8-8 ~ 『スポーツ』その2 ~


 人体というものはただ立っているだけでもバランスを保つため、無意識の内に全身の筋肉を動かしているし……歩く時も同様に、前に進みながらも無数に存在している身体中の筋肉のそれぞれを使ってバランスを保ち、各々の運用法なんていちいち考えもしていない。

 だからこそ、突然「重力が変わる」という想像もしていない状況下に置かれた時でも、俺はいつも通り何も考えず……要するに、地球重力下での力の入れ方を選択していたのだろう。

 その結果が、第一歩目からの無様な転倒である。


「し、市長っ?

 大丈夫ですかっ!」


「……てぇ。

 コイツは思ったよりハードな運動だぞ、くそったれ」


 俺は、いきなりすっ転んでしまった恥ずかしさから、ハードボイルドを気取ったそんな声を出していたが……正直な話、この月面運動というのは想定以上にハードルの高い代物だった。

 何しろ日頃から何も考えずこなしていた肉体の使い方を、再度意識しつつ最初の最初から学び直さなければならないのだ。

 子供であればその卓越した適応能力でろくに考えもせず身体の方が慣れてしまうのだろうが、生憎と俺のようなおっさんは……身体は餓鬼に戻っているが、精神的にはもうおっさんの域に突入している俺としては、何も考えずに身体を動かせるほど若くはない。


「……まず、ゆっくり、そうです、一歩ずつ」


「お、おおおおお」


 基本的に重力が弱いということは、上から押さえつけられる力が足りてない訳だから、理論上、筋肉の動きとしては持ち上げる部位への力の強弱を意識すれば思い通りになる、筈である。

 そんなことを考えながら、アルノーの意識が入ったという美女……もうこの美女とあの鉄仮面とは別物なんだと俺は考え始めていたが、それは兎に角、彼女の言葉通りに俺は足を一歩ずつ一歩ずつ前へと踏み出す。

 幸いにして月兎とやらはその場で毛繕いするばかりで逃げようともしないため、俺は苦慮しながらも最初の月兎をこの手中に収めることに成功する。


「一匹目、ゲットだ、ぜっとぉっ?」


「っと、市長っ?」


 尤も、そのようやく慣れた感覚も、一匹目の月兎を捕獲してしまったことで水泡へと帰す。

 事前に受けた説明が正しければ、重力が地球に近づいた……月面の重力は地球の6分の1しかないのだから、要するに重力が増加したのだろう。

 その結果として、手の中の月兎の重さが突如として倍近くに増えたことにより、俺の身体は前へと傾ぎ……危うく二度目の転倒かというところでアルノーの十分に鍛え上げられた腕によって抱き留められる。

 次の瞬間、だった。


「ぐわぁああああああああっ?」


「あ、アルノーっ?」


 二十歳くらいのクールな美女という雰囲気だった……少なくとも仮想とは言え生身の肉体を得ていても鉄面皮と無感情さは変わらないと思っていたのだが、そんな彼女が突如として銃弾を身体に受けたかのように苦痛に顔を歪め、悲鳴を上げ始めたのだ。

 何というか、銃弾を受けても一切動じないターミネーターのような女だとばかり思っていただけに、下腹部を押さえてのその反応に俺は驚いた声を上げてしまう。


「だ、大丈夫、です、市長。

 生身の肉体がある所為で、子宮から来た突然の性衝動に驚いただけ、ですので」


「……おい」


 アルノーの弁明に、俺は思わずそんな冷たい声を放っていた。

 何しろあれだけの悲鳴を上げたのだ……生身の身体が銃弾を受けたとか、テロリストの手によって警護官を無力化するためのクラッキングを受けて「苦悶の梨を受けた痛みを再現された」とか、そういう被害を想定した俺は別におかしくはないだろう。

 それなのに、ただ抱き留めただけのラッキースケベ未満でしかないさっきの接触だけで、重大なダメージを被った様子を見せつけられたのだ。

 俺としては、サッカーの試合で「相手にカードを取らせるために重大な怪我を受けた演技をしている、しかもものすごく下手な演技を続けている選手」を見てしまった時のような……非常に白けた気分で警護官のリーダーを見下ろしていた。


「仮想空間では、女性は物理的処置、電気的処置はされておりません。

 ですが、殿方が拒絶すれば電気的処理を受けます」


「まさか、俺が拒絶したと?」


 アルノーの説明に、俺は思わずそう呟いてしまう。

 実際のところ、俺には女性との触れ合いを拒否するような感覚はないし、どちらかと言うと相手に嫌がられても自分が触る側に回りたいというか、痴漢モノのAVは大好物だったと言うか、そういう人間だったのに。

 まさかこの未来の世界で生きることを強いられ、社会の常識を学んでいく中で、他の男性が持っているような異性への拒絶反応まで知らず知らずの内に身に付けてしまったのだろうか?


「拒絶、されなかったので、驚いたのです。

 ……すみませんが、一時中止を。

 もしくは、仮想肉体の清掃を」


「……おい」


 おずおずと提案したアルノーのその言葉に、俺は再度突っ込みを入れざるを得なかった。

 武士の情けとばかりに詳しくは追及しないが……あの程度の肉体接触で身体の清掃が必要な事態に陥るなんて、この時代の女性は男への耐性がなさすぎないだろうか?


「取り合えず、洗浄だろうと発散だろうと好きにして来て良いぞ。

 俺は飽きるまで兎狩りしてる」


「……気を使っていただいて済みません、市長。

 では、失礼して……」


 そう言って消えたアルノーが一体何をどうしたのかは知らないし、知ろうとも思わない。

 ちなみにではあるが、先ほど突如として入ってきたBQCO脳内量子通信器官からの情報によると、市長権限を使えば『市民の仮想空間内』を覗き見することは可能らしい。

 幾ら何でもプライバシーの侵害が極まってるなぁと思いはしたが、BQCO脳内量子通信器官によると近年、そういう窃視癖で性的興奮を覚えた一人の男性がその旺盛な性欲に任せ恋人ラーヴェを20人近く娶った上に、1週間に一度というで精子の提供を行った好例があるそうなのだ。

 なのでこの未来社会では市長……男性による女性への窃視は迷惑防止条例の適用を受けることはなく、むしろ推奨されている気配すらある。

 ついでに言うと、女性側も覗かれているかもしれないスリルに興奮するとかで、仮想空間を構築するシステム側が使用者に気付かれるか気付かれないかギリギリの、『覗かれている演出』をわざとしているとか何とか……


 ──考えると頭がおかしくなりそうだな。


 俺はこの未来社会の歪みを……正確に言うと、少子化で悩む女性社会の迷走っぷりを目の当たりにして頭痛を覚え、思わず頭を抱えてしまったのだった。



 そうして、そんなこんなで仮想空間で遊んでいる内に、一週間が経過し……俺が地獄の男子校へ入学するまで、あと2日となったのである。

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