怪人と星人。時々、探偵。

鶴賀桐生

一章

第1話 運命の出遭い


 炎の海の中に――怪物が立っている。


 地に着いた足下を炎にからせ、天から降り注ぐ雨を浴びながら。

 全身を禍々しい外骨格のような皮膚で覆われた怪物は――それでも、人の形をしていた。


 二本の腕を伸ばし、二本の脚を生やして、それを一つの胴体で繋げ、一つの頭を乗せていた。


 怪物と化した人のような何かは、雨に濡れた顔を上げる。

 そこから垂れる雨雫は――まるで、一筋の涙のようにも見えた。


 だが、それでも――この上なく禍々しい、紛うことなき化物は。

 硬質な皮膚に覆われた、全ての感情を失った異形の仮面のままに――その刃のような手で、ひとりの女性を掴み上げる。


 女性は怪物の腕一本で高く吊り上げられながらも、片手で締められている細い首から――ただ、そんな光景を見ていることしか出来ない無力なる男に向かって、掠れるような声を絞り出すように、言う。


―———て。……お願い。


 炎の海の中で溺れるように倒れ伏せて。

 立ち上がることも出来ず、ただ見上げることしか出来ない、無様極まる男へ。


 異形の怪物に。怪物のような人形ひとがたに。

 その華奢な首を絞められ続けながら――それでも。


 男に向かって手を伸ばし、女は――血を吐かんばかりに叫ぶ。



―———お願い……っ!!



 そこで――男は。


 



「――――っっ!!」


 耳の中に激しく響く鼓動音を聞きながら、思わず荒げた息を漏らした。


 膝に残ったタオルケットに、身体を預けていたソファ。

 揺れるカーテンの隙間から漏れる外の光と、窓の向こうから響く――世界を包むような、雨音に。


 自分が――、夢を見ていたのだと気付いて。


「…………くそっ」


 男は――黒上くろかみ家光いえみつは、思わず小さく舌を打った。


 雨音が響き続ける夜は、決まって悪い夢を見る。


 決して忘れらないものを、忘れるつもりもないものを――それでも、決して忘れるなと、誰かが心に突き付けられるように。


「………………」


 ぐっしょりと汗で濡れたシャツが、まるで外の雨を浴びたかのようで不快だった。


 ベッド代わりにしている黒いソファも嫌な感じに湿っていて、男は溜め息を吐きながら起き上がり、テーブルに置いてあったラジオの電源を入れて冷蔵庫へと向かった。


『――さて、お聞きいただきましたナンバーは、MIUミウで『ハロウィン・ウエディング』でした! 本日は10月24日。ハロウィンはいよいよ来週に迫っています! 今年は新たな東京の名所となるスカイハイタワーのオープンイベントも開催されるとあって、例年以上の盛り上がりとなること間違いなし――』


