39.行方
テッペイが、家を出ていった。つまり──逃げた。
どうして産んでくれと言ってもらえると思っていたのだろうか。
テッペイには結婚願望などなく。今だけ楽しければそれでよく。
詩織の時にも逃げ出していて、前科があると知っていたはずなのに。
自分だけは特別だとでも思っていたのかと自嘲する。
そんなわけ、あるはずがないというのに。ただの金づると思われていたことを、今さらながら思い出した。
妊娠して、浮かれて、それを嬉々としてテッペイに話して。
なんという滑稽な姿だろうか。
ポロッと涙が溢れてきた。
泣きながら、動画を再生させる。トトトトトトッという元気な音を聞いては、もう堕すなんて考えられない。
しかし、堕すという言葉を浮かべて、ルリカはゾッとした。
もしかしたらテッペイは、堕胎費用を調達に行ったのかもしれない。いきなりできた『用事』など、それしか思い当たらない。
堕すのは、絶対に嫌だ。産みたい。なにがなんでも産みたい。たとえ、結婚できなくても。
「逃げ、なきゃ……」
ルリカは仕事用のノートパソコンとタブレットをバッグに詰め込み、いくつかの着替えを入れただけで家から飛び出した。
ルリカは最初こそどこに行こうか悩んだが、結局は実家に戻ることを決める。
新しく家を借りてどこかで暮らすにしても、とりあえずしばらく身を置く場所が必要なのだ。
両親は、きっと怒るに違いない。実家に戻っても、堕ろせと言われてしまうかもしれない。でも、優しい弟の
それに産むとなれば、親に報告しないわけにはいかないのだ。
どうしても許してくれなければ、また逃げ出して知らない土地で一人で産んで育てる。幸い、お金はあるのだから。
実家に向かうバスに乗り込んで、ルリカは発車を待った。この先のことを色々と考えていると、ピルルとスマホが鳴る。マナーモードにし忘れていたと、慌てて電話に出た。
『ルリカさん? どうしたんですか? 緑川さんも練習に来てないですけど』
ミジュの声が耳に飛び込んできて、ルリカはバスの中で声を落としながら返事をした。
「私、実家に帰ろうと思うの。今までありがとう、ミジュちゃん」
『ええ?! なんですか、それ?!』
ミジュは声を上げて驚いている。そういえば急ぐあまり、携帯の充電器を持ってくるのを忘れてしまったなぁと思い出した。
『緑川さんも一緒なんですか?!』
「ううん、テッペイはどっか行っちゃった」
『はい? ちょっと拓真くん! 緑川さんに電話して!』
ミジュは焦った声で拓真に指示を飛ばしている。ふと確認すると、充電が恐ろしい勢いで減っていた。
これはもう、買い替え時だなぁとぼんやり思う。
「ごめんね、充電なくなりそうだから、切るね」
『えええ、ちょ、待ってく……』
ぷつりと自分から通話を切り、残った充電でテッペイをブロックリストに加える。
拓真から連絡をもらっても、テッペイがルリカに電話してくるとは思えなかったが、念のためだ。今はまだ、テッペイと喋りたくなんかない。
テッペイをブロックに入れる操作を終えたところで、ちょうど充電が切れた。
「あーあ……」
勝手にそんな声が漏れる。
スマホの電源ひとつ切れただけで、誰ともつながりがなくなってしまった。人とのつながりを切るのはなんとたやすいことか。
人と人が結ばれるのは、こんなにも困難だというのに。
バスは、しばらくして発車した。
こんな風に鳥白を出ることになるとは思ってもいなかった。
たった五ヶ月過ごしただけの町だが、ルリカの思い出はどれも色鮮やかで。
悲しいくらいにキラキラと輝いている。
予想外の別れになってしまったが、テッペイを好きになってよかったと、ルリカは心から思った。
本当にどうしようもないダメ男で、クズ男だったけど。
人に不快な発言ばかりしていて、ハラハラさせられっぱなしだったけど。
アルバイトはすぐサボるし辞めるし、就職はしたがらないし。
エッチだし、バカだし、空気は読めないし、本能だけで生きているような男だ。
それでも。
テッペイと暮らした日々は、本当に楽しかった。
バッセンに連れていってくれた。一緒にスノボーやスケートをした。
バレーに連れていってくれた。友達がたくさんできた。
毎朝一緒にご飯を食べた。ゲームで遊んだ。
ルリカの趣味や仕事を認めてくれた。褒めてくれた。
そして、キスをしてくれた。処女をもらってくれた。
いいことも悪いことも色々あったけど、それも含めて全部大事な思い出だ。
テッペイと出会わなければ、ルリカの世界はこんなにも広がらなかっただろう。
ずっと田舎に引きこもって、ほとんど誰にも会わず、売れない漫画エッセイを、細々と描き続けていたはずだから。
ルリカは、自分のお腹にそっと触れる。
テッペイと別れても、大丈夫。
シングルマザーの子育てエッセイも、きっとウケる。
でも。
「一緒に子育てできれば、楽しかっただろうな……」
ホロリと涙が出てきて、「ごめんね」とお腹の子に謝った。
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