第1話富察氏美蘭

「美蘭、その髪飾りは造花ではなくて? 仮にも皇太子の福晋を選ばれる場に行くのよ、そのために作らせた玉の髪飾りがあるでしょう」


「お母様、わたくしは華美に装うことは好みません。人間の本質は外面にあらわれるものです。わたくしは装いでごまかすつもりはございませんの。それに、水害で苦しむ民もございます、装いに贅沢をしては民を蔑ろにすることに」


愛新覚羅弘暦様は次世を担う皇太子。清朝の頂点に立たれるお方だ。聡明で詩作なども好まれるのみならず、文武両道の素晴らしいお方だと聞いていた。わたくしは十五歳を迎え、弘暦様の福晋──妻をお選びになる選抜に臨むこととなった。


福晋には正室である嫡福晋、その下に副福晋、側福晋、庶福晋、格格がある。意気軒昂の富察氏一族の娘として生れたわたくしは、嫡福晋──未来の皇后となるべくして育てられた。


後宮とは、どのような所なのだろう。弘暦様はわたくしより一歳の年上、けれど、わたくしと一歳しか違わないのに皇太子としての重責を勤めあげておられる。


「美蘭……後宮とは寵愛を得るために熾烈な闘いがあるのですよ。あなたの質素倹約な気性は確かに美徳でしょう。けれど、そのように慎ましくあってばかりでは後宮で生き残れるか母は心配なの」


「お母様。わたくしは富察氏の娘として確かに育てられた身ですわ……どうかご安心なさって。けれど、同時にわたくしは怖いのです。弘暦様と御目見えすることが、今日がわたくしの人生を決めてしまう」


「そうですよ、美蘭。今日は特別な場に立つのです。ですから、装いも華々しくしなくては」


「それは、わたくしには不要ですわ。弘暦様は聡いお方だと聞きます。わたくしの装いよりも、わたくしのありようを見抜くでしょう」


「美蘭……あなたは穏やかで賢い娘だけれど、言い出したら聞かないのね」


お母様がため息をついて、わたくしの支度が済んだ姿を見つめる。副晋選びの正装とは、こんなにも重いものなのかと弘暦様の前でまともに歩けるか不安にはなるけれど、富察氏一族の未来がかかっている。


そして、わたくしが──覚悟はしていたつもりだけれど、妻として入内するとは、これから、どのような日々が待っているのだろう。


夫婦として、弘暦様はわたくしを認めてくださるだろうか。そこに愛情は生まれるのだろうか。わたくしは精一杯お仕えするのみだけれど、おなごとして愛されもせず名ばかりの妻となるのは悲しい。


わたくしは、弘暦様に寄り添う妻として他でもない弘暦様にお認め頂きたいのだ。十五歳のわたくしは婚姻というものに夢をいだいていた。


弘暦様のお噂を耳にしては、想像をふくらませてきた。


まだまだお若いのに皇太子に立たれるほどの資質を認められたお方だ、並大抵のものではない。


そのお方の副晋選びに、わたくしは挑む。あくまでも、わたくしはわたくしとして、自分のありようを貫いて。それは、運命と闘う決意でもあった。


「さ、美蘭。紫禁城に行きなさい。富察氏一族の繁栄も衰退も、あなたにかかっていることを忘れずに振る舞うのよ」


「……はい、お母様」


富察氏一族。何度聞かされてきたことだろう。わたくしは一族の駒なのか。いや、駒だとしても、紫禁城に入れば新しい生活が始まる。


わたくしは、弘暦様の妻となる。


決意を胸に、屋敷を出た。



* * *



紫禁城の壮麗さは圧巻だった。赤い壁に青煉瓦。広大な場所に宮が建ち並ぶ。


そこには副晋選びに挑む娘達がことさら華美に装って集まっていた。


弘暦様の待つ宮に案内される。調度品も素晴らしく、上品な香が焚きしめられていた。傍らには養母の熹貴妃が座して厳しい目を娘達に向けている。緊張がいや増した。


娘達が一族の名と共に紹介され、並んでゆく。


「富察氏、美蘭」


呼ばれて胸が張りつめる。


弘暦様がわたくしを見た。鋭く、胃の腑まで暴かれそうだ。目が合って、刹那見つめあった。なんと理知的な瞳だろう。それでいて剛胆な瞳。


弘暦様が口を開いた。


「義母上、側女の高玉巵を妻に迎えたいのですが」


周囲に動揺が走った。奴婢を妻に迎えたい?


