていた』

 嫌な汗をかいていた。喉が鼻が頭が、ずきずきと痛む。

「津田さま」

 後ろから篠川の声が聞こえる。

「ようお休みでございましたな。五峰が参ったそうで。酒も用意させましたほどに、どうぞおいでくださいませ」

 算長は振り向かずに返事をした。篠川が行ってしまうと、立ち上がって堂のある方を見た。しかし渡り廊下の屋根と榕の木が邪魔をして、堂の屋根の宝珠すら見ることはできなかった。

 と、その時、算長は右の手の中に何かを握りしめていることに気が付いた。

 手を開いてみると、革紐のついた奇妙な形をしたものだった。いつそれを手にしたのか覚えていなかった。算長はそれを懐にしまうと、不快な夢の残滓ざんしを振り払うように両手で顔をごしごしとこすった。

『おかしな夢ばかり見る。いや、本当に夢なのか』

 ふと夢の中に出てきた鬼神の名を思い出した。吒枳尼天だきにてんだ。だが、それを思い出したからといって、夢の意味がわかるわけでもない。初秋の日輪が、狂ったように白色の光を投げかけてくる。あれほど美しく見えた庭の木々は、算長にはもう色を失っていた。

 小者に案内された部屋に入ると、来ていたのは五峰だけではなく、二人の南蛮人も一緒だった。

 五峰が算長を見て居住まいを正すと、南蛮人たちもそれに倣って畏まった。倭寇の頭目と蛮族の商人は、本来ならば算長と同席できる身分ではないのだ。

「こちらは、紀州根来寺杉之坊すぎのぼう、院主であらせられる津田監物算長けんもつかずなが殿でござる」

 篠川小四郎が気負った声で津田を紹介した。しかし、異国の客人たちは日本語がまったくわからない。居心地悪そうに瞬きを繰り返している。

 算長が簡単に名前を名乗ると、五峰も自分は明国の儒学者であると白々しくも言ってのける。南蛮人が名前を言う。耳慣れない音であるために聞き取れないが、五峰がそれを紙に書いてくれた。

 漆黒の髪に鼻と顎の大きな、やや背の高い方が喜利志多陀猛太キリシタダモウタ。髪と目の茶色がかった小柄な方が牟良叔舎ムラシュクシャであるという。

 五峰は、西村なにがしという地頭を仲立ちにして話をしていたときは、すべてが筆談であったが、算長が明国の言葉を話せるのがとにかく嬉しいと喜んでいた。

 しばらくは南蛮人の故郷である葡萄牙ポルトガルという国の話をしていた。だが、南蛮人は葡萄牙にあまりいい思い出がないようで、そこから移り住んだ天竺の臥亜ゴアという町について話した。そこはたいそう栄えた美しい街で、臥亜を見たものは葡萄牙を見る必要はないとまで言われ、黄金の臥亜と呼び、その美しさを讃えたものだ、と南蛮人はうっとりした目で言う。

矮脚鶏チャポラ川で見る夕日の美しさは言葉にできないほどの美しさだと言っております」

 南蛮人はなおも臥亜の美しさを語っているようだが、五峰に遮られ、満剌加の話に移っていった。

 南蛮人たちと五峰は満剌加を拠点として琉球や明との交易を行っているという。五峰は言わないが、明との交易は密貿易であろう。明が海禁政策をとって以来、五峰のような倭寇が横行するのはわかるが、葡萄牙の王はなぜ明と交易を行わないのか。

 算長が訊ねると、南蛮人に聞くまでもないのだろう、五峰が答えた。

「葡萄牙は明との交易を求めるに、ことを有利に運ぼうとして船団を組んで押し寄せました。その時、ちょうど葡萄牙に占領された満剌加王の使節が北京に到着したこともあって、明国皇帝は葡萄牙の船を打ち払いました。それで葡萄牙と明国は交易をしないのです。その代わりに双嶼リャンポーが葡萄牙との交易の場になりました。 双嶼は南蛮人の持ってくる品物で利益を上げることができるのでとても歓迎してくれます。この者たちも満剌加から双嶼へ行くところだったのです。嵐にあってこの島に流れ着いたのは去年のことです。嵐のおかげで、彼らの言う黄金の国を見つけたわけです」

