十二 前陣速攻
女神様が、再度、胸の前の辺りで掌を上に向ける格好をすると、掌の上に白く光る球が現れ、女神様がその格好のまま、じっと町中一を見つめる。
「行きます」
女神様が言い、球を十五センチ位、真上に向かって優しく放り、ラケットを持っている手の高さ、女神様の胸の辺りの高さまで、球が落下して来るのを待ってから、球をラケットの赤色のラバーの貼ってある打面で打つ。
「ロングサーブ?」
町中一が呟いた瞬間、球の向かって行く先に、赤い光線で縁取られていて、ネットもちゃんと赤い光線で形作られている、半透明の卓球台らしき物が現れ、球が、町中一の知っている、卓球の球の軌道を描いて、町中一側のコートの中に入って来た。
町中一は、短く息とも声ともつかぬ音を口から漏らしつつ、思い切り前に向かって左足を踏み込むと、腰を回し体重を乗せて、自分側のコートでワンバウンドした球を全身全霊を以ってフォアハンドでスマッシュした。
町中一の掌に、ラケットを通して、球の感触が伝わり、まるで、電撃を受けたかのような衝撃とともに、卓球を本気でやっていた、あの頃の感覚が脳内に鮮明に蘇る。
「動ける」
町中一の口を衝いて、そんな言葉が出た。
「ちょっとぉ。あんたん。何をやっているのよぉん。一点取られちゃったじゃなぃん」
町中一の打った球は、女神様側のコートの中に飛んで行ったが、ネットの遥か上を真っ直ぐに飛んで行き、女神様の横を通って、どこかに行ってしまっていた。
「前陣速攻だ。俺は、もしも、次に、こんなふうに、あの頃みたいに、卓球ができる事があったら、その戦型で戦うって決めてた。あいつみたいにな」
「あらぁん。あいつって、柿田君の事かしらぁん?」
「お前? 俺の事どこまで知ってんだ?」
「あんたんの事は、何でも知っていると思うわぁん。一日のオナニーの回数とかもぉよぉん」
「はあ? このど変態野郎が」
町中一は、ななさんを台に向かって叩き付けようとする。
「ちょっとぉん。またそんな事しようとしてぇん。あんたん、あれから、そういう事はしないようになっていたじゃないぃん。一度死んだからって、もう良いって事じゃないのよぉん。また割れたらどうすんのよぉん」
ななさんの言葉に誘われるようにして、過去にあったとある出来事を町中一は思い出す。
「いや、本気でやろうなんて思ってない。ちゃんと力加減はするつもりだった。けど、お前、今の、あれからって、割れたらって、その事も知ってんのか?」
「もちろん知っているわぁん。それに」
ななさんが言うと、ななさんのコルク製のグリップ部分の形状や、ラケットの裏面の中指などを当てる部分の形状が、何かで削られたような形状に変わった。
「お前……。これって……。お前の名前、その、ななって名前は、ひょっとして、ただの、なな、だけじゃないんじゃないのか? 本当は、もっと長い名前をしていて、それを、略している、とかじゃないのか?」
町中一は、ラケットの削られているような形状になった部分を、指で触りながら、こいつ、まさか、ひょっとして? と思いつつ、そう聞いた。
「あらぁん。思い出してくれたのかしらぁん。そうよぉん。あたくしの名前は、正式には、ファッーキンガム七十七よぉん」
「お前、俺が、あの時、柿田にテンハンで負けて、割っちまった、あのラケットって、事なのか?」
「そうよぉん」
ななさんが、どこか、遠くを見ているような雰囲気を醸し出しながら、優しくそう言った。
町中一は、ななさんをそっと、卓球台の上に置いた。
「あの時は、ごめん。本当に悪かった」
言ってから、町中一は深く深く頭を下げた。
「あらぁん。そんなふうに謝ってくれるなんて思わなかったわぁん。あたくしの方こそ、割れちゃったりして、ごめんなさいぃん。あんたんが、あの事をずっと後悔していたのは知っていたわぁん。それなのに、何にもできなくってぇん。でも、でも、もう、過去の事よぉん」
「そう、言われてもな」
「頭を上げてぇん。本当にもう良いのよぉん。あの後、あんたんがあたくしをずっとずっと大事に持っていてくれた事をあたくしをちゃんと覚えているわぁん。その気持ちだけで充分なのよぉん」
「持っていたって、あれは、ただ、捨てられなかっただけだ。本棚の一番下の棚に、ケースに入れて、ずっとしまってあっただけじゃないか」
「そうねぇん。でもあんたんは、あたくしを死ぬまで捨てなかったわぁん。何年あんたんと一緒に住んでいたと思うのぉん?」
「三十年、以上だな」
町中一は言いながら頭を上げた。
「そうよぉん。そして、今、こうしてもう一度出会ったわぁん。あんたんは、あの頃の体力を。あたくしは、割れていない、この体を手にしてねぇん」
「ななさん。ありがとう。久し振りに、あれをやろう。やってくれるか?」
「あんたん。あれね」
町中一の方に向かって、ななさんがフヨフヨと飛んで来る。
「友情合体!!」
ななさんと町中一は同時に声を上げ、町中一は、ななさんをしっかりと手に持った。
「こうなったあたくし達は、もう無敵よぉん」
「ああ。体はギンギン。もうアラフィフの頃のような、いっつも何もしていないのにすべてが怠いなんて事もない。それに。今、球を打って思ったよ。たった一球、しかも盛大に外しただけだけど、卓球は面白れぇって。年を取ってからも、たまに柿田と打ってたけど、やっぱり、あの頃みたいにはできなくってな。楽しかったけど、ついつい、あの頃の自分と比べちまって、がっかりしていた」
「でも、今はそうじゃないわぁん」
「ななさん。改めて、お願いする。俺と、もう一度、卓球をしてくれないか?」
「あらぁん。愛の告白みたいだわぁん」
「そう取ってくれて構わない。俺は、これから、どんな事があっても、もう二度と、お前を割ったりはしない」
「うおおぉぉぉ~ん。ちょっとぉん。女神ちゃん。今の聞いたぁん?」
「いえ。何も聞こえませんでしたけど? 何の事ですか?」
女神様が、嫉妬に狂った紅蓮の炎を瞳に宿しつつ、至極冷徹に至極事務的にそう言った。
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