「弘暦、まずは嫡福晋であろう。そなたの伴侶を決める場であるぞ」


「けれど、彼女は私によく仕えてくれています。奴婢でも賤しさはなく詩作にも通じている。逸材だと思うのですが」


横目を使うと、呼ばれた奴婢が畏まって頬を染めている。地味な衣を着ていても美しかった。高氏といえば包衣を父に持つ一族だった。そのつてで紫禁城に側女として入ったのだろう。


熹貴妃が重々しく「ならば、格格に封じればよいであろう。それならば皇太子も満足だな?」と仰せになった。


「はい、義母上。そして──富察氏美蘭」


いきなり名を呼ばれて、息が止まりそうになる。弘暦様はじっとわたくしを見つめて椅子から立ち上がり、昆を取って、わたくしに差し出した。


それは、嫡福晋に選ばれた者に与えられるものだ。


「そなたは華やかさを無為に追い求めず、慎ましく美しい。瞳には情があり、後宮を仕切るには誠に相応しい。嫡福晋として封じる」


「……光栄に、存じます……」


声は震え上がっていた。


弘暦様の伝えるお声には張りがあり、よく響いて麗しい。若々しさのなかに皇太子としての重みもあった。


わたくしは、このお方の正妻となるのか?


熹貴妃も異を唱えない。


「富察氏といえば栄華を極めている家系、皇太子の善き後ろ楯になるであろう」


「はい、義母上。私は──」


弘暦様が、つとわたくしに手を伸ばす。造花の髪飾りにそっと触れた。


「この飾りを見て決めました。彼女ならば皇后となっても堅実に仕えてくれるでしょう」


鼓動が暴れて倒れそうだ。わたくしは震える膝を折り、かろうじて礼をとって「感謝いたします」と口にした。


弘暦様は満足そうに頷き、他の庶福晋や格格を選んでゆく。


選ばれた者の反応は様々だった。


それもそうだろう。旗人──満州貴族の娘でありながら格格になる者もいる。


わたくしは、それを呆然と眺めながら自分にふりかかった出来事におののいていた。


お母様は、一族は、わたくしが嫡福晋となることを当然と考えていた。けれど、わたくしは自覚や覚悟、意欲が足りていなかったのだ。


「──では、これまで。皆下がるがよい」


「はい、失礼いたします」


娘達が声を揃えて膝を折り、礼をとって静かに退室する。わたくしも同じように静かに歩きだした。


「──美蘭」


そこで、不意に弘暦様がお声をかけてきた。びくりと体が強張った。


「……はい、皇太子様」


何とか声を返すことができた。弘暦様は、先ほどとは違う眼差しをわたくしに向けてくださった。それは、慈愛が籠められていた。


温かい、眼差し。柔らかくて心がとろけそうになる。


「そなたは自負もあったであろうと思っていたが、あまりにも驚くので私こそ驚いた。これからは私の妻として共に生きてくれ」


「……あ、ありがたいお言葉、胸に刻みます」


「よろしい、下がるといい」


「はい」


──そのあと、屋敷に戻るまでの記憶はほとんどない。弘暦様の眼差しで頭がいっぱいだった。脳裡に焼きついたそれは、わたくしを虜にするのには十分すぎた。


屋敷では、さっそく入内に向けて騒がしく準備を始めていた。


それも、どこか他人事のように見える。けれど、同時に、わたくしが弘暦様の妻になるという昂りを呼び起こすのだ。矛盾している。


お母様や家族は喜び勇んでいた。


それにしても──と、思う。


高玉巵が、真っ先に格格に封じられたのは、──それだけ、弘暦様から想われていたのだろうか?