 南蛮人は出された焼酎がいたく気に入ったようで、ぐいぐいと飲んでいる。酔いが回った南蛮人が何かを言い合って笑っている。

「津田さまの風貌が拿撒勒ナザレ耶蘇イエスによく似ておいでだそうです」

「なんじゃ、それは」

「南蛮人が崇拝している神の名でございます。あなた様の髪がそのように長く、髷を結っておりませんので、と言うております。奇跡も起こせそうだと」

「なに、奇跡だと」

 算長の言葉がわかったかのように、南蛮人は声を揃えて笑った。五峰と篠川もつられて笑う。

 算長に、ふと悪戯心が起きた。さっきの夢がただの夢であることも確かめたかった。算長の法力ほうりきが健在であることを確かめるいい機会だった。

「望みとあらば見せてやろう」

 算長は隠形印おんぎょういんを結んだ。左手を握りその上に右の掌をかざす。

曩莫三満多のうまくさんまんだ 沒駄南ぼだなん おん 摩哩喞まりしえい娑嚩賀そわか

 三人の異国人は算長の手元を見ていたが、真言が唱えられると急に心細げに視線を彷徨さまよわせた。

 その目は算長を見てはいるが、見えてはいない。目の前にいるのはわかっているのに、彼らの目には見えないのだ。その心許なさは次第に恐怖に変わっていくはずだ。  恐怖が加速する頃合いに、算長はさらなる真言を唱える。根来寺に伝わる熾盛光しじょうこう使役法しえきほうである。

おん 嚩日囉ばざら 舎鳴しゃや栴檀摩尼しんだまに 嚩囉娜ばらだ 摩怛隷伽拏まとりがな 鳥摩般うまーばてい 惹野泥じゃややにい 些囉帝些囉帝さらていさらてい 怛儞也佗たにやた 怛籃たらん 娑嚩賀そわか

 印は降三世明王印ごうざんぜみょうおういん。交差させた手の甲を合わせて小指を絡ませる。

 南蛮人は細く悲鳴を上げ、這いつくばって逃げ回る。五峰は顔色を変え、腰のあたりをまさぐっている。武器を取ろうとしているのだろうが、それは城の入り口で預けたはずだ。

「あの、津田さま。いったい何が起きているのでございますか」

 篠川は大きな体を強張らせ、かすかに震えている。

「虎の幻を見ているのだ。異国人どもは明の山奥で虎に出くわし、今まさに喰われようとしている。篠川殿もいかがかな。この幻視を味おうてみては」

 絶叫しながら逃げ惑う南蛮人と、虎と戦っているのだろう空に掴みかかる五峰は、死にもの狂いだった。

 篠川は恐れをなして後ずさり、引きつった顔で首を横に振った。頬の肉がぶるぶると震える。

 算長は大威徳明王だいいとくみょうおうの印を結んだ。これは悪夢消滅法である。

おん 侏胝哩しゅちり 迦囉盧娑きゃらろは うん けん 娑嚩賀そわか

 真言が襖をびりびりと震わす。「はっ」と気合を入れると、三人の異国人は悪夢から醒め、焦点の定まらぬ目で宙を見つめていた。

「いかがかな。奇跡は起きたでござるか」

 我に返った三人は一斉に叫び声をあげ、口々に今見たものを喚き散らす。自分が見た光景はいったい何であったのか、と激しく詰め寄ってくる。

「夢である。儂がそなたたちに見せたのだ。だが、いまこの城にいるのが夢ではないと誰が言える。あるいは、虎と戦っている己のほうがうつつであるのかもしれぬぞ」

 五峰が算長の言葉を伝えると、南蛮人たちは青くなって震えた。体が一回り小さくなったようであった。

「五峰殿、火薬の作り方を我らに教えてくださらぬか。さすれば、今回の火薬の買値については、儂が殿に口をきいてやってもよいぞ」

 五峰は多分、拒むだろう。こちらが火薬を作れるようになれば、五峰の商売は成り立たない。拒んだその時には、今度は龍神でも見せてやろう、と算長は考えていた。

「わかりました。お教えしましょう」

 算長はぐっと言葉に詰まった。

「どうなさいました。津田殿」

「いや、教えてもらえるとはありがたい」

 さっそく南蛮人を慈恩寺に帰し、篠川は紙と筆を用意した。五峰は腕組みをし、まばらな髭を撫でながら言った。

「まず、銅の鍋を用意する」

 算長がそれを日本語にして篠川に伝える。

「鍋に硝石を十きん、水を一升五合入れる」

 篠川が書き留めようとして筆を止め、算長を見た。しかしすぐに急いで筆を走らせる。

「これを加熱攪拌かくはんしてどろどろにし、木炭三百もんめ、硫黄二百匁を順に加える。この時よくすり合わせて粒子が均一になるようにする。これをき固めて比重を高め、乾燥させふるいに掛ければ出来上がりだが、どの程度乾燥させるかは経験が必要だと言っている。どうじゃ篠川殿、これで作れそうか」

