魂の居場所

@peipei0726

魂の居場所

何がその人をその人たらしめるのか?それが記憶である事は周知の事実である。人の個性は経験によって形作られる。生まれてから今日まで、目にしたものや感じたもの、無意識下で経験したものも含めて、その全てが今の自分を形成している。どうでも良いと思われる日常の些細な判断ひとつであっても、脳は無意識下で時と場合や関係する他人の性格を考慮して、一番もっともである決断を下すことができる。それらの判断材料となるのは全て記憶だ。あるひとつの出来事に対して、悲しいと思う人がいたり、怒りを感じる人がいたりと反応が様々なのも、記憶がそれぞれで違うために脳が引き出してくる共感が異なるからだ。個性とは記憶であり、それ以外の何者でもない。

今から4年前に考案された記憶移植手術について、皆さんもご存知の通り、今でも反対意見が絶えない。特殊な溶液を注入した脳に、記憶を司る一部に3方向からレーザー光を当て、頭蓋骨に穴を空ける事なく光が交わる脳の一部を正確に損傷させる。そしてまったく別の脳の記憶を、そっくりそのまま別の種類のレーザー光によって書き写し、新たな記憶を脳に書き込む手術だ。これにより身体に致命的な損傷を受けても、記憶をそっくりそのまま別の健康体に移動させる事ができる。記憶とは人の個性そのものであるため、記憶を移動させるという事は、その人自体を移植するようなものだ。

初めて人間に記憶移植手術が行われたのは、この手術が発明されてから2年が経過した後だった。移植先の健康体の確保が困難だったため、2年の月日を要してしまったのだ。移植先の人間はそれまでの記憶が全て抹消されるので、事実上の死を意味する。そのため最初の手術には死刑囚が使われた。もちろん死刑囚本人の了承を得てだ。一方で移植元は脳は健全であっても、体の方が生命を維持できない状態の人間をインターネットで募集して、これには26才と若い男性の末期ガン患者が立候補した。彼の名はリドリーと言い、地元の印刷会社に就職したばかりの時に不幸にも末期ガンが発覚したのだった。手術は家族や恋人の総意で、すがる気持ちでこの世紀の大手術に応募したのである。

かくしてリドリーは歴史的手術の最初の被験者となり、手術は無事に終わった。彼が目を覚ましてからの医師との最初の会話は、重要資料として今も病院のデータベースに保存されている。

(数分間の無音の後、ガサガサという布ずれの音がしてから医師との問答が始まる)

「目を覚ましたかい?気分はどう?」

「悪くはありませんが、変な感覚です」

「違う体に入ったからね。しばらくは慣れないだろう。自分の名前は言える?」

「リドリー・ポールセンです」

「そうだ、よく言えた。では、手術前に一緒に決めた動物は覚えているかな?君が本当にリドリーなのか確認したいんだ」

「動物は、えーっと、シマウマです」

「正解だ。手術は成功したようだね。もうガンを心配する必要はないよ」

「先生、本当にありがとうございます…」

これが手術後にリドリーと交わされた最初の会話だ。この後リドリーは家族と恋人に再会し、無事に社会復帰した。体は死刑囚のものだったが、間違いなくその中身は好青年のリドリーだった。脳がハードウェアだとすれば記憶はそのソフトウェアであり、この後の行動や思考はリドリーの記憶を元に形成される。元の死刑囚が姿を現し、犯罪を犯す危険性も無い。なぜなら彼の記憶には、両親に愛されなかった苦痛に満ちた幼少期は無いし、マリファナを吸ってハイになっていた青春時代も、犯罪に手を染めた経験も無い。あるのは愛のある家庭で健全に育った思い出や、恋人と過ごした満ち足りた時間だ。そんな人間が犯罪を犯すはずがないだろう。彼は紛れもなくリドリーそのものだった。先祖代々の遺伝的な性格が失われると主張する人もいるかもしれないが、そもそも遺伝的な性格も代々受け継がれた記憶の断片でしかないため、記憶の移植とともに移動していると考えられる(もちろん身体的な遺伝は除くが)。ようするにリドリーの記憶、つまり精神そのものは完全に別の体に移動し、ガンによる死を免れたのだ。残念ながら顔はアンドリュー・ガーフィールド風の爽やかな二枚目ではなくなってしまったが、末期ガンを経験した彼なら、こんな些細な障壁などすぐに乗り越えられるだろう。

この大手術を巡って、世の中では大きな論争が巻き起こった。新しく生まれ変わったリドリーは本当にリドリーなのか?という問題だ。反対意見の多くはこの手術を生命および神への冒涜だとして非難した。この手術が意味しているのは人間の存在がただの記憶であり、魂など存在しないと言っているようなものだからだ。反対派が感情的になってしまうのも理解できる。なにしろ人の正体が単なる記憶だとするのは、あまりに虚しすぎるのではないか?我々が存在し、必死に生きているのは全て記憶のためだけなのか?彼らの意見には同情するが、もし過去のリドリーが死んでいるとすると、今リドリーと名乗っている人物はいったい誰なのだろう?元の死刑囚の面影はすでに無く、彼が死刑囚のままだと主張するのはいささか不自然に思える。もし彼の正体が元の死刑囚だとするならば、人の正体に精神性はまったく関係がないと言っているようなもので、むしろ精神面における個性をいっそう軽視している事になりはしないだろうか。また彼が死刑囚でもリドリーでも無いとするならば、彼は新たに生まれた生命だという事になるが、果たしてそんな事がありうるのか。記憶移植という表記的には単純な方法によって、人は神の領域とも言える、生命の創造に成功したとでも言うのか?その説はあまりにも突拍子がないだろう。しかし反対派の言う通り、新しいリドリーが別人であると証明できなければ、人の正体とはただの記憶に過ぎないと認めているようなものだ。

記憶移植手術によって、人類は自らの存在意義を揺るがす無視できない問いに直面した。手術の成功は、人間の正体が体という器に記憶を入れて動いている、ただのロボットにすぎない事を示唆している。この問題を覆すには、魂の存在について説明できなくてはならない。

もし魂の存在が証明され、記憶移植手術によって体を入れ替えた人間が元の人間とは別の個体であると証明されたら、我々は人の存在意義を取り戻せた反面、個性の認識を改めざる得ないだろう。記憶は過大評価を受けている。人の個性は経験によって形成されているのではない。もっと別な、存在自体に根付くなにかという事になる。つまり魂だ。そしてその居場所とは?

しかし、今のところ魂の存在は証明できていないし、近い将来に証明できる気配もない。この問題はしばらく棚に上げておく他なさそうだ。それにリドリーとその家族が現在も幸せに暮らしており、誰にもその生活を否定できる権利が無い事はまごうことなき事実である。

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