第2話
龍臣 現代
残間 現代
呂宋 現代
竜崎 現代
嵐山 明治
菜奈 明治
桜 明治
仁良氷牙 米原大→勾留中
宮澤伊織 米原大
塚元沼次郎 湖月楼乗っ取り
梅
ケイ
瀬島徹子
音々 徹子の姪
陸島以蔵 画家
銀星仁太
枇杷島兎 勾留中
蔵里酢
艶子 ✗
衛二
1892年7月1日
明治の夏はメチャクチャ暑かった。クーラーなんてない時代だから、嵐山たちは泣きそうだった。琵琶湖近くの食堂に入った。
明治5年(1872年)に天皇が前例を破って牛肉を食べて以来、世間では牛肉食を文明開化の象徴とみなすようになった。 当初の食べ方は、従来からの肉の料理法である味噌で煮る鍋焼きや、醬油・砂糖を入れて加熱した牛鍋(現在のすき焼き)がほとんどであった。
文明開化といわれた明治時代でも、農村部などの庶民の食事は質素だった。 基本は麦飯中心の一汁一菜で、野菜や魚を少しつけるくらいだった。 麦飯は栄養価は高かったが、空腹を抑えるために1日5~6杯は食べるというのが一般的だった。
3人はライスカレーを頼んだ。🍛
カレーが日本に伝わったのは明治時代初めとされる。 最初はライスカレーと呼ばれていたが、ある時点からカレーライスに切り替わったらしい。 つまり、ライスカレー→カレーライスという大きな流れがあるわけだ。
最初にカレーを食べた日本人として記録されているのは、会津藩白虎隊の一員であった山川健次郎という、当時16歳の少年だ。 渡米する船内でカレーライスなるものに出会い、見慣れない食べ物であったカレーを食べる気になれず、ライスのみを食べたとも言われている。
「うめーな」
嵐山はガツガツ食ってる。
桜は窓から琵琶湖を眺めている。古くは淡海・淡海の海・水海・近江の海・細波・鳰の海などとも呼ばれ、「びわ湖」「びわこ」と表記されることもあるほか、「Mother Lake」の愛称や「近畿の水瓶」の別称で呼ばれることもある。
約440万年前に形成された古代湖であり、40-100万年ほど前に現在の位置に移動してきた。内湖ないこを含む多様な地形や多数の固有種を含む豊かな生態系をもっているが、近現代の開発により失われたり減少したりした地形や種もある。古くから近畿地方の水運・水利・漁撈における役割を担い、近江八景などをとおして景勝地としても知られ、作品の題材となることも多いほか、環境保全活動も盛んにおこなわれている。
「菜奈、そろそろ向こうに戻りて〜な」と、桜。
「龍臣に会いたいのか?」と、菜奈。
「それもあるけど、『八重の桜』見てーな」と、桜。綾瀬はるか主演の大河ドラマだ。
「お主、八重さんじゃねーよな?」と、鈴木杏に似た客が桜を見て言った。
新島 八重(弘化2年11月3日(1845年12月1日) - 昭和7年(1932年)6月14日)は、江戸時代末期(幕末)から昭和初期の日本の教育者、茶道家。同志社創立者の新島襄の妻として知られる。旧姓は山本。一部の手紙などでは「八重子」と署名してあることから、史料によっては新島 八重子と書かれる場合もある。勲等は勲六等宝冠章。皇族以外の女性としてはじめて政府より受勲した人物。
「アンタ誰だい?」
「あたいだよ、ケイだよ」
「私は桜、人違いは勘弁してもらいたいねぇ」
