真夏のミィーア

十二滝わたる

真夏のミィーア

 自分の拳より一回りも二回りも大きな石を片手に持ち、幼児がその石を投げんばかりに構えている。その傍らには、黒と白の斑色の猫を抱いている、小さな体には不釣り合いな、だぼだぼの黒い詰襟の制服と帽子をかぶった小学生。背景は未舗装の下り坂の大きな道路。母屋の茅葺きの屋根の一部と周囲の段々に均された一面の田んぼ。そんな構図の古いボロボロのセピア色の写真を見つめる。石を持って追いかける幼児は僕。小学生は従妹の三郎。白黒の猫は僕の宿敵、ミイ-アだ。


 本来、勇ましい小さな幼児と可愛らしい小学生が猫を抱いている記念写真となるはずだった。しかし、これには凄惨な続きがあった。石は投げられた。三郎の顎にあたり、顎が切れ真っ赤な血が地面に滴り落ちた。猫は逃げた。猫は初めから三郎に媚を売り、その三郎の懐へ潜り込みながらも、易々と何一つ傷も負わずに災難を免れた。さらに、この幼児は狂暴で荒くれ者であるというレッテルを張ることまでの計算づくめの成功だ。賽は投げられた。この時から、僕とミイ-アの本格的な戦いが始まった。


 分別つかない幼児として僕は周囲のおとなからは何の咎めはなかった。しかし、やみくもに突然、石を投げ出す変わった子供と思われた。石のように大人しく石のように狂暴な奴・・・・。そんな風に幼い頃の自分は評価された。


 真夏の太陽が薄い雲で遮られ、大きな障子を通して柔らかな日差しとなって大きな畳の部屋に注がれる。昼寝のまどろみが心地よく、夢と現実を何度か行き来していると、突然、障子の格子の一角がカ-テンのように波打ち矢のような黒い塊が飛び出してきた。一気に体を起こし、周囲を見渡すと、そこに現れたのは、眼光鋭い一匹の白黒の猫だった。


 以前から猫という生き物には愛着があった。かつて家の近所の石垣の上でミャアミャアと鳴いている子猫を拾ってきて数日間、家で飼ったことがある。近寄ってきて足元から離れなかったため、家まで連れてきたのだが、家の中では餌を貰うとき以外、一切近寄って来なかった。家中が毛玉と糞だらけとなり、結局は母親から元の石垣に返してこいと言われ、泣きながら捨てに行った。石垣まで来ると、最初の出会いの時のように、また、甘えてきたので捨てられず持ち帰っては母親からまた叱られて繰り返した後に、お別れとなった。猫という生き物の愛嬌と警戒との間で翻弄されたのだが、それでも猫はかわいいに違いないと思っていた。障子との一角から突然現れた白黒の猫は、あの時の子猫の面影があったが、当然、あの時の猫であるはずはない。


 その猫の年齢はよく判らないが、子猫のような動くものに過敏に反応する無邪気さは全くないばかりか、飼い猫には珍しいほどに極端な老獪さを顕わにした。まるで、上司には媚へつらうサラリ-マンが立場の弱い部下には気分次第のパワハラで気晴らしするかのような、あるいは、評判の美人が権力や富を持つ男には愛嬌を振舞い、貧相な男にはお茶もワザと忘れた振りをして出さないような、人間として側にいることも同じ空気を吸うことも憚れるような最低の部類に属する人種の性格を田舎の風習に染まり人間社会に従属する猫がやすやすと身に付けていた。ミイ-アにとって周囲の大人達は当然に前者であり後者は3歳のよそ者である僕だ。社会に出てから散々なほどに出会うこととなるこれらの腐れた人種の存在を僕は3歳にして予感した。そしてそれを教えたのは獣のミイ-アだ。


