22.家賃の理由

「それで、詩織さんとはその時に別れちゃったの?」


 ここまで突っ込んで聞いては、機嫌を悪くさせてしまうかと思った。しかしテッペイの様子は特に変わりない。


「おー。あいつさ、流れた後、俺と別れたいっつってきたんだよ」

「そうなんだ……」


 テッペイから別れを切り出したわけではないらしい。

 自分の子どもじゃないかもしれないと思いながらも、別れを切り出さなかったのは、詩織のことをまだ好きだったのかもしれない。


「別れたいって言われて……それで、別れたんだ……?」

「まぁ、しょーがねーだろ。詩織は結婚願望あったみてーだし」


 要は、テッペイは見切られてしまったのだろう。その気持ちは、わからなくはない。

 誰だって、将来を見通せて、ある程度計画を立てられる人の方がいいに決まっている。テッペイと結婚や妊娠出産など、考えただけで不安しかない。毎回ちゃんと避妊具をつけさせていたのも納得である。

 しかし、しょーがねーと言うテッペイの顔は、納得しているものではなかった。


「俺と別れてから詩織のやつ、別の男を捕まえて、すぐ結婚したんだよな」

「えっ、そうなの?!」

「おー。それが二年前の話。」


 まさかすぐに既婚者になるとはテッペイも思っていなかったのだろう。気にしていないように見えるが、少し落ち込んでいるようにも見える。


「で、詩織とその男が結婚して、住んでた場所がここ」

「え? ここって?」

「このマンション借りて、結婚生活してたんだよ。詩織とその旦那」

「ええ、この家で?!」


 詩織とその夫がこの家に住んでいた。その後に、どうしてテッペイが住むことになり、なぜお金を振り込んでもらっているのか。やはりどうしてもわからない。


「詩織さん夫婦は引っ越したの?」

「旦那が死んだからな」

「えっ!! 旦那さん、亡くなっちゃったの?!」

「仕事でノイローゼになって、自殺だと」

「じさ……っ、え、どこで?!」

「この家」

「事故物件じゃん!! ぎゃあっ」


 思わず立ち上がると、足がソファに引っかかって盛大に転倒してしまった。


「はははっ、なにやってんだよー!」


 そう言いながら、テッペイは近くにやってきて引き起こしてくれる。

 離れようとするテッペイにギュッとすがり、ルリカはぷるぷると震えた。


「そそそその人、どどどどこで自殺したの……」

「ん? ルリカの部屋」

「いやーー!!!! もう、信じられないッ!」


 なにか、おかしいと思っていたのだ。スケッチブックが落ちていたり、水が勝手に流れ出したり。くぐもった声だって、もしかしたらテッペイではなかったのかもしれない。


「なんでそんないわくつきの家に住んだりするのよーーッ!」

「しょーがねーだろ、詩織が困ってたんだからよ」


 口を尖らせるテッペイ。この男はきっと、詩織にはびっくりするほど、甘いに違いない。


「事故物件ってことで、次の入居者が決まらねーってさ。知ってるか? 事故物件って安いことが多いけど、その差額分は大家が負担してんじゃなくて、事故物件にした遺族が払ってるらしいぜ」

「どうせ詩織さんが払わなきゃいけないなら、テッペイが入居しなくてもよかったじゃないのよぅ……」

「だっから、入居者が決まらなかったんだっつの! 入居者がいない場合、全額遺族負担ってわけ。可哀想だろ、十万五千円もよ」


 確かに、月に十万五千円もの金額を負担するのは大変だ。他に自分が住むための家を借りているのだろうし、他にも生活費はかかる。


「でも、保険金とかでどうにかならなかったの?」

「詳しく知らねーよ。でも大家への違約金だとか、旦那の方の遺族とかにも色々払わなきゃいけなかったみたいだし、なくなったんじゃね」

「うひい……」

「で、詩織がいろんな知り合いに、半額支払うからここに住んでくれって頼んだみたいなんだけどよ。なんでかみんな、嫌がったんだってよ」


 事故物件など、大抵の人は嫌がるに決まっている。

 気にしないのは、テッペイくらいのものだ。


「それで、テッペイのところに連絡がきたの?」

「そうそう。二年間だけ半額出すから、この家に住んでくれって泣きついてきてさー。半額出すんなら、一緒に暮らそうぜって言ったんだけどよ、旦那が死んだ家に暮らすのはつらいってさ」


 未亡人になったばかりの人間に、一緒に暮らそうと言えるこの無神経さはどうだろうか。

 喉まで言葉が出掛かったが、これはテッペイなりの優しさなんだろうなぁと思い直し、なんとか溜飲を下げた。


「一緒に暮らさないなら、半額も出してくれなくていいって断ったんだ。俺って優しいだろ?」

「はいはい、やさしーやさしー」


 本当に、詩織さんには甘いテッペイだ。軽く……いや、すごく嫉妬してしまいそうになる。


「余裕ができたら増額するって詩織は言ってたけど、ずっと三万五千から変わってねーし。生活キツかったら、振り込みしなくていいっつってんだけどな」

「……テッペイ、詩織さんには優しいね」

「ま、二年も付き合ってたしな」


 燃え上がりそうになる嫉妬の炎を、どうにか押し隠すようにして、ルリカは声を上げた。


「でもまぁ、事情はよくわかった」

「納得したか?」

「納得はしたけど、事故物件だって最初に言いなさいよーー!!」

「気にすんなって、人なんてそこら中で死んでるぜ」

「そうかもしれないけどっ! 私の部屋でだなんて……っ」


 バサッ、とルリカの部屋でなにかが落ちる音がする。ビクンと体が跳ねて、テッペイの体にしがみついた。


「やだ……絶対また、スケブだよ……」

「見てくる」

「や、ちょっと置いていかないでっ」


 テッペイにしがみついたまま、ルリカの部屋へと移動する。

 テッペイが扉を開けて電気をつけると、そこにはやはり、スケッチブックが落ちていた。

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