「そうですね。手順としてはさほど難しいことはないようです。五峰がこつを教えてくれるなら作れるでしょう。ですが津田さま、硝石とはなにかを聞いていただけませんか」

 算長が硝石について説明せよ、と伝えると五峰の頬がほんのわずか緩んだ。算長はそれを見逃さなかった。

「硝石というのはですね」

 五峰がいたって真面目に答える。

「別名、震旦しんたんの雪などとも呼ばれているように白い結晶です。明の内陸の乾燥した土地で採れるのです」

「わが国では、どこで採れましょうか。どのようにして採るのですか」

「残念ながら、日本では採れないのです。このように湿気の多い土地では採れません。あなたがたが、硝石を知らなかったのがその証拠です」

 なるほど、素直に火薬の作り方を教えたのはこういう訳があったのだ。火薬を売らなくとも硝石で儲けるという目算があったのだ。

「津田さま、硝石とはどのような性質のものか詳しく訊いてもらえませぬか」

 どういうわけか篠川の目は異様な光を帯びている。筆を持つ手にも力が入っているのがわかる。

「硝石とは、岩石中に薄層をなして産するものである。先ほども言ったように色は白色。味は苦く飲用すれば五臓の積熱を取る。赤熱炭上に投ずれば、たちまち炎上する」

 五峰が答えると、篠川の白い頬が朱に染まった。「間違いない」と小さくつぶやいている。

「作り方を訊いてくだされ。お願いでございます。津田さま」

「作り方? 硝石のか」

「はい、さようでございます」

 篠川は大きくうなずいた。

 しかし算長が問うと、五峰は硝石の作り方など知らないと言い張る。

 それを聞いても篠川はひるまなかった。

「いや、知っているはずだ。五峰はまたの名を王直というそうですね。王直という男ならば松浦まつらさまが平戸へ招いたという話は知らぬ者はおりません。王直は、明国は徽州歙きしゅうきゅう県の出だと聞いております。王直の母親の姓はワンといいまして、汪氏は地元では塩硝えんしょうの生産を一手に引き受けている一族です」

「塩硝?」

「はい。硝石などと言うからわからなかった。性質からいって塩硝と思って間違いないでしょう。それの作り方を五峰が知らないはずはない。算長さま、なんとか聞き出してはもらえないでしょうか」

 篠川はにやりと笑った。篠川の脳裡には、五峰が虎に追われて逃げ回る姿が甦っているに違いない。

 算長は、ふいに自分が虎になって五峰を追う姿が見えた。そこは明国の山中ではなく、種子島の森であった。倒木を軽々と超え、逃げる何かを追っていた。それは五峰であるはずだった。しかし、榕の巨木を回って獲物に追いついたとき、五峰の姿は消え馬毛鹿になっていた。虎になった算長は、迷わず後ろ脚を蹴って馬毛鹿の黒い首筋に牙を立てた。首の骨を噛み砕く音と感触が脳髄に伝わる。血の味が口中に広がる。息絶えた獲物から牙を外す。馬毛鹿と思っていた獲物は若い女だった。粗末な麻の小袖から白い脛がのぞいている。血の気の失せた白い横顔は見たことのない顔だった。 首に掛かる革紐をたどると、その先に奇妙なものが付いていた。その見慣れぬ形に算長は衝撃を受けた。それはほんの先刻、昼寝から醒めた算長がその手に握っていたものだった。

「津田さま、どうかなされましたか」

 篠川が怪訝そうに訊いた。

「いや、なんでもござらぬ」

 算長は、額の冷たい汗をぬぐった。

 五峰は法力を使うまでもなく、算長が凄んでみせると硝石の作り方を白状した。しかし硝石は、数年をかけて培養しなければならないという。篠川は、火薬づくりに加えて硝石の生産にも力を注ぐことになったのだった。

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