 障子の穴あき格子部分から飛び出したミイ-アの鋭い目からは明らかな敵意が感じとれた。猫が言葉を話すとすれば、「この家の愛情の中心は自分であり、幼い新参者のおまえなどにその地位を取られてたまるか。お前は敵だ。追い出してやる。気を付けることだな」と言うのだろう。しかし、相手はニィヤ-ニィヤ-と甘える猫だ。こちらに敵意はないことを伝えれば分かりあえる、そう思って近づきのしるしにと頭を撫でようと手を伸ばした。ミイ-アは素早く身を翻し撫でられるのを回避したばかりではなく、伸ばした右手の人差し指をガリリと噛んだ。痛っと手を引っ込めると、ミイ-アは不敵な面構えのままスタスタと背を向けて去っていった。祖母に此のことを訴えると、「乱暴に掴んで撫でようとしたんじゃないの。ミイ-アは人を噛んだりしないよ。」と逆にたしなめられた。


 しばらくすると、祖母から「ヤギの乳を温めたから飲みなさい」と声がかかった。いとこの三郎もバラック小屋のような部屋から渡り板を通って藁ぶき屋根の母屋にやってきた。三郎はご馳走を目の前にして興奮していた。瓶詰めの殺菌された牛乳しかのんだことがなかった。三郎があれだけ騒いでいるのだから、牛乳など比べ物にならない極上のおいしいレア物に違いないと思い、心が躍った。温めたヤギの乳は大きめの茶碗に注がれていた。三郎は「うまい」を連発し、お替わりを差し出している。ヤギの乳の表面には脂肪分が膜を張り、唇にへばり付いてくる。気持ち悪さを我慢して、一口啜ると青臭い匂いと共にヌメヌメした半固形となった乳口に広がった。無理して飲み込むと、途端に嘔吐した。糞尿を飲まされるとこのような味がするに違いない。祖母も三郎もご馳走を嘔吐した僕を叱ることもできずに厭きれた目で見ている。「飲めない」と言って外に走り出た。


 母屋の玄関から外に出ると、舗装されていないごつごつの坂道の道路が一本走っている。車が通ると後ろ向きになって目と口を手で塞ぎ、舞い上げる土埃を防がなければならない。しかし、ほとんど車など通らない。車が通ると手を振れば運転手は手を振るような長閑さだ。道路は遊び場となる。目線の先にミイ-ヤが日陰に座っていた。微動だにしないミイ-ア。仲良くしようという気持ちを全面に出して笑みを作りながらミイ-アに近づくとミイ-アは一見一定間隔にしっぽを振りながら受け入れるような素振りを作っている。ミイ-アに近づき頭を撫でようとしたとき、突然豹変し、爪を立てて手の甲を三回ほど引っ搔いた。血がジュワ-と滲んで鋭い痛みが後から襲った。罠か、安心させておいてそういうことか。僕が大人だったら騙してとっ捕まえて皮をはいで三味線にしてやるところだが、未熟者だ。獣の知恵に翻弄される。しかし、こんな心理的な駆け引きを獣がするものなのか?次は必ず仕返ししてやる、融和の選択の余地はない。


 ミイ-アが去ってからは、玄関前に置かれてある米俵からモミ米が溢れているのを一掴みして道路に座り、スズメと遊んだ。以前、祖母と一緒に餌を蒔いて呼び寄せて遊んだのだ。その時はミイ-アもおとなしくスズメに関心を寄せながらも見つめていたものだった。モミ米を蒔くとスズメが何十羽も一斉に集まり貪るように夢中でついばみ続ける。スズメもお腹を空かしているんだなとその様子を観察していると、素早い黒影が道路の中心に飛び出す。スズメは一瞬で飛び立った。ミイ-アがスズメ目掛けて飛び出したのだ。運悪いスズメが一羽ミイ-アの口に噛まれ苦しそうにもがいている。僕は傍らの石を持ちミイ-アに投げつけるがなかなか当たらない。何度目かの末に石がかすめたミイ-アは道路脇にスズメを口から手放すが既にスズメは絶命していた。ミイ-アも同じような仕打ちを受けなければならない。僕はそう思った。今回の僕だけの餌やりでこんなことをするのかその時は分からなかったがそう感じたのは正しかったのだろう。ミイ-アは祖母が居ればこんなことはしないのだ。僕はもっと大きな石を探しては持ち上げた。ミイ-ア、死んでもらうと。


