心温まる
春風
老人は、物書きだった。
それほど人気は博していなかったが、一人でも読者がいるのなら、その人のために、小説を生涯書き続けようと考えていた。
病床に伏した今も、書き続けている。
だがしかし、それにも限界が来ていた。
老人は、一字一字書くのにすら苦労した。
電子機器を一切使わず、原稿用紙に自分の文字を書くのを信条としていた。
手が震えて書きづらかったが、編集者に電子機器を勧められたときも、きっぱりと断った。
ひとつ、ふたつボタンを押して書く一文字と、魂込めて書いた一文字、読者に届くのはどちらも同じ一文字だが、私は魂を込めて書いた一文字を読者に届けたい。
その言葉に、編集者は何も返すことができなかった。
だが私にも限界が来ているのは事実だ。
今書いているこの作品を最後に、私は物書きを引退しようと思う。
私も年だ。貴方にも世話になった。楽しかった。
ありがとうございました。
その言葉にも、何も返せなかった。
溢れ出る涙を、編集者は拭うこともできずに、ただただ首を縦に振り続けた。
受け入れるしかなかった。止めることなどできなかった。
原稿用紙に書かれた文字は、濃く、そして震えていた。
魂を込めて書いた一文字なんだ、と一目でわかった。
感謝を述べ、頭を下げる老人に、どう言葉が出ようか。
堪えきれぬ涙を零しながら、編集者は頭を下げた。
最後まで読者に魂を込めた一文字を届け続けた、『先生』への敬意の表しだった。
あと少しで、この物語は完成する。
老人は、死期が迫っていることを悟っていた。
もう一日も持たない。
直感だったが、妙な確信があった。
編集者が帰った後、老人はすぐにまた物語を書き進めた。
あと一文。あと一文……。
ふっと力が抜けた。ベッドに背を預ける。
……時間か……。
あと一文だけ、間に合ってくれ……
最後の力を振り絞り、書こうとするが、叶わない。
老人は悲しみに包まれた。
そこに、音もなく一人の少女がやってきた。
軽やかな足取りで老人の沈むベッドにちょこんと座った。
あどけない顔で首を傾げ、にっこりと笑った。
そして、ペンを取り、原稿に何やら書き始めた。
駄目だ、やめろ、それだけは……。
その原稿だけは落書きしないでくれ。
どうか私の文章を消さないでくれ。
言葉は声にならず、何も言えずに少女を見つめるしかなかった。
1分程で、少女はペンを置き、老人を振り返った。
そして、またにっこりと笑った。
私は最後の一文を書けなかった。
それは物語が完成していないということだ。
私の物語は、ついぞ完成しなかった。
だったら落書きされても、消されても、文句は言えまい……
そう老人は思った。
潮時だ。眠ろう……
諦めとともにまぶたを閉じようとした途端、柔らかい春風が窓から顔をのぞかせた。
そして、その風が老人のもとにたどり着き、今まで感じたことのない風の柔らかさに老人が驚きを感じていると……
その風とともに、目を伏せて少女はかき消えた。
どういうことだ。
老人はひどく狼狽していた。
何気なく見た原稿用紙には……老人が書こうとして書けなかった、最後の一文が、まだ幼い字で綴られていた。
一生懸命書いたのがわかった。
老人は、これが神様やら天使やら座敷童子やら、とにかく人間では無い者が奇跡を与えてくれたに違いない、と思った。
老人は、最後の力を振り絞り、丁寧に、その小説に名をつけた。
『春風』
老人は静かに眠った。
その後、編集者は感謝と尊敬の意を込めて、「春風」を出版した。
読んだ人に、世界中の人に、柔らかい春の日差しが注いでいた。
編集者は、春の気配を感じるたびに、老人のことを思い出した。
魂を込めてあなたが書いた一文字は、ちゃんと伝わりましたよ。
編集者の手には、『春風』への感想の手紙が、たくさん握られていた。
老人の墓にその手紙を見せた時、老人が微かに笑ったような気がした。
春は短いようで、長い。
柔らかい春風が、編集者の頬を撫でていった。
それはきっと、老人の心からの感謝の表しだった。
※この作品は、カクヨムの作者様方を批判するものではありません。
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