第9話 戦慄


 神経性胃炎と診断されたかえでは二日間、近くの総合病院に入院した。


 病室のベッドで目を覚ました彼女は、ここに来てからの半年を思い返していた。

 本当に楽しい毎日だった。充実していた。

 深く人と関わって来なかった自分が、たくさんの人と出会い、絆を深めてきた。

 皆、ここに来てから出会った人たちだ。


 よく今日までもったもんだな、そう思った。

 自分にかかっていたストレスは、相当なものだった筈だ。

 しかしそのストレスをも忘れてしまうくらい、みんな優しかった。

 だから頑張れた。


 でも。

 それは全てまやかしだった。

 理由は分からない。目的も分からない。

 彼らは自分のことを、ずっと監視していた。

 笑顔を向けながら。





 もう元には戻れない。

 彼らは自分たちの正義を貫き、職場まで攻撃してきた。


 彼らの主張も分かる。

 間違ったことは言っていない。

 でも、正論だからと言って、それが全てまかり通るなんてことは決してない。


 現に職場は、自分のせいで計り知れない迷惑を被っている。

 確かに人手不足等、問題もある。

 それでも自分はあの場所で、確かにやりがいを感じていた。

 責任ある仕事を任され、それを成し遂げた時の達成感は、何物にも代えられないものだった。


 その全てを、彼らは否定した。


 このままあの店にとどまれば、また迷惑をかけてしまう。

 今回とはまた違った、彼らの正義によって。





 枕元には、クマのぬいぐるみが置いてあった。

 引っ越しした日に、千春からもらったぬいぐるみ。

 着替えやタオルと一緒にちづるが、気を利かせて持ってきてくれたものだ。

 楓は微笑み、手に取った。

 優しく頭を撫で、一人つぶやく。


「千春ちゃんと離れるのは寂しいけど、仕方ないよね……ごめんね、千春ちゃん。私もう、あの場所に戻れないよ……」


 彼らがどの様な考えを持っているのか、自分には分からない。

 でもこうして、監視されていたことに気付いた今。

 元の生活に戻れるとは思えなかった。


 半年分の貯金で、引っ越しは何とかなる。

 新しい職場が見つかるまで、2か月ぐらいなら生活出来る筈だ。

 もう一度やり直そう。

 今度はもっと、注意して人と関わろう。


「リセット癖」がまた再発したな。そう思い、一人笑った。





「……」


 ぬいぐるみの頭を撫でていて、違和感を感じた。

 不自然な縫い跡がある。

 何だろう、これ。

 触ってみると、中に何か入っているようだった。

 その感触に身震いした楓が、テーブルにあったフォークを手に、縫い跡に突き刺した。


「……」


 中から出て来たものに、楓は驚愕した。

 涙が溢れて止まらなかった。




 盗聴マイクだった。






 二日後。

 退院した楓は職場に向かい、退職願を出した。

 店長は一瞬驚いたが、それはすぐに安堵の表情に変わった。


我儘わがまま言いまして、本当に申し訳ありません」


 深々と頭を下げる楓。


「いや……西條さいじょうくんは本当、よく頑張ってくれたよ。頑張り過ぎたぐらいだ。こちらこそ、君の体調まで考慮せずに甘えてしまって、本当に悪かったと思ってる」


「いえ……それでは店長、みなさんにもよろしくお伝えください」


 そう言った楓の瞳は、暗くよどんでいた。





 楽園に戻ると、前日の秋祭りの後片付けが行われていた。

 彼女に気付いた住人たちは、口々に楓の体調を気遣った。

 そんな彼らに淡々と言葉を返し、楓は部屋に戻った。




 何も知らなければ。何も気付いていなければ。

 今の彼らの言葉にも、自分は感動したんだろう。

 泣いていたかもしれない。

 でも今、このマンションの真実に触れた自分の心には、どんな言葉も響かなかった。


 全部嘘。


 そんな思いが、楓を支配していた。

 携帯を取り、引越センターに電話する。

 入院中に、引っ越し先の目途はつけていた。

 明日にでも出向き、契約するつもりだ。

 とにかく一日も早く、この場所から逃げ出したい。

 そう思った。


 電話口に出た営業マンが、明るい声で応対する。

 近日中に引っ越ししたい、引っ越し先は明日契約する予定です。

 楓の言葉に営業マンは、丁寧な口調で「ありがとうございます」と応えた。


「ところで、お客様のお住まいは」


 楓が住所を伝える。


「マンション名は」


「はい。楽園って言うんですけど」


 その言葉に、営業マンが一瞬言葉を詰まらせた。


「あの……聞こえましたか?」


「は、はい。お客様、その……今、楽園と言われましたでしょうか」


「ええそうです。『マンション楽園』です」


「今……どちらからお電話を」


「自宅からですけど」


「すいませんお客様、今すぐ電話をお切りください」


「え? あの、すいません、何か問題でも」


「とにかく! ご自宅からでは駄目なんです! いいですかお客様、一旦このお話、なかったことにしましょう。それから……今から言うこと、返事はしなくて結構ですので聞いてください」


「あの……どういうことで」


「そこからの転出を本気で考えているのでしたら、家具は全て諦めてください。貴重品等最小限の荷物だけを持って、普段通りに家を出てください。そして出来れば、タクシーと電車を何度か乗り継いでください。あと、今お話した場所への引っ越しは諦めてください。それがお客様の為です」


「あの……え? どういうことですか? もしもし、あの……」


 そこまで言った時、玄関の鍵が開く音がした。


「え……誰? どうして鍵が」


 勢いよく扉が開くと同時に、中に数人の男がなだれ込んできた。

 楓が驚愕の表情を浮かべた。



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