明治23年(1890年)1月23日、襄は病気のため急逝した。襄の死後の八重は、襄の門人たちと性格的にそりが合わず、同志社とは次第に疎遠になっていったという。ただし、襄の臨終に八重とともに立ち会った徳富蘇峰は、八重に「私は同志社以来、貴女に対してはまことに済まなかった。しかし新島先生が既に逝かれたからには、今後貴女を先生の形見として取り扱ひますから、貴女もその心持を以て、私につきあつて下さい」と述べ、八重が亡くなるまでその言葉通りの交際をした。蘇峰によれば晩年の八重は蘇峰を頼りとし、何度となく相談をしたという。
襄の死から間もない明治23年(1890年)4月26日、八重は日本赤十字社の正社員となった。つまり、この時期はサラリーウーマンとして活躍していたのだ。
7月4日 - カネボウ化粧品、「美白効果」をうたった化粧品を使った際、肌がまだらに白くなる白斑症状が発生する事例があったとして「カネボウブランシールスペリア」など8ブランドの54製品、計約100万個を自主回収すると発表。発表1カ月後の8月4日時点で、家庭から52万3000個、小売店から61万6000個の製品を回収し回収をほぼ完了、同時点で5702人の被害者を確認。
竜崎はマルスの本拠地を屋久島に置くことを考えていた。アソコならタイムスリップが出来る。未解決事件を解決することも可能かも知れない。
残間は艶子が勤めていたモーテルに張り込んでいた。ポテチを食べながら監視モニターを見ていた。
出入り口、エレベーター付近、全部の部屋が見える。午後2時。
「アッアッアッ、イクゥッ!」
「スゴイよぉつ、伊織さんッ!」
まだ若い男性が激しく腰を振っている。
ジェイソンの仮面を被った奴が突然入ってきて、男性の首をマチェットで切り落とした。
ジェイソンはさらに伊織の首もマチェットで切り落とした。
👹死者 若い男性、宮澤伊織、胎児
4人死亡 残り3人
残間は控え室から出て、アパッチリボルバーを構えた。アパッチ・リボルバー、別名アパッチ・ピストルまたはアパッチ・ナックルダスターは、他の武器を複数一体化した拳銃である。これはダガーで突き、ナックルで殴り、更に発砲する愚連隊の絶好の喧嘩道具となり、アパッシュとして知られる1900年代初期のフランス犯罪社会の一党により悪名を轟かせた。
ジェイソンが襲いかかってくるんじゃ?と、ビクビクしたがシーンと静まり返っていた。
呂宋が後ろからやって来た。
「一人であぶねーだろ!」
「声がデカいよ、チビT」
呂宋はショットガンを手にしていた。
事件現場は2階の207だ。呂宋たちは1階にいる。
2人はエレベーターに乗り込んだ。残間は②を押して、閉ボタンを押した。
呂宋は1980年に劇場で見た『13日の金曜日』を思い出していた。
1957年の13日の金曜日。ニュージャージー州ブレアーズタウンのクリスタルレイク付近のキャンプ場にて、一人の少年が溺れて消息不明になった。それから数年の間、クリスタルレイクのキャンプ場にて奇怪な事件が多発し、遂にはキャンプ指導員の男女二人が何者かに殺害された事件が発生。キャンプ場は閉鎖せざるを得なくなった。さらに数十年経った1980年。殺人事件の起こったクリスタルレイクのキャンプ場が再開され、数人の指導員候補生達がキャンプ場に訪れる。しかし、そのキャンプ場には一連の怪事件を起こした犯人が潜んでおり、指導員候補生達を次々に襲っていった。
チーン!
