第四章 少女の窮地 ~第四節~

「真面目に来てるじゃん、林崎。サボるかと思ってたのに」

「……それはこっちのセリフだ」

 小走りに追いついて気安げに肩を叩くと、重信は迷惑そうな顔でまひろを見やった。

「朝から暑くてげんなりしているところに大声を出されてさらに覇気が失せた。補習に身が入らなかったらきみのせいだぞ」

「大袈裟だって。それよりどうよ、きょうのわたしのメイク? いつもとちょっと変えてみた」

「おれに聞かれてもな」

「張り合いないな~。田宮さんのメイクとかほめてあげたことないわけ? じゃなきゃ髪型とかファッションとか」

「おれがほめようがほめまいが、田宮くんが可愛いことに変わりはないからな。そもそも彼女はきみのようにがっつりメイクしていない。素で可愛い」

 照れもせず即答する重信に、まひろは少し腹が立った。

「それじゃまるで、わたしはメイクでごまかしてるみたいないい方じゃん」

「そうはいわないが」

 重信はそこでまたちらりとまひろを一瞥し、

「けさのきみの顔面に関して素直な感想をいうなら」

「顔面とか……いい方に気を配りなよ」

「唇がとてもつやつやとしているな。朝から大量の揚げ物でも食ったのかと錯覚するようなリップグロスの使い方だ。そういうのが流行りだとは知らなかった」

「やばっ」

 重信の皮肉に、まひろは慌ててハンカチで口もとを拭いた。

「せっかくのグロスをぬぐってどうする?」

「判ってるくせにいわないでよ、そういうこと」

 重信の尻に蹴りを入れるふりをして、まひろは苦笑した。

 リターナーになる前の自分がどんな少女だったか、すでにまひろはおぼろげながらにしか覚えていない。たぶんすべてに対して投げやりで、さして優秀でもないくせにプライドだけは高く、鬱屈とした思いを誰にも打ち明けられずにくすぶっていたように思う。それが今、こうして重信に対して無邪気ともいえるほどに素直にふるまっていられるのは、まひろが異世界で辛酸をなめてきたことと、重信もまた自分と似た経験を積んできた同志だという意識があるせいかもしれない。

 そして、同じリターナーであるにもかかわらず、戸隠霧華や風丘葉月にそうした仲間意識がはたらかないのは、彼女たちが女であるからにほかならなかった。

「林崎はさあ」

 歩きながら器用にリップグロスを塗り直し、まひろはいった。

「――あっちにはどのくらいいたわけ?」

「あっちとは?」

「あっちの世界のこと」

「さあな。自分でもよく覚えていない。やたら長かったのは確かだが」

「じゃあそのせいかな?」

「何がだ?」

「わたしもあっちではかなり長い間戦ってたんだけどさ、林崎はそのわたしよりもオトナって気がする」

「そういう話か」

「もしかしてわたし、ファザコンなのかな?」

「また唐突に何をいい出す?」

 重信が怪訝そうにまひろを見下ろす。

「いや、林崎の好きなところを冷静に考えると、そういうことなのかなって。――ほら、わたしって現実の父親にはめぐまれてないじゃん?」

「ぜいたくをいうな。こっちは父親どころか両親を失ってまだ三か月だぞ」

 そう応じた重信は、しかし少しも哀しそうではなかった。おそらくこの少年にとっては、親を失ったのは三か月前ではなく、それこそ哀しみさえ風化するような、はるか遠い昔のことなのだろう。

 それが彼の精神的な強さといっていいのかどうか判らなかったが、まひろの目に、そんな重信は強くて頼り甲斐のある男のように映った。どんな苦境にあっても頼りにできる自分と同等の強さの男がいるなら、好きにならない理由はないとまひろは本心でそう思っている。以前は周囲の人間との間に壁を作って韜晦し続けてきた高梨まひろの恋愛観は、過酷な異世界での人生を経験してきた今、とてもストレートであけすけなものに裏返っていた。


          ☆


 林崎家に天ぷらを届けて重信といっしょに夕食をすませて戻ってきた美咲は、シャワーのあと、自室のベッドの上のスマホが震えていることに気づいた。

「あ、夏帆ちゃん」

 仲のいいクラスメイトからの着信履歴を確認し、それからメッセージを読んだ美咲は、クーラーのついていない自室の気温が一気に三度ほど下がったような気がした。

「――も、もしもし? 夏帆ちゃん?」

 慌てて折り返し連絡を入れると、夏帆はすぐに電話に出てくれた。

『ああ、ごめん、美咲。何か用事とかあったんじゃない?』

「だ、大丈夫、シャワー入ってただけだから。それよりさっきのあれ、ホントなの?」

『いや、わたしも人伝に聞いたっていうか……ここが一番信用ならないところなんだけど、見たっていうのが京川だからさー』

「京川くん?」

『あいつもほら、補習組だし、なおかつ数学のほかに英語と地理と漢文もやらかしてるっしょ? だから平日はほぼ毎日登校してるんだって』

「うん」

 バスタオル一枚巻いただけの恰好でベッドに座り、美咲は友人の次の言葉を待った。

『――でまあ、京川がいうには、ザキくんが補習に来る日は、かならずといっていいほど高梨さんがいっしょに登校してくるんだって』

「あ、高梨さんも補習受けてるんだ?」

『さすがにあんなことがあった直後だしね』

 ごく短時間だったとはいえ、いったんは心配停止状態になって入院していたのだから、確かに試験勉強どころじゃなかったというのは判る。それ以前に美咲の認識では、高梨まひろはもともとそこまで成績のいい生徒でもなかった。ならば補習もやむなしなのかもしれない。

『たださ、だったらなおさら補習に集中すべきじゃない? なのに高梨さん、何かザキくんにべったりなんだって。プールの一件以来、何だか人が変わったみたいだって京川がいってるよ』

「へ、へえ……確かに以前の高梨さんて、どっちかというとクールで、男子に媚びるっていうより、男子に持ち上げられるようなタイプだったもんね」

 美咲にはまひろの性格ががらりと変わった理由が判っていたけど、それを夏帆に説明するわけにもいかなかった。

『――どっちにしたってさあ、あの子、他人のカレシにちょっかいかけてる場合じゃないっしょ?』

「か、カレシって……」

『は? ザキくんは美咲のカレシでしょ?』

「べっ、別にわたしたち、つき合ってるとかそういうのは――」

『あんたたちがどう考えていようと、周りにいるわたしたちの認識だと、あんたたちはもうカップルなわけ。つき合ってるようにしか見えないの』

 狼狽気味に弁解しようとする美咲を黙らせ、夏帆は続けた。

『――でもって、高梨さんだってそれは判ってるはずっしょ? あんたと親しくなくたって同じクラスなんだからさ。あんたたちが仲がいいのを承知でザキくんに手を出すって、ルール違反じゃない?』

 なぜか美咲よりも夏帆のほうが腹に据えかねているという気がする。ふだんそうしたところは見せていなくても、夏帆は夏帆で、まひろやその周囲の自称カースト上位グループの態度に苛立ちをつのらせていたのかもしれない。

「で、でものぶくんはそういうのに簡単になびかないっていうか、むしろべたべたされるのを嫌うというか――」

『あー、それは確かに京川もいってたかも。高梨さんが一方的に話しかけてるのをザキくんがテキトーに受け流してる感じだって。あいつ腹立ててた』

「腹立ててた? 京川くんが?」

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