第3話
「例の徳川信吉について調べたところ、信吉にはすでに婚約者がいるようです」
静かな社長室に雪の声が淡々と響く。
婚約者という言葉に一瞬怯んだものの、その言葉の意味をよく噛み砕いて小さく息を吐いた。
「……そうか」
なんとなく安心した顔になった正成が短く応える。
――思い返してみれば、前世で鈴は信吉の側室として迎え入れられた。つまり、正室はほかにいたわけで。今世で信吉がその正室だった方と結婚をしていてもなにも不思議じゃない。
もっとも、まだ婚約らしいが。
男三人がそれぞれ安堵していると、雪が苦い顔で言いにくそうに口を開いた。
「いるみたいなんですけど……」
その言い回しに胸騒ぎがする。
視線を向けて先を促すと、雪は思い口で続きを話し始めた。
「どうもここ数日、婚約解消に向けて動いているみたいなんです」
雪の報告を受けて正成が深く眉間にしわを刻んだ。
織之助も士郎も各々表情が硬くなる。いやな悪寒が背中を走った。
「その情報は確かなんだな?」
「はい。確かな筋からの情報です」
訊いたのは正成で、雪はそれに一も二もなく頷いた。
いまさら雪が不確かな情報を持ってこないことはわかっているが、嘘であって欲しい気持ちから出た質問だったのだろう。
織之助にもその心情は理解できた。
「……仮に」
しわの寄った眉間を指で押さえながら、正成が声を絞り出す。
「信吉が鈴に惚れていて、それが婚約解消の理由だとすると……。鈴を信吉の嫁にしようと徳川が言ってくるかもしれない」
一番考えたくないことだけれど、前世をなぞるのであればもっとも可能性が高い。
――が。
「徳川が真正面から鈴を奪いにくるとは思えません」
織之助は冷静に頷きつつ私見を添えた。
信吉ひとりならいざ知らず、そのバックについてる大狸が何の策略もなしに鈴を取りにくるはずがない。
そしてそれは、おそらくなにか会社を巻き込んでの策になるだろう。
徳川は欲しいと思ったら徹底的にやる男だ。もともとこのパウロニアには目をつけていたようだし――と、織之助が正成を見た。
正成は応えるように首を縦に振り、その威圧感のある瞳を細めた。
「俺も同じ意見だ。……なにか仕掛けてくるぞ」
ぴりっとした緊張感が部屋を包む。
徳川のいやにぎらついた眼光を思い出して腹の底が煮えた。
「前世と同じなら、不当解雇がどうとか言ってくるんだろうけどな」
「さすがに今世でそれは難しいでしょう」
何かを堪えるように息を吐き出した正成に、織之助がすぐさま同意するよう頷く。
もし不当解雇があったとしても、それを理由に鈴を信吉の嫁にというのは無理がある。
ということは別の切り口からくるんだろうが、その内容を計れるだけの情報が今はない。
正成はまっすぐ雪を見た。
「雪は引き続き徳川の動向を探れるだけ探ってくれ」
「はーい」
呑気な返事だが目は真剣である。
その様子をしっかり見て、今度は織之助に視線が向いた。
「織之助は……鈴を手放すなよ」
「はい」
「頼んだ」
正成に言われるまでもない。
――二度も手放してたまるか。あんな思いをするのは前世だけで十分だ。
そう決意した織之助が強く指を握り込んだところで、やや不貞腐れたように士郎が正成に訊いた。
「……なあ、俺は?」
「おまえは……あー、普段どおり仕事に励め」
「……おう」
その緊張感の緩むやりとりに思わず苦笑いがこぼれる。
こうして笑えるだけまだ余裕があるな、と織之助は密かに思った。
◇ ◇ ◇ ◇
雪が社長室を出てから数分。
入れ違いのようにやってきた鈴の姿を見て、中にいた三人はぴたりと動きを止めた。
「え、どうしました……?」
おそるおそるといったふうに窺う鈴に、一瞬沈黙が流れる。
「……鈴」
「は、はい」
珍しく真剣な顔でその静寂を破った士郎を、緊張した様子で鈴が見上げた。
士郎は大股で鈴に近づくと、その肩をがっと掴み腹の底から絞り出すように声を出した。
「おまえ~! 織之助とくっついたならはやく言えって!」
きょとんと鈴が目を丸くする。
一瞬何のことかと逡巡する時間をとって――それから顔を一気に赤くした。
「な、な、な……!」
もはや言葉にならない鈴の声を聞きながら、織之助は鈴と士郎の間に割って入る。
鈴を庇うように立つと、士郎がむっと口を尖らせた。
「なんだよ織之助、ちょっと肩掴んだくらい……」
「触るな離れろ見るな」
「彼氏圧が強い!」
叫んだ士郎を軽く足蹴にしていると、それまで傍観していた正成が鈴の表情を見てにやりと笑った。
「まんざらでもないみたいな顔してるな」
「エッ、そんなことは……」
背に庇っているため見えなかったが、図星なのだろう。
ごにょごにょと言い淀んだ鈴と正成の距離が近い気がして胸がもやついた。
物理的な距離じゃなく、気心知れている雰囲気がどうも気に食わない。
「……正成様もあまり鈴をからかわないでやってください」
「……だ、そうだ」
「な、なんで私に振るんですか」
言ったそばからからかわれているのはやはり少しおもしろくはないものの、相手が正成なだけに重ねて注意はできない。
苦い顔になった織之助を見て笑いを噛み殺しているあたり、確信犯である。
「ふ、まあ、仲良くな」
「……はい」
表情を曇らせたまま頷いてそっと背後を窺うと、鈴は堪えかねたのか両手で顔を覆っていた。
隠しきれなかった耳が赤いあたり、照れているだけだろう。
ついそのかわいさに手が伸び――生暖かい視線が二人から注がれていることに気がついて不自然にその手を止める。
「俺らのことは気にせずどうぞー?」
「うるさい」
にやにやを隠そうとしない士郎にもう一度蹴りを入れておいた。
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