8-3 ~ 彼女の趣味その2 ~
適当に返しただけの感想に対し、警護官のリーダーであるアルノーから真面目腐った感想を返された俺は、何処となく居た堪れない気持ちになり……逃げるようにもう一人の警護官の方へと視線を向ける。
あまりにも優等生な警護官リーダーの解答の後だと非常に答え辛かったらしく、ユーミカさんは10秒ほどの間、視線を虚空へと彷徨わせていたものの……その後、俺の視線に圧されるようにようやく口を開いてくれた。
「……わ、私は、その、食べ歩き、を少々……」
当海上都市『クリオネ』の最長老……と呼ぶと多分怒られるような気がするが、ユーミカさん(38)の口にした趣味はそんな当たり前ようで……だけど、多少なりともこの未来社会を知ってしまった俺からしてみれば、当たり前とはとても言えないような代物、だった。
──食べ歩きってあのミドリムシを?
確かに原材料が微細藻類鞭毛虫からなる同じ栄養食であろうと、味付けがちょこちょこ違うのは今まで俺も体験した通りではあるが……それでも所詮はミドリムシ。
だからこそ、俺はこの未来社会での食事は完全に諦めていたのだが……
「
もしもあの完全栄養食にコンソメ味とかカレー味とかチョコ味とかがあるならば、今後一日三回訪れる「ゲル状物質摂取」という苦行の際に、若干なりとも楽しみが増える、かもしれない。
その程度の期待を抱きながら、僅かながらの興味を引かれた俺は少しだけ身を乗り出しながらユーミカさんへとそう問いかける。
「い、いえ市長。
食事と栄養摂取は別物ですので」
「……は?」
俺の問いに対して彼女が返してきた解答は、そんな……俺の予想を完全に裏切るものだった。
──お前は何を言ってるんだ?
俺の混乱した脳内の状況を無理やり言語化すると、そんなものになるだろうか?
尤も俺自身は、彼女が口にした各々の単語の意味は理解できるけれど言葉として意味が理解できない『不可思議な単語の羅列』を前に混乱し切っており、その言葉を口にするだけの余裕すら存在していなかったのだが。
「お前、その行為は摂食障害を招く恐れがあるので、なるべく控えるようにという広告があるだろう?
それを市長の前で口にするなど……」
「い、いえ、特に法律で禁じられている訳でもないですし……。
そもそも、満腹中枢の錯誤によって身体に影響を与えない程度であれば問題ないと医師AIも宣言しているじゃないですか」
ユーミカさんの趣味はあまり身体によろしくない代物なのか、アルノーが小声で……だけど俺にも完全に聞こえるような声で部下への注意を口にし、ユーミカさんも小声でそう反論をする。
そうして二人が交わす言葉が今一つ呑み込めず、首を傾げた俺だったが……その疑問はすぐさま
──仮想現実での五感を利用した、趣味としての食事、だと?
そもそもの原因は、過食症から始まり、栄養過多による肥満、塩分過多による高血圧、特定の栄養素が足りない栄養失調など……『食事を要因とする病気』が死因のトップ5を独占してしまったこと、だった。
それに加え、腸内環境が様々な病気の要因となっているという論文や、繊維不足が原因の便秘から来るストレス、また栄養素の偏りに端を発する衝動的な犯罪行為など……人間の全ての行動は食事に影響されているという意見が、この未来社会の200年ほど昔、主流になったとのことである。
──だったら、食事を制限すれば良い、か。
そこで200年もの期間をかけて、カロリーを必要最小限に、繊維質を始め各種栄養素をバランス良く、消化吸収を行いやすく培養が容易なミドリムシをベースに、食事改革が行われた、と
──で、美味しいものを食べたい欲求は
仮想空間で腹を満たすなんて、焼肉の匂いを嗅ぎながら白米を食べるのと同等としか思えず、「そんな空しい行為に意味があるのか」と一瞬だけ眉を顰めた俺だったが……真面目に考えるとこれこそが人類にとって最も需要のある、生活に直結した切実な娯楽ではないだろうか?
