本編

XX1:事故物件

「N商事のYさん、先日お引っ越しされたようですよ」


 あの製品の価格がどうとか、納期がどうとか、メーカー対応がどうとか。そのような業務連絡に次いで、彼女はそう付け足した。

 手には処理済みの書類の束。控えめな笑みを浮かべて報告を終えた彼女は、書類を丁寧に一枚一枚ファイリングしていく。その様子を眺めながら、俺は彼女の言葉を脳内で反芻する。


(引っ越し………したのかぁ)


 仕事の話は兎も角として、その話題には思わず感慨深くなってしまう。


 ここは工業系の専門商社で、俺はいわゆる商社マンである。N商事は弊社にとって昔からつき合いのある取引先で、Yさんは現在の担当営業だ。仕事上でもやりとりが多く、毎日のように電話で納期や価格の調整をしている。その甲斐あってか、俺の案件でも最近そこそこ大きな金額の受注が決まったことは記憶に新しい。

  それに関して、Yさんは電話口でもなかなかご機嫌だったらしい。彼女――小内コウチ夏子ナツコは小さく笑いながら言った。


外村ソトムラさんが大きな案件を持ってきてくれたから、今月の数字助かったって。これは来期の給料アップに繋がって、引っ越し先のマイホームのローン返済も楽勝かもしれないって、言っておいてくれ――なんて冗談も仰ってましたよ」

「それで、長電話だったのか。ご苦労様」

「はい。私も他にお願いしたい見積もりがありましたし、元々Yさんにはお電話するつもりだったので丁度良かったんですけれど……」


 小内は途中で言葉を濁した。


「Yさん、賑やかな方ですから、なかなかお話が長引いてしまって。……今日はそんなにお仕事忙しくなかったから問題はなかったのですが……」


 目が泳いでいる。彼女の言いたいことはわかる。話を終わらせるにも、口を挟む隙がなかったのだろう。


 Yさんは気さくでいつも明るい人なのだが、どうにもお喋り好きなのだ。俺とは同年代で営業ついでに飲みになんかいくことも多い。だから適当にYさんの言葉に割って入ることもできるが、基本的に謙虚で大人しい小内には、まだそのような対応は難しいだろう。


 彼女は、外回り営業である俺のアシスタントという立場で、内勤業務を担当している。Yさんとのやりとりも多い。だからか、Yさんも気軽に小内に絡む。結果、聞き上手の小内が長電話に捕まる率が高いのだ。悪い人ではいし、気心が知れているとはいえ取引先の相手。小さな商社勤務である俺たちとしては無碍にもできない。


 それにしても、と彼が引っ越したというのはちょっとした衝撃だった。


「やっと引っ越し、決めたのか。ほっとしただろうな」

「……なんだか、少し含みがある言い方ですね?」


 小内が、小首を傾げて探るようにこちらを見る。珍しい。彼女は接客以外はだいたい黙々とデスクで仕事をするタイプなので、こういう雑談に乗ってくることは少ない。どうやら、余程今日は時間があるようだ。

 俺も急ぎの案件があるわけではない。それに、小内がまだ知らない話ならば良い反応がみれるのではないか。ちらりとそう思って、にやりとする。


(少し、脅かしてしまおうか)


 ちょっぴり悪戯心がわきあがり、声を潜めて彼女に囁く。


「実はYさんが今まで住んでたアパート、事故物件、だったんだよ」


 俺の発言に、小内は目を丸くして何度か瞬かせた。

事故物件、というのはあれだ。前の住人がなんらかの事情でその室内で亡くなった物件。いわゆる、心霊現象が起きてもおかしくない……なんて噂される類の曰く付き物件だ。


「といっても、Yさんの住んでいた部屋がそうだったわけではなくて、斜め上の部屋だかどこだかがそうだった影響らしいけど。家賃が安くて助かる、みたいな話をYさんはよくしていたんだ」


 総じて、事故物件は家賃が安いと相場が決まっている。それを目当てで分かっていて入居する猛者も多いというのも聞いたことはあった。だが身近にそういう人はいなかったので、Yさんに最初に話を聞いた時はびっくりしたものである。


 俺が聞いたのは飲みの席だった。酒の勢いも手伝って、つい「そんなとこ住んで呪われたらどうするんですか」なんて直球に聞いてしまったのだが、Yさんはビールを煽りながらゲラゲラと笑って「呪われたら外村クンに怨霊お裾分けにいくわ」なんて返されたものである。ついでに、「まだ、幽霊も怨霊も部屋には出ないんだけど実は」なんて小話も披露していたYさん本人は、全く気にはしていなかった。その小話曰く。


「急に棚から物が落ちたり、蛇口の水がいつの間にか流れ出していたり、したらしい。残念ながら大したことは起きなくて、この程度だから拍子抜けって言ってたな」

「それ、十分に怖いじゃないですか。え、急に物が落ちるってどういうことなんですか?」

「さてね。自分ではちゃんと置いたつもりだし、蛇口だってきっちり締めた記憶はある。でもいつのまにか、棚から物は転げてるし、水は出しっぱなしって話だったな。まぁYさん、うっかりな面もあるから。俺としては、本当にしっかり蛇口を締めてたかは怪しいと思うけど」


 俺は肩を竦めて見せる。


「Yさん自身も、怖いより水道代がやたらかかりそうで嫌って笑ってたよ」


 小内は、微妙な顔をした。笑いながらマシンガントークで勝手に蛇口をあける主に文句を言うYさんを思い浮かべたのだろう。気持ちは分かる。彼は基本的に明るくてあっけらかんとした男なので、こういうホラーみたいな話が根本的に似合わないのだ。


「でも、恋人には早く引っ越せとせっつかれているって何度かぼやいていたから……」

「だからやっと引っ越した、なんですね」


 納得いったように小内は頷いた。そして、真っ直ぐこちらへ顔を向ける。


「何も、起きなくてよかったです」


 それがあんまりにも真面目な表情だったので、俺はなんだか可笑しくなって口元が緩んだ。と、そういえばと思い出して今更ながらに彼女に尋ねる。


「小内も最近一人暮らしを始めたんじゃなかったっけ。こんな話しちゃったけど……、家に一人は怖くない?」


 以前は実家住まいだったところを、仕事にも慣れてきたからと独立したのはつい先月の話だった筈。会社から電車の乗り継ぎなしで来れて良い、とは聞いていたが。


(実家を出るのは初めてだと言っていたし、夜なんかは不安になったりしないかな。つい話をしてしまったけれど、事故物件の話なんて……)


 悪いことをしたか、と脳裏を掠めた。しかし俺の予想と反して彼女は首を横に振った。


「大丈夫ですよ。私はいい子にしているので、ちゃんと神様が守ってくれますからね。安心です」


 何故だか自信たっぷりにそう笑った小内に、俺はやっぱり可笑しくなって笑った。いや、怪現象なんかは、いい子にしてたからってどうにかなるようなものではないだろう。


(小内、たまに反応がずれてて面白い子だよなぁ)


 俺は少し安堵しながら、思う。でも彼女がそう信じているのなら、それはそれでありな気もした。


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