人々(下)

 閑静な農村の田舎道、未舗装の道沿いに延々と小麦畑が続いていた。隣を歩く姉はどこか浮き立っているように見える。赤毛を人差し指に絡ませ、躊躇いがちにエミリアを見つめる。朗らかに笑う姉のマントは、夕日を受けて柔らかく光った。


 「長らく連絡がないから心配したよ。ジョージ」


 つとめて明るく放られた言葉。俺は気まずくなって、僅かに目を逸らした。

 あの日ポーチエレンと話してからというもの、俺はエミリアと連絡を取らずにいた。姉のことを想う度、ポーチエレンの声が脳内で響き渡る。

 ――叛逆者を殺すの。

 エミリアはポーチエレンにとって消えて欲しい人間、しかし俺にとってはかけがえのない姉。唇を噛み締めた。

 黙りこくる俺に違和感を覚えたのか、エミリアが怪訝そうに名を呼んできた。身を竦め黙礼すると、彼女は今度は茶化すように苦笑し、訥々と語り始めた。


「ねえ、昔のこと覚えてる?神父様に引き取られるより前、ママと下町で暮らしてた時。いっつもお腹空いてたよねえ」


 忸怩たる思いが心奥に蘇ってきた。エミリアと目を合わせないように頷く。

 母親は街娼だった。しかし、彼女はジョージと同じ『赤毛持ち』だったのだ。ブロンドや黒髪、茶髪などとは違い、格段に安い値段で買われる立場で、一日に稼げるのははした金だった。

 三人は商店街の店間を棲家にしていた。雨がやっと凌げるくらいの急作りの屋根、擦り切れた毛布に身を寄せあって寒さに耐える。日が沈み、母親が街に繰り出す度、宵闇に怯えるジョージは泣き喚いた。エミリアの慰めは、今でも鼓膜に張り付いている。何しろ、物心付いてから窃盗未遂で捕まるまで、姉に張り付いて生きてきたのだから。

 廃液の匂いが立ち込める下町、常にすべてに飢えていた。下町での記憶は脳裏に焼き付けられ、時折その苦さを舐めていた。


「ジョージ、今日はどこへ連れて行ってくれるの?」


 話を断ち切り、エミリアは伸びをした。

 結局のところ俺はポーチエレンに従った。共同墓地に埋葬された母親の墓参り、と称しエミリアを呼び出す。そこで姉を殺し、用意された棺桶に遺体を詰めて埋める。墓標はポーチエレンが用意してくれるので疑われることはない。

 マントを着込んだ細い背中。幼い頃からずっと、彼女には世話になってきた。散々利用しておきながら裏切る自分に嫌悪もある。しかし、ポーチエレンの言う通り――限界が、来ているのだ。

 姉の手を取って山道へと導き、崩れゆく黄昏に目を細めた。獣道沿いに荒野を歩いていくと、十字架がいくつも立ち並ぶ丘へとたどり着いた。夕暮れの中、墓地はすっかり静まり返っている。落ち着きなくそわそわと歩き回る姉を手招きし、無防備に歩いてきた彼女を――棺桶へ招き入れた。


 間抜けな悲鳴と共に、エミリアは百合の花弁の上に尻餅をついた。はずみでマントが脱げ落ち、地味な白のデザインのワンピースが広がった。清楚な白が咲き誇る。

――百合の花言葉は、純真と無垢だっけか。俺にはつくづく縁がない。

 姉はまだ余裕ぶっているのか俺に囁く。


「十三の使徒の真似事のつもり?」

『ユダは十二番目の使徒だ』


 神学校の出のくせに、そんなことも知らないの。そう付け加える。そして俺は、そのメモ用紙を破り捨てた。


「ごめんね。俺はエミリアに謝らなくちゃならない――本当は出るんだよね、声」


 皮肉に、片頬を歪めた。


エミリアが裾から伸びた脚をゆらゆらと動かせば、影もそれに合わせて蠢いた。剥き出しになったエミリアの足の甲に、軽くキスをする。


「花瓶であの女を殴った後、正直後悔したんだ。うちの学校は厳しいから、あんな事件を起こしたら神職どころか退学、路地裏に放り出される。いっそのこと死んでしまおうと思ったけれど、エミリアは中途半端にガラスを滑らせただけで、殺しきってくれなかったね」