いくら甘いものを食べても虫歯にならない、ラーメンや焼き肉など高カロリーをどれだけ摂取しても体重増に悩まされない、好きなものばかりを食べ続けても栄養の偏りによって体調不良を起こすことがない。
そして何より……どれだけアルコールを摂取しても二日酔いにならない。
──誰かと飲んでいたら、飲み過ぎでの失言ってのは多々ありそうだけどな。
勿論、アルコールによる判断能力の欠如を考えると完全に無害とは言えないものの……それでも数秒考えるだけでこれだけのメリットが存在するのだ。
これは人類の文化そのものを大きく塗り替え得るほどの、凄まじい発明だと断言できる。
当然のことながら、食事を一律で健康的にするなんて改革は一朝一夕では終わらなかっただろうし、伝統的な食事に対する固定観念……俺が今抱いている違和感を打ち砕くのは容易ではなかった筈である。
それでも、この未来では人類が「無駄な食事を必要としない」社会を形成してしまっているのだ。
──ああ、だからか。
以前、俺が未来の
彼女は男性の言葉を最大限に重んじるが故に、それ以上は追及してこなかったのだろうが、彼女からしてみれば、遥か昔に廃れた文化……俺の感覚で言えば、スマホが国民の全てに流通した日本でモールス信号用のアマチュア無線機工場を造ろう、と言い出したみたいなものだろうか。
──そりゃ、首を傾げるわ。
自分の言動を今になって恥じる俺だったが……進み始めた都市計画を今さら変えられる訳もない、と言うか、あれだけ多忙な婚約者の姿を見ている所為か、今になって計画変更を口にするのも気が引ける。
まぁ、所詮俺は一介の測量屋でしかなく、都市計画についてはずぶの素人なのだから、間違えることそのものは恥ずかしいとすら思わないのだが……それでも『趣味としての食事』を充実させることを間違いとは認めたくない。
「それは、面白そうだな。
ちょっとばかり味わってみたくなった」
「で、では、ご案内します。
えっと、初心者は何が合うかな取り合えず味付けの濃いものや油っぽいものは食べ過ぎると気持ち悪いと言われているし糖分の取り過ぎも少量ならばでもまずはこの辺りの伝統的な食事から始めた方が無難って声もあったけどこっちの路線も捨てがたいしこの手のって初心者と経験者の感覚の違いが分からないし……選んでもらおうにも料理の名前で味付けが分かるものと分からないものがあるからそれを説明するだけで一日が終わってしまう気もするし……」
美味しい食事という概念がある俺としては、未来の料理に興味がある程度でそう口にしたのだが……ユーミカさんにとっては食事は劇薬の一種という概念だったのか、それとも単純に男性と接する機会がなさすぎて挙動不審になってしまったのか。
理由は不明だったものの、完全に彼女はパニック状態に陥ったらしく……早口で今一つ認識できない単語を羅列し始めてしまう。
最年長でありVR食事という趣味に最も精通している筈の彼女が役立たずと化したのを察した俺は、すぐさま
……その時だった。
鉄面皮に覆われていて表情が変わる余地なんてないアルノーの、何処となく寂しげな気のする横顔が、ふと視界の端へと移りこんだのは。
──流石に、酷いか。
趣味を聞くだけ聞いた彼女をこのまま放置してしまうのは……特に警護官のリーダーであり、先日は身体を犠牲にしてまで命を救ってくれた彼女に対しフォローの一つも入れないなんて……いくら男性が過剰に保護されているこの時代であっても、人としてどうかと思うレベルで不義理だと思えてしまう。
「あー、アルノー。
後で軽くなら……本当に軽くなら、ジョギングもその、付き合うぞ、うん」
だから、だろう。
気付けば俺の口からは、彼女に対して大幅に譲歩する……全く興味のない趣味に自ら首を突っ込むような発言が零れ出てしまったのだった。
「はい、市長……」
そのフォローが効果的だったのかどうかは分からない。
ただ、全身が鋼鉄で出来ており、声も機械による合成音声で感情なんて欠片も含んでいない筈の彼女のその返事は、浮かれ弾んでいたように俺には聞こえたのだった。
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