二言目 自分の幸せ

 あ、危ない……二日前の近況ノートの自分を嘘つきにするところだった……!


 ということで、こんばんは。こたこゆです。


 多分ですが、毎回書き方?というか口調?は変わります。

 今回は、時々自分が思うことです。


 自分の母親は、時々こう言います。主に自分が、つまらない愚痴や文句を言った時に。

『学校に行きたくても行けない人がいる』

『持病もなく健康で』などなど……



 これって、すごく正論なんです。当たり前で、自分は忘れがちですが。

 持病どころかアレルギーすら持っていなくて、風邪も一年に一回軽く引く程度。

 普通に高校に通って、勉強もそれなり。

 友達もいて、いじめられたこともない。

 うん、たしかに自分は恵まれています。


 でも時々、反論にもならない疑問が浮かぶのです。



 自分は、この生活をしている自分以外を知りません。つまりは、if世界の自分。そんなものないのかもしれない。あっても少なくとも今の自分では、行けないし、見れない。

 つまり、自分の幸せ以外を知らないんです。

 これは、どんな人も多分同じです。誰だって、自分以外を知ることはできない。


『学校に行けない人は、きっと学校に行けるだけで喜ぶ』

『だから、学校に行けてることを幸せに思わなきゃ』


 そう。たしかにそうなんです。学校に行けるのは幸せなことで、それは間違いないと思う。

 でも、そこで“学校に行けない人”を出すのは少し違う気がしていて。

 だって、その“学校に行けない人”がその考えに育ったのは、環境があったからだから。

 その人がどんな人か。

 それを決めるのは、本人の性格以上に周囲の環境なら、その人が学校に行けてたらどんなことを言ったんだろう。

 きっと、当たり前に『学校だるいな』くらいは言っている気が、自分にはするんです。


 自分の常識は、他人と比べられない。だって、その人には、その人だけの常識があるから。


 他人と自分を比べて、周りの不幸を見て自分は恵まれていると思いすぎると、辛くなります。


 環境が恵まれた中でも、そうでない中でも、辛いことはあります。それなのに、幸せ者だけが辛いなんて思っちゃいけない?そんなはずは、きっとないんです。だって辛いなら。苦しいなら。そこに違いなんて、命にさえ関わらなければ、ない。


 どんなに幸せ者だろうと、その人が幸せになる権利は変わらずあって。ただ、同じ行動でどれだけの幸福を得られるかは変わるかもしれないけれど。それだって、きっと、100中の50と、80中の40みたいな差なだけです。どちらも結局半分で、体感は同じ……みたいな。


 たとえどれだけ自分が恵まれていようと、恵まれすぎだなんて考えなくて、多分いいんですよね。

 もちろん、周りに迷惑をかけたり、独りよがりなのはダメです。

 だけど、他人と同じことをしたり当たり前のことをしたりする中で得る幸福を、他人と比べて後ろめたくなる必要はない。不満をこぼしちゃいけないと、溜め込む必要はない。


 そもそも、幸せ者が幸せを後ろめたく思うって、ある意味失礼ですよね。

 それって、痩せてる人が痩せたいと言ったり、お金持ちが『自分は貧乏だ!』って言ってたりするのと同じな気がします。

 たとえそれが本心だったとしても、嫌味に聞こえませんか?


 こんなことを考えている自分も、時々そう思い込んでしまいます。

 自分の幸せは、多すぎるんじゃないかと。そうやって勝手に思って、自分の首を絞めるように苦しくなる時が……ある時もあります。


 お金持ちがお金を使う必要があるように、幸せ者も、少しのお裾分けは必要かもしれない。


 でも、人によって価値観は違うんですよ?


 自分は思うんです。


 幸せ過ぎると思うなら……

 不満を言わないようにしようと考えるんじゃなく。

 後ろめたさを感じるんでもなく。


 ただ、感謝をしていたいなと。

 周りに押し付けてしまわないようにしたいな、と。

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