第一章 「覚醒編」
1-1 ~ 覚醒 ~
「……知らない天井だ」
凄まじく長い間のような、それほど長くもないような……夢すら見ないほど深い眠りから目覚めた直後に独特の呆けた状態のまま、俺は目に入ってきた光景に思わずそう呟いていた。
実際、電灯がないのに天井がぼんやりと明るく光っている現状を他にどう表現しろと言うのだろう?
勿論、酷く長い間寝続けた時のような……頭がぼんやりとして思考力が全く働かないのもそんな台詞を呟いた原因かもしれない。
「お目覚めになられましたか?」
だから、だろう。
……俺が寝ているベッドの側に佇んでいたその女性の存在に全く気が付かなかったのは。
「驚かせて申し訳ありません。
私は貴方様担当の医師であるサトミと申します」
その女性は二十代後半、という雰囲気だろうか。
白衣を着込み眼鏡をかけていて真面目という形容詞がぴったりと合う、正直かなり好みの顔立ちをしていた。
サトミと名乗ったその女性は何故か左手を自分の胸に当て、手の甲を見せるような仕草をしながら、更に言葉を続けてくる。
「まことに申し訳ございませんが、貴方様のお名前をお教え頂けないでしょうか?
生憎とデータが損失し、貴方様の個人情報は何一つ残っておりませんでしたので」
「な、まえ?
そんなの……」
医者がデータを紛失するなんてどんなアホ経営してるんだよ、と内心で呟きながら俺は彼女の問いに答えようとして……固まってしまう。
──待て?
──待て待て待て待て?
「自分の名前」なんてありふれてて普通に使っていた単語が浮かんでこない……十数年間出会ってなかったクラスメイトの名前を完璧に忘れてしまった時のように、今まで当たり前に感じていたその単語が出てこない事実に俺は思いっきり慌ててしまう。
尤も、そんな俺の動揺も、彼女にとってはそれほど珍しいことではなかったのだろう。
「落ち着いてください。
あれほどの『修復』を行った場合、記憶が失われることは珍しくありません。
思い出せないことは思い出さなくて構わないのです」
自分の名前が思い出せないどころか、記憶を幾ら辿っても「さっき起きるまでの殆どが思い出せない」という非常事態に、俺の呼気は知らず知らずのうちに荒くなってしまい……サトミという名の女医はそんな俺に優しく語りかけ、落ち着かせてくれる。
顔立ちにスタイルにインテリっぽい雰囲気に眼鏡と俺の好みの三拍子プラス1が揃っていて、正直なところ今までの俺なら一目で惚れていただろうという変な確信があるものの……生憎と自分の記憶が完全に信用できないこの有様ではそんな直感が何の役に立つというのだろう?
「では、仮名としてクリオネと呼ばせて頂きます。
実はその名前を、この医院でのデータ管理上仕方なく、通称として利用させて頂いておりましたので」
意思のその名前に、俺は頷くことしか出来ない。
クリオネ……北極の海で泳ぐ貝の仲間、だったか。
「ははっ。
北極の海底に浮かんでいた俺にはお似合いの名前ってか」
俺は肩を竦め、天井を仰いぎながらそう呟き……自分の声が耳に入った瞬間、一つの事実に気付かされ、全身の筋肉を硬直させていた。
自分の名前すら思い出せない癖に、「この身体が北極の海に浮かんだ」ことや、「北極に浮かんでいる変な貝類っぽい浮遊生物の名前」を何故か覚えていることに気付いてしまった所為、だった。
正直、記憶の繋がりは完全にちぐはぐで、どれだけ考えてもろくに過去を思い出すことすら出来ず、なのに何故か知らない知識だけが幾つか唐突に浮かび続けてきて……その事実が俺を余計に混乱させていたのだ。
とは言え……
──考えていても仕方ない、か。
カップ麺が出来上がる程度の時間、天井を仰ぎ続け……そろそろ首が痛くなってきた頃、思い出せないものはどうしようもないという結論に達した俺は、大きく息を吐き出して気分を切り替える。
実際問題、仕事でもそうだったことなのだが……分からないことを幾ら考えたところで意味なんてない。
とっとと切り替えて書類の一枚でも仕上げた方が遥かに効率的で建設的である。
……こういう短絡的な思考こそが、俺が三流大学にしか入れず、そこを一度留年した挙句、地方の測量屋にしかなれなかった理由なのだが、まぁ、そんなこと今はどうでも構わない。
それに飲み会明けでどうやってアパートへ帰って来たか分からないなんてことを幾度となく味わった俺からしてみれば、記憶が吹っ飛ぶことなんてそれほど大したことじゃないのだから。
「さて、と……ととぉ?」
切り替え終わった俺は、身体を起こそうとして……何故か四肢に力が全く入らず、起き上がることすら出来ずにベッドに崩れ落ちてしまう。
「あのっ、まだ起き上がっては……」
どうやら長い睡眠の結果、四肢が酷く弱っているようで……こんな女の子みたいな真っ白で細い手に成り下がって……
──待て。
──ちょっと、待て。
百歩譲って、記憶が吹っ飛ぶのは分かる。
酒宴が多い地方に生まれた所為か、職業的にも飲み会が多く……記憶が飛ぶことには耐性があるのだから、それはまぁ受け入れよう。
しかしながら……太くてゴツい指が並ぶおっさんの手だった俺の腕が、こんな血管が透けるほど真っ白で、女の子のそれよりも細い指が並ぶような手になるなんて、そんなアホな話が……
そうして自分の身体に不安を覚えた所為、だろう。
俺は眼前に異性がいるにも関わらず、身体中を触りまくり……股間に凄まじい違和感があることに気付く。
そうして布団をめくり上げ、自らの股間を眺め……
「何じゃ、こりゃぁああああああああああああああああああっ!」
俺は自分の名前が思い出せなかった時よりも遥かに深刻な、肺腑の奥から呼気全てを放出するような大絶叫を上げてしまったのだった。
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