第四章 少女の窮地 ~第三節~

「戸隠さんのほうはともかく、高梨さんは戸隠さんを完全に敵視している。高梨さんは非常に強力なリターナーになって帰還してきたが、それだけに、戸隠さんに敵意を持つ彼女を“機構”に迎えるのは危険だというのが、戸隠さんの護衛役を自任する風丘さんの意見だ」

「それってつまり――高梨さんがリターナーの力を使って戸隠さんに危害を加えるかもってことを心配してるの? まさか、さすがにそんなことはなくない?」

「ふつうならどんなに悪感情を持っていたとしても、高梨さんが戸隠さんを襲うことはないだろう。高梨さんには格闘技の経験もないし、ナイフや拳銃を持ってるわけでもない。……だが、今の高梨さんはふつうの女の子じゃないからな。ナイフや拳銃よりはるかに強力な武器を手に入れ、そのあつかいに習熟しており、なおかつそれを使うことにためらいのないメンタリティの持ち主だ」

「え……? それじゃホントに高梨さんは……?」

 電子ジャーを開けてカレー皿にごはんをよそっていた美咲は、眉根を寄せてかすかな怯えの色を見せている。クラスメイトのひとりがそんな人間になっているのだと聞けば、それも無理のないところだろう。

「――まあ、戸隠さんの周りには、風丘さんをはじめとしたリターナーがいるし、高梨さんにもそのことは伝えてある。いくら戸隠さんが気に食わないからといって、“機構”のリターナーたちと戸隠財閥を敵に回すような真似はしないだろう。異世界で生き延びてきた彼女なら、そういう損得勘定は得意なはずだしな」

「それもそっか……」

 過酷な異世界を体験してきたまひろに、生き延びるための最善の選択肢が何なのか判らないはずはない。しかし同時に、この世界での倫理観を見失い、スリルを楽しむようになってしまった今のまひろが、常識ではありえない選択をする可能性がないとはいいきれないのも事実だった。

 だが、それをここでいって、美咲をさらに心配させる必要はない。

「それで、話はまとまったの?」

「ああ。何のかんのいってみても、戸隠さんの意志ですべてが決まる組織だからな、あそこは」

 ダイニングテーブルの上に冷えた麦茶とカレーを用意し、重信と美咲は向かい合って腰を下ろした。

「結局、個人の好悪の感情は抜きにしてビジネスライクに判断した結果、戸隠さんも高梨さんを迎え入れることに決めたよ。もっとも、にこやかに握手するようなシーンは最後まで見られなかったが」

「まあ、人類の危機だもんね。呉越同舟でいかないと」

「そういうことだ」

 野菜たっぷりのカレーを食べながら、重信はふと思いついて美咲に尋ねた。

「……ウチの学校の運営に戸隠家が深くかかわっているのなら、戸隠さんにこっそり頼んで今からでもおれの成績をいじることができるんじゃないか? どうだろう?」

「のぶくん……それ、本気でいってる?」

 これまでになく冷たい美咲の視線に、重信はいまさらのようにそっぽを向いてカレーをかき込んだ。


          ☆


 まひろの試験の成績が悪かったことについては、父は特に何もいわなかった。

 異世界ですごしていた数十年ぶんのブランクが大きく影響しているのは事実だったが、たとえそれがなかったとしても、まひろはやはり全教科で赤点を取っていただろうし、父はやはり何もいわなかっただろう。父はもう何年も前から、まひろに期待することを放棄しているからである。

 反対に母は、試験期間の直前にプールでの一件があったからか、ことさらまひろをフォローするようなことばかりいっていた。

「赤点は仕方ないわよ、今回はさすがに」

 いつもなら簡単な朝食を用意して、自室にいるまひろに声がけだけしてさっさと仕事に出ていた母が、けさはまひろの起床に合わせてハムエッグとサラダ、トーストの朝食を用意していた。

「――直前にあんなことがあったんだものね」

 退院の日にいっていたように、母は今後はもっと娘にかかわっていくつもりのようだったが、正直、まひろからすればありがた迷惑だった。いまさら母親が自分を見てくれたとしても、いきなりまひろが真面目な少女になり、猛勉強の末に医者になるようなことはありえないからである。むしろ母親の目があるせいで動きにくくなり、かえって面倒だった。

「――――」

 母のなぐさめの言葉を聞き流し、まひろはトーストにたっぷりとバターを塗った。

「ママ、もっと焼いて」

「えっ? まだ食べるの?」

「ダイエットやめたっていったじゃん」

「それは聞いたけど……朝からそんなに食べて大丈夫?」

「っていうほどの量じゃないでしょ。……あ、それと紅茶ちょうだい」

「あら、あなたいつもコーヒーだったんじゃなかった?」

「あれは何かコーヒー飲むと痩せるって聞いたから飲んでただけ。ダイエットしないならあんなもの飲まないって。苦いだけじゃん」

 バターを塗ったトーストの上にハムエッグを乗せ、半熟の黄身をこぼさず器用に食べながら、まひろはテーブルの上に放置されていた新聞に目を走らせた。

「――補習は午前中だけなのね?」

「うん。とりあえずきょうはね」

「おかあさん仕事があるからお昼前には病院に行くけど、昼食は冷蔵庫の中に入れておくからね?」

「判った。……あとさあ」

「なぁに?」

「夕食はがっつりお肉とか食べたいんだけど」

「あら、先週までは用意しておいても食べなかったのに?」

「ダイエットはやめるけど、ちょっと体力作りしようと思ってさ。夜中にジョギングしようかなって」

「夜中って……危なくない?」

 おいしそうな焦げ目のついたトーストの追加を皿の上に置き、熱い紅茶のカップを添えて、母は眉をひそめた。

「大丈夫だって。ジョギングっていってもこのへんぐるぐる回るだけだし。クラスメイトにいわれちゃったんだよね、わたしは細すぎだって」

「運動するのはいいけど……じゃ、防犯ブザー持ち歩きなさいね?」

 母はエプロンをはずして自室に引っ込んだ。娘にはきちんと食事をしろというくせに、自分はこのまま朝食抜きで身支度を整え、出勤するつもりなのだろう。

 まひろは追加のトースト二枚で残っていたハムとサラダをはさみ、砂糖多めの紅茶で流し込むように片づけた。

「――それじゃいってきまーす」

 おそらくメイク中であろう母に玄関から声をかけ、まひろは自宅を出た。

 夏休み初日の早朝はすでに蝉が鳴いていて、照りつける陽射しも強烈だった。ここからさらに気温が上がっていくのだと思うとうんざりする。

「――――」

 アスファルトに視線を落としてバス停への道を歩いていると、おのずと自分の脚が視界に入る。スカート越しに自分の太腿に触れてみると、重信の指摘通り、確かに細い。やわらかさよりも筋っぽさを感じる。以前はとにかく体重を減らしたくてダイエットしていたが、今になって振り返ってみると、自分でもどうしてそんなことを考えていたのか理解できない。

「これじゃいざって時に獲物に逃げられちゃうじゃんねえ。もっと筋肉つけなきゃ」

 ぼそりとつぶやいたまひろは、途中で立ち寄ったコンビニでフライドチキンを買い込み、バス停に着くまでのわずかな間にそれをすべて平らげた。

「――あ、林崎!」

 バスと電車を乗り継いで学校の最寄り駅までやってきたまひろは、改札を抜けていく乗客たちの流れの中に、見覚えのある後ろ姿を認めて明るく呼ばわった。

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