 ラジオから流れる興味の湧かないニュースを右から左に聞き流す。

 ごくごくと喉を鳴らしながらペットボトルのミネラルウォーターを体内に流し込むが――それでも、耳の中には雨の音だけが五月蠅うるさく響き続けていた。


 からになったペットボトルを握り潰して、男はそれをゴミ箱に放り投げながら、ラジオの電源を消し――汗を流そうとシャワーを浴びに向かう。


「………………」


 耳障りな雨音と、すっかり暗闇に慣れてしまった視界。

 そんな世界に浮かび上がる――まぶたの裏と、脳の裏に、執拗にこびりついて離れない、いつまでも居座り続ける、に。


「————ッ!」


 男は、握りしめた拳を壁に叩きつけながら。

 今日もなかなか寝付けそうにないと――何もかもを洗い流すように、冷たい水を頭から被った。






 ◆ ◆ ◆






「ほら、家光いえみつ。もう朝よ。さっさと起きて」


 再び目を開けると、そこは明るい世界だった。


 どうやら雨も上がったようで、揺れるカーテンを押し上げるように、開いた窓の外から柔らかい風と共に陽光が差し込んでいる。


「——麻梨枝まりえ?」


 睡眠不足を強く訴える倦怠感と戦いながらも、無理矢理に身を起こした家光は、眉に皺を寄せながら己を覗き込んでいた、その見慣れた顔に向かって言った。


 もり麻梨枝まりえは、そんな幼馴染に向かって「おはよう」とだけむすっとしながら告げると、くるりと身に付けたエプロンを翻すようにシンクへと方向転換した。


「さっさと顔洗って、少しはシャキッとしてきなさい。今日は珍しく依頼しごとがあるんでしょう?」


 家光はソファから足を下ろしながらも、未だ腰を上げないままに大きく欠伸をして「…………いや、なんでお前いんの?」と今更ながらに問う。


 自身がベッド代わりにしているソファと、テーブルを挟むようにして向かい合う形で配置された来客用のソファ。シンクはさらにその向こう側にある。


 そこで何故か家主の如く、エプロンを着用しながら隣に設置されたガスコンロでアツアツの味噌汁をかき混ぜている幼馴染。

 これは、家光がこの事務所をオープンしてからもうすぐ一年が経とうとしているが――実は割と頻繁に目撃される光景だ。


 幼馴染曰く――。


「——だって、放っておいたら家光、碌にごはんも食べないじゃない」


 そう言いながら麻梨枝は、カロリーバーの空き箱でいっぱいなゴミ袋を持ち上げつつ振り返る。


 じとっとした目でこちらを睨んで来る幼馴染から、家光はそっと目を逸らした。

 この一年間、小言を言われ続けながらも変えられなかった、一人暮らしの男の無頓着な食生活であった。


「冷蔵庫の中には他にミネラルウォーターしか入ってないし。本当にどうやって生きてるのよ? それで頭は働くの?」

「大丈夫だよ。頭脳労働用の糖分は冷凍庫の中に詰め込まれた板チョコから摂取してる」


 全然大丈夫じゃないでしょと、相も変わらずの幼馴染に対して呆れたように肩を竦めつつ、再び味噌汁と向き合い始めた麻梨枝。

 そんな彼女の小言を聞き流しながら、家光は欠伸を噛み殺して、未だにこびりつく眠気を吹き飛ばそうと洗面所へ向かい始めた。


「本当に、こんなんでよく探偵なんか務まるわね」

「…………」


 麻梨枝の言葉に、己の表情がなくなったことを自覚しながら、そんな無表情を無理矢理に破壊せんばかりに、冷水を強く顔面に叩きつける。


 そう、黒上家光は探偵である。


 約一年前——男は探偵になった。


 警察手帳と手錠と拳銃を捨てて、ただの探偵に――成り下がったのだ。


「…………」


 ごしごしと情けない顔を削ぎ落すように、顔をタオルで強く拭って、家光は洗面所からフロアへと戻る。


 最低限の物も揃っていないのではないかと思える程に簡素な、打ちっ放しのコンクリートが剥き出しの――己が城。


 自宅兼探偵事務所を眺めながら「…………で? 本当ん所、何で来たんだ? 麻梨枝」と洗面所のドアに背を預けながら、家光は幼馴染に問い掛ける。


「何でって――言ったでしょ? いつもの生存確認よ。ここの所、忙しくて来れなかったから――」

「それでも、いつもなら事前連絡くらい寄越すだろ。それに――」


 お前も、仕事前なんだろ? と、麻梨枝がエプロンの下に着ているスーツを指差しながら、家光は言う。


「事前に社長から俺に依頼が入ってることも聞いてたみたいだしな。休日でもないにも関わらず、それでもわざわざ出勤前にウチに寄ったってことは――それなりの訳があるんじゃないか?」

「…………」


 麻梨枝は沸騰した鍋の火を止めながら、引き締めた表情のままに、エプロンで手を拭った後――テーブルに置かれたテレビのリモコンを手に取った。


 そして、テレビの電源を点ける。


 画面に現れたニュースキャスターが張り上げた声で読み上げる本日のトップニュースを聞いて――家光は思わず、呆けるように口を開けた。


『――これが、本日マスコミ各社へと届けられた【予告状】です! 一年ぶりに、あの爆弾魔が帰ってきました! 爆弾魔【レイヴン】の復活に対し、現在までに警察は正式な声明を発表しておらず――』


 口を開けたままテレビを眺める家光に「…………捜査情報は、部外者には教えられないんだけど」と。


 シンクに腰を預けたまま――女刑事たる森麻梨枝は、探偵となった元同僚の幼馴染へ問い掛ける。


「——だと思う?」


 彼女の声に続いて、ニュースキャスターが『これが、此度【レイヴン】がマスコミ各社に送った【予告状】の全文です』と、明朝体のフォントで本文が書かれた一枚のカードの内容をモニターに映し出した。