それを思うと、どんよりとした靄がかかった。


それでも、わたくしは嫡福晋に選ばれたのだ。十五歳にしかなっていない小娘のわたくしには重いものだが、──あの眼差しを信じよう。何より、弘暦様のために。


わたくしの人生は、弘暦様に寄り添うためにあるのだ。若すぎるわたくしには、触れられた感触の軽く優しいものや、向けられた眼差しの柔らかさと温かさが何よりも沁みた。






──けれど弘暦様は、わたくしを嫡福晋にお選びになった後も、次々と福晋と格格を迎え入れることになる。皇太子であっても異例の多さに、わたくしは常に煩悶を抱きながら善き妻を努めるしかない自分を必死で鼓舞した。


それは、わたくしが公的な正妻であり、弘暦様が即位なされば皇后となる未来の責任があって、何よりも──弘暦様をお慕い申し上げていたからだ。






後宮に入ってからの日々は、これから語るとしよう。


華やかで薄暗い、世界。


たおやかな会話のなかの毒。


蝕まれながら、そう、皆が毒を受けながら、受け入れながら、後宮では笑顔と気品を重んじて寵愛を競っていた。



禁忌を犯してまでも。




* * *



紫禁城での暮らしは、しきたりや確執、噂での諍いに満ちていた。義母となった熹貴妃様との関係もある。


格格や福晋が集まれば、他の妻の話題には事欠かない。


「美蘭様、嫡福晋となってすぐに御子に恵まれるとは羨ましいものですこと。前世でどのような徳を積まれたのでしょうね」


「ありがとう、けれど公主だわ。皇子に恵まれた桃華の方が前世でよほど徳を積んだのね」


桃華──富察桃華は、わたくしが嫡福晋に選ばれた時に格格として輿入れした者だ。同じ富察氏でもわたくしの一族ではない。家格も劣る。彼女は、わたくしが公主を産んだ同じ年に皇子を産みおおせて弘暦様を喜ばせ、──けれど格格からの格上げはなかった。


桃華は、焦れているのであろう。格格の子は所詮庶子でしかない。初めての皇子を産み、勝妾として扱われても、それでも格格だ。その鬱憤を晴らすように、その場にいない玉巵を話題に出した。


「玉巵の方が遥かに徳を積んでいたようですわ、子もなしていないのに格格から側福晋に昇格したのですもの。夜伽にも頻繁に召されますし、──ですけれど」


そこで桃華は含み笑いをした。玉巵を嘲るような面持ちで、声をひそめる。椅子から身をわずかに乗り出し、隣に座るわたくしの耳許に囁きかけた。


「ご存知ですか? 玉巵は夜伽では俯陰就陽や口唇奉仕をして悦ばせておいでだとか……」


内容は、あまりにも玉巵を下劣に思わせるものだった。わたくしは目を見張り、桃華を見つめた。桃華は悪戯を企むような笑いを瞳にたたえている。


「口淫は禁忌だわ、はしたないでは済まされない。それは出どころのない噂ではなくて?」


「火のないところに煙は立ちませんわ。だから玉巵は子宝に恵まれないのでしょうね。口唇で精を啜っては孕めませんもの」


このような下品な会話も、嫁ぐ前には経験したことのないものだった。わたくしは富察一族のなかで、真綿にくるまれて育っていたのだと輿入れしてから思い知らされていた。


絶句して言葉を探していると、侍女が「玉巵様がおみえになりました」と恭しく告げた。桃華は玉巵を疎んでいるのか、あからさまな渋面を作って「美蘭様、わたくしは戻りますわ。また共にお茶を飲んでくださいませ」と告げて立ち上がった。


