第6話




「なにか食べたいものは?」

「いえ特には……織之助さまは?」


 歩きつつ訊くと、織之助が困った顔で鈴を見た。


「その織之助さまっていうの、やめないか」

「えっ」


 思いがけない言葉に足が止まる。

 慌てて再び歩き始めた鈴を織之助は小さく笑った。


「お前のそういうわかりやすいところは変わらないな」

「そ、そんなにわかりやすくは……」

「ハハ」


 楽しげな声が頭上に降って、心臓の辺りがそわそわとする。

 

「ええと、それで、織之助さま呼びはどうしてダメなんですか」


 素知らぬ顔で話題を戻すと織之助が握っている手に力を込めた。

 痛くはないが振り払えるほど弱くはない強さに胸がまたくすぐったくなった。


「俺はもう鈴の主人ではないし――なにより、周りの視線がな」


 苦い顔になった織之助を見て――ああなるほど、と鈴は納得した。

 たしかに今の世の中、様づけで呼ぶ機会はあまりない。しかも苗字でなく名前にとなれば余計にだろう。


「じゃあなんて呼べば……?」


 鈴は頭を捻らせた。

 今までずっと織之助さまと呼んでいたから他の呼び方がわからない。


「あっ、副社長?」

「仕事のときはいいが、プライベートでそう呼ばれるのはな」


 ダメか。


(橘さん? 織之助さん? いやなんかどれも違和感……)


 強いていうなら「織之助さん」が一番今までに似ている。

 ただ――「織之助さん」と呼ぶのは少しばかり距離が近すぎる気がしてしょうがない。

 ちらりと織之助を窺う。信号待ちで足を止めている今がチャンスだろうか。

 

「織之助、さん?」


 口に馴染ませるように、確かめるように一度声にしてみる。

 思っていた以上になんだか恥ずかしい。

 織之助は優しく目尻を緩ませて鈴を見た。


「べつに呼び捨ててもいいぞ?」

「それは無理です!」


 断言した鈴に、織之助がまた愉快そうに笑った。




     ◇ ◇ ◇ ◇




 それから歩くことしばらく、大通りを二本奥へ進んだ先で人通りの少ないそこにたどり着いた。

 老舗、とでもいうべきか。

 都心部ではあまり見ない深いブラウンの小さなお店。

 オシャレなカフェという感じではないが、落ち着いた雰囲気が感じ取れる。


「ほら、鈴」


 外観をぼーっと眺めていると、織之助がさりげなくドアを開け、レディーファースト。

 ――この動作が嫌味にならずここまで様になる人、初めて見た。


「すみません、ありがとうございます」


 疼く心臓を抑えて、お礼を言いつつ中に入ると、ふわりと香るおいしそうな匂い。


「ハヤシライス……?」


 思わず呟いた言葉に後から入ってきた織之助が楽しそうに頷いた。


「正解。美味しいんだ、ここのハヤシライス」


 カウンター席がいくつかと、テーブル席は全部で四つ。

 そこまで広くない店内だが、それが逆に心地よく感じる。

 カウンター席はほぼ埋まっていて、おそらく常連客なのだろう、皆思い思いに時間を過ごしていた。


「お好きな席へどうぞ」


 にこやかに声をかけてきたウェイトレスに小さく頭を下げる。


「鈴」


 織之助が手招きをして、それに促されるままテーブル席の一つに腰をかけた。

 ちゃっかりソファー席の方に座らせられて、その手際の良さにまた一つため息が出る。


(こういうエスコートも完璧って……)


 日頃から細かいところに気づく人であるが、女性の扱い方にもそれが顕著に表れている。

 経験値だろうか……、なんてことを考えていると織之助がメニューを差し出した。


「何食べる?」

「あ、そうですね……」


 シンプルな手書きのメニューに、お店の温かさを感じる。

 控えめにハヤシライスの上にマスターおすすめと書いてあるのが可愛らしい。


「ハヤシライスにします」

「わかった」


 織之助が頷いて手を挙げ、慣れた様子でウェイターを呼び注文を終えた。


「ありがとうございます」

「ン」


 そこでいったん会話が切れる。

 なんとなく手持ち無沙汰でテーブルに置かれた品のいいグラスに注がれた水を見ていると、織之助が少し言いにくそうに口を開いた。


「鈴」

「? はい」

「……ご両親は息災か」


 訊かれて――、鈴は頬を緩めた。


「はい。おかげさまで」

「……そうか」


 笑って答えた鈴に織之助も目を細める。

 深く息を吐くようにつぶやいた織之助の声は心臓が痺れるほど優しい。


「ご心配いただき、ありがとうございます」

「個人的に気になってただけだから、礼を言われるようなことじゃない」


 バツが悪そうに苦笑したのを見て、鈴は首を横に振った。


「織之助さまが気にかけてくれていただけで、嬉しいんです」


 ――前世で鈴は幼い頃に両親と死に別れている。

 それをたまたま拾ったのが当時十五歳になったばかりの織之助だったのだ。

 前世と今世は違うとわかっていても、確かめずにはいられなかったんだろう。

 そういう優しいところが、鈴は好きだった。


 なんとなく見つめあったままでいると、織之助がゆっくり唇を開いた。

 そのまっすぐな瞳に息が詰まる。


「鈴は――」

「お待たせいたしました」

 

 ごくりと唾を飲み込んだのと、先ほどのウエイターが料理を運んできたのはほとんど同時だった。

 織之助の言葉は切れ、テーブルにハヤシライスが置かれる。

 何を言われるのかと身構えていただけに拍子抜けしつつ、視線をテーブルに落とした。

 テーブルの上に置かれたハヤシライスは、きらきらして見えてこれ以上ないくらい食指が動く。


「おいしそう……!」

「っ、ふ」


 思わず声をもらすと、織之助が耐えきれないというように吹き出した。


「……なんですか」


 なにもしていないのに笑われた。

 意識してジト目で織之助を見る。


「いや……表情が素直だなって」

「……褒め言葉として受け取っておきます」


 ふん、と鼻を鳴らして横を向いた。

 織之助がまた小さく笑う音が聞こえ――それから少し間をおいて、今度は真剣な声になった。


「褒めてる」


そう言って織之助は身を乗り出し、


「かわいい」


 低い声が鈴の耳を掠めた。

 その甘い囁きに、鈴はすぐさま顔を真っ赤にして織之助のほうに向き直った。


「ご、ごまかされませんからね!」

「ハハ。……ほら、冷めないうちに食べよう」

「……はい」


 少し早足になった心臓を誤魔化すように、スプーンを手に取る。

 口に運んだハヤシライスはびっくりするほど美味しかった。



 

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