 そんなところにヤギの乳をたらふく飲んで満足した三郎がやってくる。ミイ-アは猫なで声で助けを求めるように駆け寄っていった。ミイ-アは賢くあざとい。ネコ科の動物はすべて固執が強く、獲物を取るときも警戒するときも、スト-カ-のごとく用心深く、相手の裏を突くような陰険さを伴う。猫じゃらしに無限にじゃれつく猫やクマ牧場で呑気に手を挙げて食べ物をねだる羆だけがこの種の獣であればいいが、特に野生の羆の執着心は想定を超えた異常なものだ。


 ミイ-アをいじめるなあと三郎は言った。石投げるなよ、かわいそうにと。僕の右手のかじられた傷と左手の引っ掻け傷の証拠があってもミイ-アは正真正銘に何があっても正しいアンタッチヤブルな存在なのだ。僕の手に持った大きな石は投げられた。ミイ-アに、騙されかばい続ける三郎に、そしてこれを理解しないこの藁ぶき屋根の因習に向けて。


 ミイ-アが僕に柔らかい体毛に触れることを許すのは、決まって祖母か三郎の懐に抱かれているときだけだった。取り繕ったような表情をしながらも緊張を隠さないことは、体毛の下の筋肉の硬さでうかがい知れた。小さな肉球に収められた鋭い爪をいつでも振りかざす準備をしている。ただご主人様の前ではいい子を装っているだけなのは掌をとおして明らかに伝わってくる。そしてこれが僕とミイ-アだけの場合はみごとに豹変する。ジキルとハイドのように。ジャガ-を乗り廻し注文取りすら差別する定食屋のオヤジ、腰巾着だけでポストを掴んだ無能力のマリ、トップに媚びていつの間にか組織に潜り込んでいる口先だけのフミ、親しそうに近づき本音らしきものを聞き出しては告げ口や陰口を言い振らすマコ、そんな嫌な奴らの原点がミイ-アだった。


 その年の祖母の家での夏の滞在は、あっという間に過ぎていった。祖母の家から帰りのバス亭までの長い緩やかな坂道を歩いて振り返ると、祖母はまだ手を振っていた。ミイ-アは祖母に抱かれたままこちらを見ているように思えた。来年は覚えてろよとつぶやきながら祖母に手を振った。自分もミイ-アのようなふたつの顔を持ってるじゃないかと気が付き、暗い気持ちになった。程なくバスは来た。灼熱の太陽で鉄板焼のように熱くなった窓を全開にしたバスは、埃を舞い上げて山道を下って行く。


 翌年の初夏に祖母は亡くなった。駆け付けたときは顔をハンカチで覆われ人形のように冷たく横たわった祖母がいた。話しかけても反応がない祖母は寝ているんだと思った。子供には本当の死の意味が分からなかった。祖母のそばを離れずにず-っとミイ-アは座っていた。冷たくなった祖母のそばのミイ-アは相変わらずいい子のままを押し通していた。ミイ-アは祖母が死んだことを理解していたのだろうか。ここで反撃し、お前の素性を、お前の正体をあばいてやるぜ。そんな感情がむくむくともたげたが、寸でのところ気持ちを抑えた。死んだ祖母の前で親戚の前で、そんなことはできないと子供心に思ったのだ。なんだよ、これではまたもミイ-アと同じじゃないか。時々、祖母の周りをうろつくミイ-アは心なしかだいぶ老け込んだように見えた。


 再びお盆に祖母の墓参りに行ったときには宿敵ミイ-アは死んでいた。あんなに車通りのない道路で車に牽かれていたらしい。祖母の納骨された先祖代々のお墓の隣には小さな空き地があるが、そこにミイ-アは埋められ掌サイズの石が墓石替わりにのせられていた。祖母のそばで祖母に見守られながらミイ-アも隣で眠りについている。ミイ-アに手を合わせながら、こっそりミイ-アの墓石めがけ小さな石を投げつけた。小石は弾け、祖母の墓石の前に転がった。墓地を囲んだ周辺の林の中から、無数の蝉の声がシャワシャワと鳴いているのが聞こえる。僕の泣き声もそのひとつに違いない。

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