エレベーターが2階に到着した。
207号室に入ると、血の臭いに残間は吐いてしまった。生首が2つ転がり、首なし死体が床に転がっている。ドス黒い血が壁やシーツ、天井までも飛び散っていた。ラジオからは『ミスターロンリー』が微かに流れていた。確か『12人のバイオリニスト』の曲だ。殺人鬼はエレベーターに乗り込み、逃げ去ってしまった。
20分後、竜崎が駆けつけた。
「こりゃあひでーな」
事件現場を調べた結果、男の方が目黒衛二、17歳。女の方が宮澤伊織、22歳と判明した。
3人は夕暮れの三島池に来ていた。
三島池は米原市池下にある貯水池。姉川の伏流水を利用して灌漑用に作られた。別名、比夜叉池。2010年(平成22年)3月25日に農林水産省のため池百選に選定された。また、「滋賀のため池50選」にも選定されている。
「綺麗だな〜」と、呂宋。
築造年は不詳であるが、1200年(正治2年)年代には造られたと言われ、現在も農地20haを灌漑している。
伊吹山が湖面に映え、散策路も整備され、池の北東に「女滞」が近接し水路でつながっており、周辺は「グリーンパーク山東」の公園として整備されていて池の南に「蛍の川」が流れ、6月上旬頃にはホタルが見られ、近隣の住民の親水空間として活用されている。
また、1959年(昭和34年)に滋賀県の天然記念物「マガモ自然繁殖の南限地」に指定され。 一部のマガモが、この池に滞まり繁殖していて、1964年(昭和39年)に周辺は、鳥獣保護区に指定された。
「この池には恐ろしい伝説が残されてるんだ」と、竜崎。
佐々木秀義が領主をしていたとき、旱魃に見舞われた。佐々木秀義が人柱を立てろというお告げを聞くと、その乳母である比夜叉御前が自ら進んで池に身を投げた。以来、水が枯れることはないという。彼女は身を沈める直前に機織をしていたといわれ、今でも小雨降る夜は機織の音が聞こえるという。
佐々木秀義は近江国蒲生郡佐々木荘を領し、秀義の母方の伯母は藤原秀衡(一説には藤原基衡)に嫁ぎ、自身は源為義の娘を娶って猶子となり、この頃の佐々木氏が有力武士であったことを伺わせる。また宇都宮宗円の娘(下野宇津宮)を妻とする系図もある。
保元元年(1156年)に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱で、秀義は天皇方の源義朝に属して勝利した。
平治元年(1159年)の平治の乱でも義朝に属し、義朝の長男である義平に従い戦うが、義朝方は敗れ、伯母の夫(もしくは従兄)である秀衡を頼って奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受け娘を娶り五男の義清をもうけ、20年を渋谷荘に送った。
治承4年(1180年)に源頼朝が伊豆国で平氏打倒の兵を挙げる際、平家の家人大庭景親から頼朝討伐の密事を聞き、子の定綱を使いに出して頼朝に危急を知らせる。定綱、経高、盛綱、高綱を頼朝挙兵に従わせ、その功により本領を安堵され、佐々木荘へと戻る。
元暦元年(1184年)7月の三日平氏の乱において、五男義清と共に反乱鎮圧に赴き、平家継・平信兼らの率いる伊賀・伊勢の平家方残党と甲賀郡上野村で戦い90余人を討った後、戦死した。享年73。死後、その功により近江権守を贈られる。
1892年
7月25日 - 徳島県保瀬の大崩落
「独立国家を創ろう。嫌な国作ろう嵐山幕府」と、嵐山。18(いや)92(くに)。ヤクザになる前は印刷会社や塾のセールスマン、介護士、派遣社員などをしていたがこの国は腐ってると思うようになった。今は愛する菜奈と再び旅をすることが出来ている。
7月30日 - 第1次松方内閣総辞職
「中世をとおして米原市北部・西部は京極氏の本拠地として栄えた。京極氏は初め清滝の柏原館(現徳源院)を拠点に北近江を治めたが、戦国時代には伊吹山麓の上平寺に京極館を移して動乱に対応した。
南東部は室町幕府外様衆(奉公衆)でもあった土肥氏の領地として栄えた。土肥氏は館の他に番場城・鎌刃城を築き交通の要衝であった東山道番場周辺を守った」
菜奈は米原の歴史について布団の中で嵐山に語った。嵐山のモノをチュパチュパ音を立てながらしゃぶってやると勢いよく射精した。
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