第3話

「俺の好みです」


 言って、みるみるうちに鈴の顔が赤くなっていくさまに優越感のようなものが胸をよぎる。

 唖然としてこちらを見る鈴はまさしく開いた口が塞がらないようで、大きな瞳をぱちくりさせていた。


「織之助の好みか」

「……はい」


 笑いを噛み殺して訊いた正成にやや苦い顔で頷くと、正成の隣にいる鈴が「ひい」とよくわからない悲鳴をあげた。

 その小さな手が再びしがみつくように正成の腕に添えられて、腹の底に熱を据える。


「正成さま、余計なこと言わないでください」

「何がだ」

「無理です死んじゃいます」

「だから何が」


 ひそひそと内緒話をする二人の距離は近く、これが人前でなかったら無礼を承知で引き剥がしていたかもしれない――と織之助がバレないよう拳を握った。

 衝動をぐっと堪えて、せめてとばかりに咳払いを二つ。


「社長、徳川殿にはご挨拶に?」

「これからだ。おまえが来るのを待ってた」

「ではご一緒します」


 にこやかに言ったところで「副社長」と、隣にいた古賀が織之助の腕をわずかに引いた。


「先ほどからあちらで北条様が」


 示された先を視線で追い、頷く。


「ああ、先に挨拶行くか。……社長、少々お待ちいただいても?」

「好きにしろ。徳川殿もまだ忙しそうだからな」

「ありがとうございます」


 正成がちらりと目を向けた先――初老のややふくよかな男性――徳川殿と呼ばれるその人は織之助よりも後にパーティー会場に着いたらしい。

 すかさず主催者に挨拶をしようとひっきりなしに人が訪れていて、今行ったところで順番待ちになるのは明らかだった。

 ならば先にこちらに気づいている北条殿に挨拶を、と織之助が向けた背中に鈴が小さく頭を下げた。


「いってらっしゃいませ」


 弾かれたように振り向いて――その光景につい頬が緩む。


「行ってくる」


 服装や場所は違えども、声と声に込められた想いは変わらない。


(まあ、鈴がこうやって黙って置いてかれることは少なかったが)


 織之助がどこか行こうとするたび「お供します」と言って聞かなかった鈴である。

 思い出して、つい小さく笑ってしまった。


「副社長、今日はなんだかご機嫌ですね」

「んっ……そうか?」

「ええ」


 北条殿のところまで行くそう遠くない距離の中、古賀が織之助を見上げた。

 機嫌がいい自覚はあると言えばある。

 なにせ自分が選んだドレスに身を包んだ鈴が目の前にいたのだ。

 思っていたとおり似合っていたし――、ああでも。


(隣にいられないのは痛いな)


 本人が気づいているのかは知らないが、やはりドレスを着ると大人びて見える。

 童顔だと鈴は嘆いているけれど、その顔がどれだけの男を魅了してきたか。

 ただでさえ変な男を引き寄せがちなのだ。

 それが綺麗にドレスアップしてみろ――と鈴に視線を向ける輩を忌々しく感じたところで、ふと鈴の隣には正成がいることを思い出す。


(正成様がいれば大丈夫だろうが……)


 二人の親密な距離感がそれはそれで焦燥感を生む。

 とはいえ、さすがに正成を蹴飛ばしてまで鈴の隣に立つわけにはいかない。

 こんなことになるなら誰より先に鈴を誘っておくべきだった――と考え込んだ織之助の腕から古賀が手を離す。


「……副社長の好み、意外でした」

「え?」

「大人っぽい方が好みかと」

「ああ……、いや」


 ドレスの好みで言えば、たしかに古賀が着ているような体のラインをわかりやすく出すタイプも嫌いではない。

 それを着る鈴も見てみたいとは思うが――。


(そんな鈴を衆人に晒せるか)


 自分だけが見るならそういった露出の高いものを選んだかもしれない。

 けれど今回は違う。

 鈴のパートナーは正成で、パーティーの主催は徳川。自分が入り込む余地はない。

 そんなところで鈴の肌をやすやすと見せてやる気には到底ならない――という恋人でもないくせに勝手な心情をごまかすように再び咳払いを二つ。


「まあ、時と場合による」

「……土屋さんと社長、随分仲がよろしいですね」


 古賀がちらりと後方を振り返った。

 相変わらず楽しそうに会話する二人の姿は前世でも少なからず見たことがある。

 ただ、前世では立場上必ずといっていいほど織之助がそばにいた。

 こうやって遠くから二人を見るのは初めてに近く――やはり少し焦りがよぎる。


「……昔からの付き合いだからな」

「社長と副社長も付き合いは長いとおっしゃっていましたよね」

「ああ。だから土屋とも面識はあるよ」

「そうでしたか。どうりで……」


 ちょうど北条殿が目の前に来たからだろうか、その先に続く言葉は聞こえなかった。





   ◇ ◇ ◇ ◇




「よかったな鈴」

「何がですか、本当正成さま性格悪いですよ」


 織之助たちを見送ったあと、鈴は腰に添えられた手をぺちんと叩いた。


「かわいい妹分を思ってのことだろうが」


 叩かれた手を戻す流れで軽く背中を叩き返される。

 軽く睨みつけるも、正成はなんてことない顔で鈴の持つ空のグラスを取った。


「酒は強くなかっただろう」

「……よくご存じで」

「織之助がうるさかったからな」


 何を思い出したのか正成の眉間にしわが寄る。

 ウエイターに空いたグラスを渡しつつ、「ノンアルコールを」と新しいグラスを受け取って鈴に渡した。


「ありがとうございます」

「これからひと仕事あるのに酔われても困る」


 正成が眼光鋭く一点を見やる。


「……徳川さまですか」

「ああ」


 視線の先、いまだ囲まれたままの徳川は人の良さそうな笑顔を浮かべて談笑していた。


(正直、徳川さまのことなんか苦手なんだよね……)


 はっきりとした理由はないけれど、徳川を見ると胸がざわつく。

 なにか大切なことを忘れているような、欠けているような――そんな気持ちがくすぐられるのだ。


「おまえは前に出なくていい。一歩後ろに控えてしゃべるな。話しかけられても俺か織之助が答える」

「はい」

「無表情でいろ」

「は……、ええ?」


 前半はともかく最後の指示はどういうことだろう。さっきまではニコニコしてろとか言ってたのに。

 鈴が首を傾げたのに気づいたのか、正成は酷く真面目な顔で鈴を見た。


「媚びは売るな。不細工に見える顔をしてろ」

「はい?」


 ますますわからない。

 わからないが、正成がふざけているようにも見えない。


「いいな」

「……はい」


 納得いかない部分ばかりだが、強く念を押されて頷く。


 やや離れた場所にいる徳川の周りがドッと盛り上がるのが聞こえた。

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