【来たる10月24日、祭りの始まりを告げる号砲を放つ。

 死の騎士も、愛の聖職者も、我が飛翔を止められはしない。

 我を止めたくば、莫大なる金貨を捧げ許しを請うか、燃える棍棒を手に立ち塞がるがいい。

 全てを呑み込む皇帝と共に、我は君達を歓迎しよう。


 我こそは――爆弾星人『レイヴン』なり。


 追伸 再び、アナタに逢えるのを楽しみにしている。我が宿敵よ】


 ニュースキャスターが『この末尾に記された“宿敵”とは誰を指しているのか、こちらに関しても警察から具体的な返答はなく、現在鋭意捜査中とのことで――』『また、かつて巷を騒がせた爆弾魔【レイヴン】は己を【爆弾魔人】と称していましたが、此度の予告状では【爆弾星人】と記されていることから模倣犯の線も疑われていて――』などと話しているが、麻梨枝はそんな音声を発するテレビではなく、真っ直ぐに、ただ家光の表情を見据えていて。


「…………」


 家光は、表情を引き締めながら、ゆっくりとソファに戻って「……本物だろうと、偽物だろうと、そんなのは関係ないだろ」と、ドカッと勢いよく体重を預けながら言う。


「どっちにしろ、マスコミ各社にこんな予告状をばら撒いたんだ。その分だと、警察にも事前に送ってきたんだろ? コイツが本物にせよ、アイツを真似した模倣犯にせよ――


 それを止めるのが、お前たちの仕事だろ――と、家光は言った。


 それが、警察の――刑事の仕事だと。


 それは、探偵の仕事ではないと――幼馴染と、目を、合わせることもせずに。


「……そう、ね。ごめん。バカなことを聞いた」


 麻梨枝は小さく呟くと「じゃあ、お味噌汁、好きな時に食べて」と言いながらエプロンを外して――スーツ姿になって。


 刑事は、探偵に、背を向ける。


「——ねぇ、家光。どうして、探偵なんて始めたの?」


 それは、この一年間、彼女がずっと、心に秘めていた疑問おもいだった。


 ずっと聞きたかった。だけど、ずっと聞けなかった。


 どうして――黒上家光は、刑事を辞めて、探偵となったのか。


 誰よりも使命に燃え、誰よりも強い熱意を持って、刑事デカとして生きていた筈の家光が。


 どうして、一年前のあの日、手帳と、手錠と――拳銃を、置いたのか。


「ねぇ、家光。、何が――」


 そして、そんな少女の一年越しの決心を――掻き消すように、電話の音が響いた。


 発信源は、家光が無造作にソファに放っていた携帯電話だった。


 しばらくは放置してたが、鳴り止まない電話に、ゆっくりと家光が手を伸ばす。


「…………悪ぃな、麻梨枝」


 俺は、戻れねぇよ――ただ、それだけを告げて、家光は携帯を耳に当てた。


 口調は柔らかくも、明確なる、その拒絶の言葉に。

 一年という月日が経っても、幼馴染すら立ち入りを許さない――男の抱える、真っ黒な闇に。


 麻梨枝は、深く、目を瞑って。


「————ごめんね」


 震える声で、そう言って――静かに、男の城を後にした。


「…………」


 家光は、そんな幼馴染の背中を見送った後、自身もまた、深く一度目を瞑って「…………はい。黒上探偵事務所」と、ようやく電話に応答した。


「……ああ、社長ですか。ええ、すいません、麻梨枝が来ていて。ていうか、麻梨枝に依頼のことを教えたのは社長アンタでしょうが。……分かってます。あっちには行きませんよ。依頼しごとを優先します。決まっているでしょう」


 


 そう、鋭い眼差しでもって言う家光に『――了解。予定通り、この依頼はアナタに任せましょう』と、電話の向こうの【社長】とやらは続ける。


 社長から説明される、本日の依頼内容を聞きながら。


 家光は、未だ【爆弾魔】についてのホットなニュースをお届けし続けるテレビに向かってリモコンを向ける。


―—また会おう。愛しの宿敵。


 かつて。およそ一年前。

 が起きる直前だった、かの爆弾魔との最後の遭遇時に残された捨て台詞を。


 一瞬、脳裏に過ぎらせながらも、家光は強く、テレビのリモコンの赤い電源ボタンを押して。


「——分かりました。その事件ヤマは、今日中に解決します」


 思わず、刑事時代の口癖を出しながら。

 それでも――刑事ではなく探偵として、スーツではなくライダースーツに着替えて。


 呷るように、一杯の熱い味噌汁を体内に流し込み。


 黒いヘルメットを手に取って、家光は一階の車庫へと向かった。





 