桃華と玉巵がすれ違う。ふくよかな笑みをたたえて入室してきた玉巵に、刹那、桃華は冷ややかな眼差しをぶつけて二人は挨拶もせずに離れてゆく。


わたくしは玉巵に何と声をかけてよいものか分からなかった。直前に桃華から聞かされた話に心を乱されていた。


それを知るよしもない玉巵はわたくしの前で膝をおり、片手をあげて「嫡福晋にご挨拶しますわ」と見た目は楚々として口上を述べた。


「ええ……楽にして。座りなさい」


「感謝致しますわ」


玉巵が桃華の座っていた椅子に座る。わたくしは、当たり障りのない話題を探した。


「御花園の花が見事なようね。皇太子様と皆で見に行けたら素敵でしょう」


「それは素晴らしいですわ、その時には、わたくしもぜひお招きくださいませ」


「ええ、もちろんよ。今宵にも皇太子様にも伺ってみましょう。」


おおように答えると、玉巵は気まずそうに──けれどどことなく卑しく目を細めた。


「今宵はわたくしが夜伽に召されておりますの。わたくしから伺いますわ」


また玉巵か──それが正直な気持ちだった。弘暦様は嫡福晋であるわたくしを重んじてご寵愛をくださるが、それを凌駕する玉巵への厚遇は折に触れて胸にさざ波ともささくれともいえるものを覚えさせた。


わたくしは笑みを作り、取り繕った。


「そう、玉巵は本当にご寵愛を身に集めていて羨ましいわ。詩作にも通じているし、聡明ですものね」


玉巵は、見抜いているであろう。愛想よく笑顔をたたえているが、その笑みは傲慢だ。その笑顔が、よこしまな色を見せた。


「嫡福晋様も、わたくしなどよりご寵愛を得られますわ。──わたくしが使うものを秘密でお教え致しましょうか?」


一体何なのか。先ほど聞かされた下劣な話を思い出し、わたくしは身構えずにいられなかった。玉巵はお構いなしに耳打ちしてきた。


「──犀角ですわ」


意外な言葉だった。


「犀角? それは熱冷ましの薬でしょう」


「ええ、そうですわ。けれどご存知ですか? 昔の書には、犀角を媚薬として用いると書かれておりますの」


わたくしには玉巵が人間に見えなく感じられてきた。ご寵愛の為に、手段を選ばないのか。彼女の求めるものは、一体どのようなものか……。


「媚薬だなんて、皇太子様に知れたら逆鱗に触れるわよ」


かろうじて言い返すと、玉巵は自信ありげに「犀角は熱冷ましですもの」と肩をすくめた。


「どうとでも言い訳は出来ますわ。劉侍医には処方を頼むわけにはいきませんが、当侍医になら銀子を与えておりますから安心して頼めますの。──嫡福晋様もいかが? 他の方には教えるつもりはありませんの、わたくしは蔑まれておりますから」


指先が強張り、冷えてくる。


返す言葉を失っていると、玉巵は「今日はご機嫌を伺いに訪れただけですのよ、夜伽の支度もございますし、不興を買ったようなら失礼いたしますわ、申し訳ございません」と悪びれる様子もなく言った。


夜伽──わたくしが最近務めたのは何日前であったか。夕餉を共にしたり、昼間に訪れて頂いたりと重んじて頂けている自覚はある、けれど──。


「……玉巵、犀角は本当に効果があるの」


「わたくしをご覧くださいな。お分かりでしょう?」


蛇のような目で玉巵が笑った。


「……当侍医になら、誰にも知られずに処方を受けられると断言出来て?」


真っ黒な墨に白絹が染まるような浸潤。玉巵は得たりや応と頷いた。


「熱冷まし、ですからね。ご安心を」


わたくしは何かが麻痺してくるのを感じた。


紫禁城で暮らすようになって一年半、わたくしは、ここは華やかな炎獄だと知りつつあった。


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紫禁城に眠るくちなわのさだめ 城間ようこ @gusukuma

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