第5話 なんです?この用紙は?
「なんですか?この用紙は?」
翌朝、向かい側のソファに腰を下ろした副部隊長に差し出された一枚の紙を見た私の言葉だ。そこには婚約届と書かれていた。
「婚約届です」
それは見ればわかる。
結局あの後、行き倒れるまでやられた私は、客室で夕食を食べ、そのまま寝てしまった。そう、結局フェンテヒュドール侯爵邸でお泊りしてしまったのだ。
「ですから、何故、婚約届が私の前に出されているのでしょう」
「それはフィアロッド班長に仲のいい恋人役を頼まれたからですね」
いや、恋人と婚約届は関係ない。恋人は婚約しなくても、大丈夫なはずだ。
「それに約束もしてくれましたから」
「約束?」
何の約束だ?伯爵令嬢の牽制するという話のことか?
「貴女はヴァンウラガーノ公爵令嬢にどう喧嘩を売るつもりですか?付け焼き刃の子爵令嬢で太刀打ちできるのですか?」
痛いところを突いてこられた。公爵令嬢ともなれば、その教育にかける費用は伯爵令嬢の何倍となることだろう。伯爵令嬢の伯母から教えてもらったことは、一般常識であり、それ以上の教育はされていない。
それで、ヴァンウラガーノ公爵令嬢にマウントが取れるかと言われているのだ。私が本気で喧嘩と称して拳を振るえば、罰せられるのは私の方なのはわかり切っている。
「難しいでしょうね。武闘であれば勝つ自信がありますが」
「それは本気でしないでくださいね」
「しませんよ。それぐらいの常識はあります」
だから、婚約届を出してきて、婚約者として居ればいいということなのだろうけど、これはかなり無理がある。
「しかし、副部隊長。婚約届となると父の許可が必要ですし、貴族同士の婚約には国王陛下の承認が必要です。残り一ヶ月では無理がありますね」
そう、国王陛下の承認が一ヶ月で降りるとは思えない。あと、父が自分の上官であったフェンテヒュドール侯爵の孫であるルーフェイスアルドとの婚約を認めるとは思えない。
「第1師団長からは許可はもらって来ています」
「は?いつの間に?」
「昨日ですね」
これは完璧に両親に売られたと思っていいのではないのだろうか。
「父に文句を言ってきます」
「第1師団長は今日から辺境に出現した雷獣の討伐に行っていますよ」
雷獣の討伐!なんて面白そうな事をしているのだろう。絶対にここに居るより楽しいに決まっている。
「私も雷獣の討伐に行ってきます」
すっと立ち上がって副部隊長を見下ろす。今日の私の装いは白を基調としたフリルいっぱいのドレスだ。それもまた子供用の丈。それに赤い髪を横分けにして2つに横で結い、頭はドレスと同じ様な白いヘッドドレスで覆われていた。
これは誰の趣味だろうか。また、前フェンテヒュドール侯爵の趣味だろうか。
「王命を無視するのですか?」
「ぐふっ」
王命がキツイ。そもそも王命では無かったら、こんなややこしいことには成っていない。
「ということで、サインしてください」
「これ、この舞踏会が終われば解消してくれますよね」
「あと一ヶ月切っていますから、ドレスは手直ししたものになりますがいいですか?」
え?無視ですか!ドレスは母の古着を着ようと思っていたのだけど、こちらで用意してくれるということだろうか。
私からの条件は唯一つ。
「子供用でなければ、なんでもいいです」
今日も子供用のドレスを用意され、大分心が折れてきたのだ。確かに私は背が小さいけど、周りの人達が大きすぎるんだ!と叫びたい。
「それから婚約者となるのだから、いつまでも役職で呼ばないで名前で呼ぶように」
「まだ、婚約者ではないです」
そこはきっちり否定しておく。そんなに直ぐに承認されるとは思えない。
「サインを書いてくれれば、そのままお祖父様が陛下の元に持っていくと、おっしゃっていました」
権力の横暴!そこは普通経由でいいでしょ!なんで前侯爵がお使いみたいなことをするわけ?もしかして、あれか!可愛い孫は欲しいと言っていたことか!もう、兄弟で張り合わないでほしい。
「しかし、仲のいい恋人でも名前で呼ぶと思いますよ」
あ、墓穴を掘ってしまっていた。言われればそうなのだけど、上官を名前呼びって嫌過ぎる。
「ということなので、さっさとサインを書いてください。エミリア」
いつものフィアロッド班長と呼ぶように私の名を呼んだ。それも呼び捨て。そこは子爵令嬢と入れて欲しい。
「私の事はアルドと呼んでください」
「そっちですか!普通であればルーフェイス様呼びですよね。そこまでしなければならないのですか!」
「仲のいい恋人であれば、普通でしょう」
もうそこのこだわりはどうでも良くなってきた。
「仲がいいという条件をはずして欲しいです」
「それは駄目ですよ」
なんで!