 ◆ ◆ ◆






「――犯人は、アナタだ」


 社長に啖呵を切った通り、陽が沈む頃、家光は依頼を見事に片付け終えて、依頼者の家を後にしようとしていた。


 その日の依頼は、殺人事件の捜査だった。


 ちょうどこのそらのように、ほんの少し薄暗い――真っ白ではない背景を持つ殺人事件。


 表に出せず、光も当てられない。何の後ろめたさもない正義の味方たちを関わらせるわけにはいかない訳アリ物件が、今の黒上家光の主食だった。


「……ありがとうございました。探偵さん」

「いえ。後は本社の人間がやってきて、うまいこと後処理してくれると思うので。それよりも、何処で誰が見ているか分からない。俺みたいのとツーショットが撮られないように、早く家の中に戻った方がいいですよ」


 そこは高級住宅街に構えるに相応しい豪邸だった。

 明らかに権力という栄養素をたっぷりと取り込んでいそうな巨大な屋敷だが、権力というものは金や力だけでなく、副作用として身体を蝕む毒も多分に含んでいる。

 そんな黒いものが澱んで、膿んで、凝り固まった結果――まるで病巣のように内部で発生したありふれた悲劇の混乱を、いつも通り、まるで凄腕の外科医のような鮮やかな手際で、見事に取り除いてみせた『探偵』を見送るのは、目の前で俯く若い女性ただひとりだった。


 此度の悲劇で散った男のむすめであり、此度の悲劇を起こした女のむすめでもあった。


 彼女は家光の言葉に沈痛な表情を浮かべながらも、彼の指摘に最低限は従うという意味でか、敷地の外には一歩たりとも足を出さずに。


「……何から何まで、ありがとうございます。帰り道は――どうかお気を付けてください」


 そして、彼女は――その育ちの良さを見せつけるように、恭しく、美しく頭を下げながら言った。


「この辺りは、近頃——とのことですので」


 そんな彼女の荒唐無稽な忠告を、黒上家光は笑わなかった。


「ありがとうございます。ですが――望むところですので」


 なぜならば――


 刑事ではなく――探偵として。


 宿敵との再会ではなく。爆弾魔との再戦ではなく。


 何の変哲もない殺人事件の解決と、何の信憑性もない都市伝説の調査を、自ら、進んで、選んだのだから。


 ぎぃ、と、巨大な門が閉まる。

 まるで檻に閉じ込められたように、彼女は向こう側から家光を――悲しい瞳で見送っていた。


 否――檻に放り込まれたのは、自分の方なのかもしれないと、家光は思う。


 飢えた獰猛な怪物が、喉を鳴らしながら待ち構える、檻の中へ。

 彼女は、そんな悲しき餌たる自分を、哀れむように見送っているのかもしれないと。


 だが、それでも――黒上家光の思いは変わらない。


 望むところ――だ。


「…………」


 空を見上げる。

 血のような赤が、無慈悲な黒に塗り潰されていく。


 化物が、蠢き出す時間だった。




 


 ◆ ◆ ◆




 


 これが、今の――黒上家光の日常だった。


 限りなく黒に近いよごれが付着した、表に出せないような怪しい仕事をこなしながら。


 怪談や都市伝説を並行して調査しつつ――塗り潰すように、一つずつ、虱潰していくだけの日々。


 下らない徒労と知りながらも、それでも、何かせずにはいられなくて。


 ただただ無闇矢鱈にバットを振り続け、三振の山を自主的に積み上げるような毎日だった。


 故に、この日も、実の所、そんなに期待していなかった。


 むしろ、あんなことを言いながらも、今朝ニュースで見た、かつての宿敵の予告状に対して、半分以上は思考のリソースを消費していたのかもしれない。


 それでも、警察官でなくなった自分に、刑事でなくなった黒上家光に――そんな資格なんてないと、必死に己へ言い聞かせながら。


 夜の高級住宅街を練り歩き、パトロールという名の徘徊を続けていた。


 だから、本当に、いつの間にかだった。


 気が付いたら――碌に街灯すらない、真っ暗な道に入り込んでいた。


(――妙だな。この辺りは腐っても高級住宅街だ。人通りは少なくとも、設備はきちんと整っている筈だけれど)