 まるで賛美歌を口ずさむように、台詞を紡ぐ。ポーチエレン以外にはろくに聞かせなかった素のトーン。


「これだけなら一生恨んでも恨みきれないが、俺の罪を被って二年他の神学校へ移ってくれたばかりか、自分から問題を起こして退学までしてくれた。おかげで俺はその後からかわれることはなかったし、経歴は綺麗なままだ」


 俺は飄々と手を広げた。


「暗殺で身を立てると聞いた時はびびったよ。俺があいつらを殴ったことは、エミリアしか知らない。どこかにそれを漏らされちゃ困るから今まで一緒にいたけど、来月からは神父として隣町の教会に住まうことになった。秘密を知ってるあんたが生きてると目ざわりだ。さようならエミリア。愛してるよ」

「……!」


 エミリアが目を見張った。まさか、協力者だったポーチエレンが姉殺しを依頼したとは思うまい。しかしエミリアは、棺桶の中の百合に体を預け、抵抗することはなかった。


「ジョージの声が戻ってきてて、良かった」


 姉ののんきな声に、今度は俺が冷や汗を垂らす。思わず目に力が入った。棺桶の蓋を掴み怒鳴る。


「余裕ぶりやがってッ!密閉された空間で、百合の中に閉じ込められたら死ぬんだぞ……」

「あんなの嘘。神学校の出のくせに、そんなことも知らないの。――百合は、聖母マリア様のお花でしょ?やさしい花だよ」


 エミリアのさみしそうな笑いは、つぼみが柔らかに開く瞬間のようだった。


「最後に一つだけお願いをさせて。棺桶の蓋を閉めたら、深い深い穴を掘って埋めてね。ジョージが死ぬ時、きっと私に謝るでしょう?その声を聞きたくないから。私が居れば、ジョージはいつまでも寮生時代のことを思い出しちゃうもんね。――今まで本当にありがとう。さようなら」


 無垢の中で死なせてくれて、本当に幸せ。エミリアは微笑した。微笑みが濃くなり、蕾が開きゆく。


「私の一番大切なもの、それはジョージなんだよ」


 その言葉が凶器だった。

 赤紫に濁った血液が心臓を蝕み、四肢がバラされ、溶けて、崩れて、いなくなる。嫉妬と悔しさと憎しみが胸の中でミックスされていった。彼女のように愛し愛されたいという欲求なのだろうか、自分自身に納得がいかないのか、どうにも指が動かない。


「しあわせだな……あんたの脳は……ッ」


 意外なほど素直に死を受け入れる態度。その姿勢から、どれだけエミリアに愛されていたのかを痛感した。俺は、宝石の手枷なのだろう。

いっそ俺が生まれなかったら、あるいは彼女と出会わなかったら、そんな気持ちが扉を蹴破って俺の心に滲む。しかし、この姉のいない世界で生きる俺は今よりずっとつまらなくて、鼻持ちならない人間になるだけだ。彼女を手放したくないと考えるかぎり、俺はこの感情も手放せない。俺は――投げ出した。自分の中で蠢いているのが何なのか分からない。

 ふと、ポーチエレンと会った時の様子を思い出す。続く言葉は、どうしても口にできなかった。間を誤魔化すようにして、手にした百合の花を棺桶に投げ入れた。花は姉の身体のそばにはらりと落ちた。俺は姉の瞳を抉って告げる。


「ここで偉そうなこと言ったって人殺しなのは変わらない。エミリアはマリア様にはなれない」


 エミリアは山あいに沈む太陽を見上げ、目を細めた。サン=サーンスのミサ曲を口ずさんでいる。


「ジョージも、イスカリオテのユダにはなれないね」


 エミリアが言い終わらないうちに踵を返し、墓地から走り去る。荒い呼吸音が耳元で唸った。

 結局中途半端なままじゃないか。イエスさまを裏切ることも、嫌うこともできず、かといって姉のように真剣に神を信じるなど出来るはずもなくて。実際、半分本気で、半分は迷っていた。その揺れの部分に、姉が触れてきた。姉の言葉で、その二つを明確に区切っていた壁が決壊した。泣く資格なんか無いくせに、涙が頬を伝うのを感じた。袖で乱雑に拭う。

 俺は空を見上げる。グラデーションの夕焼けだった。黄昏時の、微かな明かりが鬱陶しい。早く真っ暗になってくれ。なにもかも全部黒く染め上げろよ、早く。

 視界に割りいる前髪は、赤。――明るくも暗くもなりきれないこの色が、やっぱり、だいきらいだ。

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