もう、既に私は胸がいっぱいだ。普段いない使用人に服を着替えさせられて、身なりを整えられ、何故か、女性の使用人たちにキラキラした視線を向けられた。
朝食は食べられないという程の量をだされ、当主であるフェンテヒュドール侯爵、フェンテヒュドール侯爵夫人。ご長男にご長男の奥さん。次男は家を既に出ているので不在だったけど、前フェンテヒュドール侯爵夫妻。それからルーフェイスアルド。もう皆さん美男美女だ。
そんな空間で朝から食事が喉を通るかといえば、通らない。だから、無理やり飲み込んだ朝食だった。
ただ、昨日の前フェンテヒュドール侯爵の言葉が効いたのか、男性の使用人の姿は見かけなかった。
一ヶ月は切っているが、舞踏会までここに本当に居続けなければならないのだろうか。
「副部隊長。仕事を休み過ぎると、部隊長の仕事が溜まる一方なので、危険だと思います。なので、日中は私は職場に戻りたいです」
普通に嫌だと言っても認められないだろうから、別の方向から攻めてみた。部隊長は戦いとなるとその力を存分に発揮するけど、事務仕事となるとめっきり駄目人間になるのだ。
「それはカイエン班長に頼みましたので、問題ありません」
同僚のカイエンが貧乏くじを引いたようだ。流石、副部隊長抜かりはないということか。
「それから、アルドと呼ぶように言いましたよね」
それは決定?!ああ、仲のいい恋人なんて言わなければ良かった。
そう反省している私の側にルーフェイスは腰を下ろして座ってきた。
は?
「エミリア。呼んでみてください」
「もう、私の心が折れそうです」
「おや、この事を言ってきたのはエミリアの方からでしたよね」
「言いました!言いましたよ。まさか、こんな状態になるなんて予想外です」
私は選択肢を間違えてしまったのだろうか。しかし、下手に頼みやすい人に頼むとそのまま結婚させられるのは確実だ。
だから、私の事を珍獣と思っているルーフェイスに頼んだのに……いや、素の私に成ったのがいけなかったのか。だが、それだと私の脳細胞が。う〜。
「何を困っているのですか?」
隣にいるルーフェイスは私の頭を優しく撫でてきた。え?何が起こっているのだろう。
何が困っているか。それは……
「場違い過ぎます。私は子爵令嬢で騎士なのです。ここまでの待遇は求めていません。それから、この婚約届はやり過ぎです。サインしたくありません」
「それでもいいですが、婚約届にエミリアがサインしないと、国王陛下と宰相のサインを貰って提出することになるので、婚約解消の手順が困難になりますがいいですか?」
「よくないです!」
その言葉を聞けば、サインした方が無難だという結論が出た。強引に国王と宰相のサインで提出されるなんて、嫌過ぎる。
私は慌てて、サインをする。その背後で意地が悪そうな笑みを浮かべているルーフェイスがいるなんて露程にも思わなかった。
それからというもの、何かと恋人であることを求められた。いや、私が言い出したことなので、強くは言い返せないのが仇となったのだ。
朝食が終わったあとには勉強としてマンツーマンで復習のような勉強をさせられ、その後に二人でお茶をして、ダンスの特訓。昼食をとって、その後各地方の特産物や特徴を覚えさせられ、お茶をしてから、またダンスの特訓。そして、夕食。
殆ど、ルーフェイスと一緒いると言って良かった。
唯一の自由時間は早朝だけだ。いや違うな。早朝は身体を動かして剣を振っていたが、そこにもルーフェイスが顔を出すので、私が客室にこもる以外の時間は共に過ごしていると言ってよかった。
