第5話


 ここ三日、また織之助が帰ってくるのが遅くなった。

 共有スケジュールを見る限り、特に急ぎの仕事が入っているというわけでもなさそうだけれど……。と、鈴は一人マフラーに口元を埋めてビルから一歩踏み出した。

 刺すような寒さに身を縮めながら、暗い道に足を進める。


「……うーん」


 たった三日とはいえ、なんだか違和感がある。


(正成さまもなにか最近おかしいし)


 来週までの予定で先延ばしにできるものは全部先延ばしにしろと言われたのは、ちょうど正成と織之助が徳川に呼び出された日だ。 

 そうして空けたスケジュールの時間で正成は織之助となにやら調べ物をしているらしい。

 くわしいことは教えてくれなかったが、徳川関連で何かあったのは間違いないだろう。


(雪も最近見ない)


 正成が社長室に篭りっぱなしなので鈴も外出をする必要がなく、昼休みは食堂で過ごしていた。前は狙ったかのように雪と食堂の入り口で鉢合わせていたが、それもない。

 たかが三日なので食堂の気分じゃないと言われればそれまでなんだけれど――。


「土屋さん!」

「え?」


 悩みながらゆっくり歩いていた鈴を呼び止めたのは、若い男の声である。


「す、すみませんいきなり……」


 申し訳なさそうに眉を下げて頬をかく男性に見覚えはあった。

 ひと目で上質なものだとわかるようなコートに靴、少し気弱そうな表情。


「信吉、さん?」

「はい!」


 ちょっと自信がなかったため語尾に疑問符がついてしまったが、信吉は特に気にした様子もなく、むしろ嬉しそうに返事をした。


「どうかされましたか……?」


 偶然だろうか。

 今いる場所からパウロニア本社ビルは遠くない。もしかしたら本社に用事があってたまたま――とか。

 なんとなく胸の奥がそわそわとしてくる。

 ときめきとかそういった類いではなく、嫌な予感で、だ。

 

「あの、今回のことなんですが」

「今回のこと?」


 ちょっと気まずそうな顔で信吉が鈴を窺った。


「はい。すみません、父がなにやら張り切ってしまって」

「……なんの話ですか?」


 まったく話が読めず、首を傾げる。

 信吉は少し照れたようにはにかんで答えた。


「僕と土屋さんが婚約することになった件ですよ」

「――え?」


 聞き慣れない単語に脳が考えることを放棄する。

 それをなんとか無理やり動かして、信吉の口から飛び出した言葉を噛み砕き――


(婚約⁉︎)


 叫ばなかっただけ褒めてもらいたい。

 目を丸くした鈴に、信吉はきょとんとして言葉を続けた。


「ご存じないんですか……? そちらの会社が行った不当請求を見なかったことにする代わりに僕と土屋さんが婚約するっていう話です」

「は、つみみ、ですね……」


 なんだその話は。

 不当請求のふの字も聞いたことがない。婚約もだが、知らないうちになにかが大きく動いている。


(……帰りが遅いのはこれが原因か)


 正成が急にスケジュールを空けてなにか調べ物をしているのも、このせいだろう。

 ――また、知らないところで勝手に。

 怒りなのか悲しみなのか、はたまたその両方か。ふつふつ湧き上がった感情にぎゅっと拳を握る。


「こんなこと言ってはあれですが、僕は嬉しいです」


 ふわふわとした口調の信吉の声はもはや鈴に届いていない。


「あの、土屋さん、このあとお時間とか……」

「すみません、ちょっと用事があるのを思い出しました! 失礼します!」


 慌ただしく頭を下げ、返事を聞く前に踵を返す。

 なりふり構わず走り出した鈴の背中を信吉は呆然と見送った。






     ◇ ◇ ◇ ◇





 チーターもびっくりの速度で本社に戻った鈴は、肩で風を切りながら廊下を突き進んでいた。

 社長室や秘書室があるフロアは閑散としていて、足音がやけに大きく響く。


「土屋さん?」


 今日はよく呼び止められる日だなあ、と思いつつ振り返ると、ちょうど秘書室から出てきた古賀が驚いたように鈴を見ていた。


「あっ古賀さんおつかれさまです!」


 足は止めたが勢いは止まらなかった。

 いつもより声が大きくなった声が廊下いっぱいに響き渡る。古賀は少し面食らって、それから小さく眉を寄せた。


「どうしたんです? 先に帰られたのでは……」

「ちょっと、社長に確認したいことがあるのを思い出しまして……。社長まだいますか?」

「ええ、副社長と社長室でお話しされてますよ

「織之助さんも……」


 やっぱり、と思った気持ちがそのまま声に出てしまった。

 その気安い呼び方を古賀はしっかり聞き取ったらしい。ぴくっと唇の端が震えた。


「……土屋さんは、橘副社長とどういう関係なんですか?」


 古賀の静かな声さえ、今の廊下にはよく響く。

 感情が見えない質問に鈴は心臓がぎくりとなるのを感じた。


「えっ、ええと……古い知り合い、ですかね……?」


 間違いではない。

 約四百年前からの古い知り合いだ。

 

(恋人、とか社内で公言するのは無理だしなあ……)


 仮にも社長秘書と副社長がそういう関係、というのは外聞がよろしくないだろう。

 ――というのは建前で、シンプルに自分が仕事しにくい。

 正成や士郎、雪にバレているだけでも気恥ずかしくてやりにくいのだ。周知の事実になってしまったらいたたまれない。

 そこまで考えて苦い顔になった鈴を、古賀は顔色ひとつ変えずに質問を重ねた。


「社長や専務ともですか?」

「はい、まあ」


 鋭い視線に背筋が伸びる。

 ――正成や織之助、士郎と距離が近すぎるという叱責だろうか。

 秘書なのだからわきまえろ、と言われたら頷くしかない。

 

(正直、前世からのつながりに甘えてる部分は思い当たる節がありすぎる)


 まだ新人ということでもしかしたら目を瞑っていてくれたのかもしれない。

 けれど秘書室に配属されてもう三ヶ月。そろそろちゃんとしろよ――ということか。

 勝手に続く言葉を予想していると、古賀が低いトーンで告げた。


「背後には気をつけてくださいね」

「え?」


 なんの感情も窺えない表情が鈴をまっすぐに見ている。

 その瞳の冷ややかさに思わず一歩足を引く。

 ぞわぞわと背筋を這う嫌な悪寒は、気のせいじゃない。

 体をこわばらせて口を結んだ鈴に、古賀はふっと空気を和らげた。


「社長と副社長と専務、どうやら御三家なんて称されているようですので、女性社員から嫉妬されてしまいそうだなと」

「あ、あーなるほど! たしかにそうですね、気をつけます!」


 その珍しい冗談を笑って、ばくばくと鳴っていた心臓を誤魔化す。


(び、っくりした)


 背後には気をつけろ、とか言うからてっきり本当に刺されるかと――……。

 考えて、じくりと胃のあたりが熱くなった。


「では、私はこれで失礼します」


 小さな違和感の正体を探ろうとしたところで古賀が軽く頭を下げて秘書室に戻る。


「おつかれさまです……?」


 さっき秘書室から出てきたところだったと思ったのは気のせいだったのか。それとも、鈴の足音があまりにうるさかったから様子を見に顔を出したのか。

 ――結局よくわからないまま、鈴は本来の目的である社長室へと足を早めた。


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