 それとも、既に住宅街からも抜けてしまい、知らない街へと迷い込んでしまったのか。


 だが、そんな不穏なシチュエーションでこそ――人は、怪異に遭遇するのだと、家光は知った。


 バチバチと、瞬くように、光が走った。


 街灯はなかったのではなく、ただ消えていたのだと分かった。

 その中の、たったひとつの光が、切れかかった電球の最後の抵抗とばかりに点滅し――灯る。


 そして、照らし出す。


 人工的な光が、闇に守護まもられていた――その怪異を、暴き出す。



 そこに、世界の異物のような――化物がいた。



「な――――」


 それは、人の形をしていた。

 二本の腕が伸び、二本の脚が生え、それが一つの胴体で繋がり、一つの頭が乘っていた。


 だが、それだけだった。


 それが残した人らしさは、たった、それだけ。


 それ以外は、全てが異形だった。


 全身は硬質な外骨格のような皮膚が覆い、頭部は兜を被った馬のようで。


 まるで、我こそはこの世界に存在してはならない禁忌だと、全身で表現しているようでさえあった。


「……おいおい、気が早い野郎だな。ハロウィンは来週だぞ。今はまだコスプレで出歩いたら只の不審者案件だぜ」


 一気に早くなる鼓動を抑えようと、家光は笑みを浮かべながらそんな戯言を呟く。


 だが、人形ヒトガタの怪物は、そんな男の呟きなどまるで聞こえていないかのように――誰もいない空間へと、その口を開いた。


 否――口を開けず、身体のどこからか声のような音をただ発して、言葉らしきものを紡いだ。


『――目撃者か。面倒な。あなたのせいですよ、【姫】。あなたが何処までも逃げ続けるから、こうして無用な犠牲者が生まれてしまう』


 怪物は、その馬のような頭の、今度こそ――口を開いた。


 そして――そこから、を、吐き出した。


「—―――っ!!」


 瞬間――家光の身体は強張り、反射的に両腕で顔を覆い、片足を引いて踏ん張った。


 衝撃波。もしくは、突風。

 その正体の分からない何かは、突如として馬の口から放たれ、真っ暗な路地を猛烈な勢いで駆け抜ける。


 ただ一つ残った未だ仕事を果たす街灯が揺れて、青年の後方を照らし出した。


 黒い闇があるだけだった筈のその空間が、不自然に揺れる。

 ノイズが走ったかのように景色が歪んで――そこから、白い女が現れた。


『手間を掛けさせず、さっさとお縄について下さいよ。――【姫】』


 人の形をした怪物が、ただ突っ立ている目撃者なだけの男よりも、何よりもまずはと言うように、その女の元へと真っすぐに歩みを進める。


 こんなにも白い女が、今までどうやって黒の中にいたのかと思えるような、真っ白な女だった。


 突風のような衝撃波に吹き飛ばされた女は、手に持っていたアタッシュケースを手放しながら夜道に転がる。


 そのアタッシュケースが己の足下に滑るようにやってきても、家光はただ――女を呆然と見つめていた。


 白い女だった。

 純白の白衣を纏った、白髪蒼眼の美しい女性だった。


 生まれて初めて見るような、正しく【姫】が如き女性。


「――――」


 黒上家光は、そんな女から目を離せなかった。


 念願の遭遇を果たした怪物よりも、足下に滑り込んできた意味深なアタッシュケースよりも――その女から。


 吸い込まれるように、引き寄せられる。

 目が、意識が――その女から、離すことが出来ない。


 そして――。


「――――て」


 己こそが絶体絶命の窮地にありながら、真っ直ぐに――こちらに向かって、手を伸ばして。



「………………ッ!」



 そう、泣きそうに叫ぶ、女の姿に。


「――――ッ!!!」


 ――と。


 歯を食いしばり、拳を握り込んで。


 黒上家光は――足下に転がったアタッシュケースを手に取り。


「シカトこいてんじゃねぇぞ――馬面野郎がッッ!!!」


 今度は――今度こそは、動くことが出来た。


『鬱陶しいですねぇ。――人間ムシが』


 ガキン、と、まるで鋼鉄を殴りつけたかのようだった。

 家光が咄嗟に武器にしたアタッシュケースは中身をぶちまけながら、家光の身体ごと弾き飛ばされる。


 そして、人形ヒトガタの怪物は、そんながら空きの家光の身体に――掌を向けた。