それも恋人役というものをやっている所為か、私を甘やかしている?優しい?嫌がらせ?まぁ、そんな感じに受け止められることがある。
なんだろう。後の反動が怖い気がする。
例えば、勉強の時は最初は向かい側に座っていたのに、今では隣に座って来ている。私がストレスが溜まりすぎると、だんだん機嫌が悪くなってくるのがわかっているのか、週に一度は狩りに行こうと誘ってくる。午前や午後のお茶の時間はなぜか膝の上に抱えられている。嫌だと拒否すれば、前フェンテヒュドール侯爵の膝の上に座っていたのに恋人である自分の膝の上には座ってくれないのかと言われるしまつ。
そして、何故か周りの使用人たちも温かい目で見てくるのだ。いや、偽装だからね。舞踏会が終われば、元に戻るからね。
で、その間はずっと子供用ドレスだったのだ。用意してもらっている側としては文句は言いたくないが、私は18歳だと声を大にして言いたい。
そして、とうとう舞踏会の当日になってしまった。このよくわからない生活もこれで終わると思うとホッとため息がでる。
本日の装いは紫がかった白いドレスだ。え?薄紫ではないのかって?まぁ、いわゆるデビュタントで着るドレスをアレンジしたものだ。これはフェンテヒュドール侯爵の妹の方が着ていたドレスらしい。
白地のドレスに紫の薄いオーガンジーでボリュームを出して、紫のレースでアクセントをつけている感じだ。
きっとルーフェイスの瞳の色に合わせたのだろう。
そして、私の長い前髪は右目が隠れるように斜めに流されていた。
そんな私の前には銀髪の麗人がブルーシルバーを基調としたイブニングコートを着ている。それも銀糸で刺繍がされていた。
その麗人から手を差し出され、王城に向かう馬車に乗り込む。
「古い型を手直ししたものですが、よく似合ってますね」
当たり障りのない褒め言葉だ。私はこの1ヶ月で鍛えられた貴族らしい微笑みを浮かべて答える。
「皆様が頑張ってくれたお陰ですわ。それにアルド様も良くしてくださいましたし」
結局私はルーフェイスをアルド呼びしている。
「おや?私はついでですか?では次は私がエミリアのドレスを選びましょう」
「次?」
何?次って……次なんて無いはずだけど?
「ああ、それからこれを」
その言葉と共に視界が開けていた左目が紫のベールに覆われた。どうも頭に乗せる意味をなさない小さな帽子に左側に流れるようなベールが付けられているみたいだ。
「エミリアの美しい金の瞳は私だけが知っていればいいですからね」
あ、うん。気を使ってくれたらしい。多くの人がいればそれなりに視線を集めることになるけど、これで私に向けられる気持ち悪い視線はかなり減るだろう。
「お気遣い感謝します」
私が真顔でお礼を言うと不満そうな顔をされた。
「エミリア。仲のいい恋人ですよ」
うっ。キラキラした笑顔で近づいて来ないで欲しい。ここ2週間程は実践だと言って仲のいい恋人役をやらされている。
「アルド様。エミリア嬉しいです」
そう言って私はルーフェイスの左腕に抱きつく。これは今出来ないのであれば、本番も無理だろうとルーフェイスに言われ、続けているのだが、キラキラ笑顔が心臓に悪い。
オカンは綺麗な笑顔で小言を言わず手も出なくなった。結果的に私の脳細胞は守られたのだが、今度はキラキラ笑顔を私に向けてくるようになったのだ。それが私の心臓を早鳴りさせ、心臓に負担を掛けている。
自分から言ったことなので黙って受け入れているが、内心はここまでする必要があるのかと叫びたかった。
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