 たったそれだけで、突風のような衝撃が、家光を路地の塀へと容赦なく叩きつける。


「ぐはっ!?」


 背中から肺を貫くような痛みに、一瞬だけ呼吸を失う。

 ずりずりと、そのまま塀に背中を預けて座り込んでいく家光に。


『弱く、脆く、そして哀れ。やはり人間は見るだけでテンションが下がっていく。ウザいので先に殺しておきますか』

「や、やめて! その人は関係ない! アナタ達は、私を取り戻すのが目的なんでしょう!?」


 立って! 逃げて! と、こちらに近付いてくる怪物の向こうで、必死に叫ぶ女の声が聞こえる。


(……ああ。ちくしょう。これじゃあ、あの時と同じじゃねぇか)


 何も出来ないままに――殺されて。


 何も出来ないままに――助けられて。


 そして、何も出来ないままに――救われる、だなんて。


「―――――ふざけんな……ッ!!」


 俺は、そんなことを繰り返す為に――やめたわけじゃねぇ。


 俺は、正しく、こんな時の為に――なったっていうのに。


「まだ!! こんなところで!! 終わるわけにはいかねぇんだよ!!」


 黒上家光は――往生際悪く、それを握りしめる。


 それは、女が持ち歩いていたアタッシュケースから零れたアイテムの一つだった。とにかく手当たり次第、何でもいいから武器が欲しいと思って掴んだだけの――『謎の結晶』。


「――ッ!! だ、ダメ!! それに触っちゃ――っ!」


 女のそんな声が聞こえるよりも先に、男はそれを手に取った。


 そして、立ち上がり、それを近付いてくる怪物にぶつけようと、思い切り振りかぶった時――。


 結晶は――光り輝き出した。


「え――――」


 そんな、場にそぐわない呟きを漏らしたのは、男か、女か、それとも化物だったのか。


 家光が右手の中に収めた、黒く禍々しい結晶は、そのまま闇を切り裂くような――を、突如として強烈に発し、家光の身体を包み込んでいく。


(な――んだ――――これ――――)


 黒い光に呑み込まれていく中、家光が幻視したのは――何処かの、暗い、地の底で眠る


 煮え滾る溶岩の中で、黒く、熱い――憎悪の中で、眠る、



(――――――)



 幻の中で――黒い獣と、目が合った、気がした。


 そして――漆黒の光を呑み込むようにして、


「…………………」


 白い女が呆然と見上げる中、人工的な光に、それは暴き出されていた。


 黒い男だった。

 漆黒の黒衣を纏った――正体不明の、禍々しい何かだった。


 二本の腕が伸び、二本の脚が生え、それが一つの胴体で繋がり、そこに一つの頭が乗っている。


 だが、怪物ではなかった。


 人形の怪物では――は。


 漆黒の鎧のような――禍々しき超人鎧パワードスーツを身に纏っていた。


『――アナタは、何者ですか?』


 男を人間ムシと呼んだ怪人は、改めて、男の正体を問う。


 漆黒の鎧を身に纏い、人工的な光に照らされる――黒い何かの、正体を。


 男は答える。


 たった一つの、その真実を。


「俺の名は、黒上家光――ただの探偵だよ」


 そして――探偵は。


 眩い光を裂くように、真っ黒に染まったその拳を振り抜いた。


 漆黒の拳が、馬頭の怪人に向かって突き刺さる。


『――――ぐ、ふぅッッ!!』


 先程とは逆だった。

 今度は怪人が、逆サイドの塀に向かって勢い良く叩きつけられ――ずるずると、背中を滑らせるようにして座り込む。


 漆黒の鎧の戦士は、拳を振り抜いた体勢のまま、蒸気のような息を吐いた。

 鮮血が如き緋色の眼光が、まるで闇の中に浮かぶように怪しく光る。


 ごくりと、白い少女は未だ立ち上がれないままに、そんな漆黒の男をただ呆然と見上げている。


 そんな少女の背後で『……馬鹿な……ッ!』と、馬頭の怪人が、開いていない口から真っ黒な血を吐き出しつつ、ぶるぶると震えながら立ち上がろうとしていた。


『どういうことだ……? その超人鎧パワードスーツ――否、怪人鎧モンスタースーツは、だ。着用者の命を食い潰すだけの兵器アイテム。適応した人間は……身に着けて、生きていた人間はいなかった筈だ!! 【姫】――いや【ムーン】様! アナタは、この欠陥製品を――既に完成させていたというのか!!』


 馬頭の怪人の口調が崩れ、血と共に罵声を吐き出す。


 だが、そんな絶叫をもらった【姫】と呼ばれた女は、そんな怪人の方を見向きもせず――ただ、漆黒の戦士だけを、首を振りながら見上げ続けていて。


「違う……いえ、そんな筈――」


 怪人の言葉は正しかった。


 女が持っていたアタッシュケースに入っていた『結晶』――あれは、正しく、女が開発した殺人兵器だった。


 それも、敵ではなく味方を殺す兵器。

 という、文字通りの欠陥製品。


 だからこそ、女は止めた。

 それはダメだと。それだけはダメだと。


 そして、だからこそ、女は目の前の光景が信じられない。


(スーツを着用している……ッ? スーツに――コアに、しているっていうのッ!?)


 漆黒の鎧を纏った戦士が、動き出す。


 緋色の眼光を迸らせながら、のろのろと立ち上がろうとしている怪人に向かって、ゆっくりと歩み寄り。


(不思議だ……。よりも、意識は鮮明クリアなのに――)


 拳を鋼鉄のように握り込み――真っ黒な光を纏わせて。


(湧き上がってくるは――そしては、あの時よりも遥かに――凄まじく、はげしい)


 一瞬で懐に潜り込み、噴き上がる炎のように――その拳を突き上げた。


『――――ッッ!!!』


 たった一発で顎を打ち砕かれた怪人は、そのまま強制的に天を仰がされ、悲鳴を上げることすら出来ずに混乱する。


 そして、そんな混乱を掻き回すように、がら空きの胴体へと、黒い拳は――連打された。


「ウォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」


 殴る。

 殴る。殴る。

 殴る。殴る。殴る。殴る。

 殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。

 殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴って――――殴り続ける。


 一発のアッパーカットで宙に浮かせた巨体に、決して着地を許さないとばかりに、両腕を交互に突き出して殴り続ける。


 蒸気のような息と共に、猛獣のような雄叫びを上げながら。


 血のような眼光をどんどんと強く輝かせて――悍ましき怪人を原型を残さずに肉塊へと変えていく。


「…………」


 そんな、漆黒の戦士を、白い女は――ただ、見ていて。


 殴られ続け、殺され続けた怪人は、いつしか痛みを忘れ、ただ猛烈に迫る死期を感じながら。


(――――まさか―――――お前、こそが――)


 そして、断末魔も、遺言も、残すことすら、許されず。


「――ォォォオオオオオオオオオオァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」


 最後に大きく、強く振り抜かれた渾身の拳によって――怪人は木端微塵にされた。


 一塊の肉塊は、バラバラの肉片へと殴り砕かれた。


 夜天に向かって拳を突き上げた体勢で、漆黒の戦士は黒い血の雨を浴びている。


 無論、その黒い雨は、真っ白な女にも同じく降り注いでいた。


 それでも女は、それでも男を、見つめ続けずにはいられなかった。


 自分がこの手で作り上げてしまった漆黒を。

 自分がこの手で生み落としてしまった漆黒を。


 自分が、この手で、この世界に、呼び戻してしまったかもしれない――漆黒を。


 そして――そんな『漆黒』を着用し、適応したかもしれない。


 自分が、この世界で、何よりも追い求めていた――真っ黒な、希望を。


 人工的な白い光に照らされた、真っ黒によごれる、黒い男を。


 白い女は、見つめて――そして、その見つめる先で。


「――――ぁ」


 突如として、漆黒の鎧は黒い光の粒となって消えて――中から、黒いライダースーツを着用した男が露わになり。


 目を瞑っている男は、そのまま眠るように、黒い血の海の中にパシャリと沈み、そのまま気を失った。


「…………」


 しばし呆然としていた白い女は、そのまま黒い血の海を泳ぐようにして、男の元へと進み――手に取った。


 もしかしたら世界を救うかもしれない――あるいは世界を滅ぼすかもしれない。


 真っ黒な希望を。あるいは、真っ黒な絶望を。


 それでも、その手に掴むことを、この日――白い女は、確かな覚悟を持って決断し。


 自らの手で、選んだのだった。

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