十五歳の三日間
yui-yui
十五歳の三日間
何もしなくて良い訳ではない。だけれど、何かをやらなければならない使命感が消えてしまった。使命を終えてしまった。
いや、小難しい言葉を選ぶことに意味はなく、ただ単純に高校受験を終え無事に高校に合格した今、面倒な因数分解だの関数だの微分だのをしなくても良くなってしまっただけのことだ。
勿論このままずっと何もやらなくて良い訳ではないけれど、さしあたって春休みが終わるまでの期限付きとはいえ、自由にしても良い時間を、夏穂は持て余していた。
今まで我慢していたCDや小説、漫画本も買って読み漁ってしまった。
見たかった映画もレンタルビデオで借りて、見てしまった。できれば映画館で見たかった、と思ったものだが、見られないよりはまし、程度で済んでしまった。しかし、ずっと好きだったバンド、
ベッドに寝転がりROGER AND ALEXをポータブルプレイヤーで聞きながら、もうすぐ終わりを告げる中学生活を思い起こしてみた。
(……なんだかなぁ)
とにもかくにも勉強ばかりしていたような気がする。それなりに友達と遊びにも出かけたりはしたが、これといった趣味もなく、親が言うお決まりの文句『しっかりした高校に行ってしっかりした大学に行けば、しっかりした会社に就職ができ、安定した生活を送れる』というのを真に受けて、勉強は頑張っていた。
ただ、それだけだったことに気付いた時は愕然とした。
勉強そっちのけで部活動に明け暮れて、合格ラインぎりぎりの高校に受かった子がいれば、高校受験そのものに失敗した子もいる。そういう人たちと比べれば、確かに親の言う通りにしていて間違いはなかったのかもしれない。勉強も部活もしっかり両立させて、高校でも同じ部活に入り、結果を出そうと躍起になっている子。中学生ながらに恋人を作って、仲睦まじく同じ高校に進学する子。勉強自体が楽しいと思っていた時期もあるし、塾通いも苦ではなかった。夏穂のように、勉強以外は殆どそっちのけで、高校に合格してしまえば、どうして良いか判らなくなるような子もきっと同じようにいるだろう。
遠目から見る分には好きな人はいた。話しかけることもできず、きっかけも一切なく、きっとこのまま卒業してしまう。それも仕方のないことだと、諦めている。何人かの友人には恋人がいけれど、自分にはまだ先か、縁のないことだと思っている。つ、と視線を上げた先の鏡に映る自分の顔を見て、出るのはため息ばかりだ。そばかす顔に度の強い眼鏡、後ろで二つに結んだ髪。
『ぱっとしないマジメっ子』
それが夏穂が抱いている自分自身の、いや、自他ともに認める夏穂のイメージだ。これでは男の子にもてる訳はないし、周囲からの印象も当然の評価だと判る。しかし夏穂も女の子だ。無縁だと半ば諦めているとはいえ、やはり心のどこかで友達のように恋愛をしたいと思っていた。まずはパッとしないイメージを払拭させようと、こっそりと用意したコンタクトレンズもあるにはあるのだが、いかんせん周囲の反応が恐くて学校には一度もして行ったことがない。
(結局、なぁんにもなかったな……)
三年間を振り返ってみても、これと言った思い出は何も無かった。あとはこの先の高校生活に掛けるしかない。そして、今まで通りの夏穂のままでは、また何もない高校生活になってしまう。アイドル並みの可愛さも持たず、高校で是非とも成し得たい目標も何もない夏穂では、このまま何もしないで、幸運が舞い込んでくる訳はないのだ。そのくらいのことは判っている。
自分を変えたい。だけれど、何を、どう変えれば良いのか判らない。
イヤフォンから流れてくる軽快な音楽とともに、憧れの人は歌う。
― フェイクなんか蹴飛ばして 胸の痛みにバイバイして
最後に笑顔になれれば それでイイでしょ ―
だけれど。
曲の合間に耳に届いてしまう、母親の金切声と父親の怒号。
(また喧嘩してる……)
ここのところ毎日だ。折角高校受験も無事に終わったというのに、父と母の仲は険悪になる一方だ。今まで何の疑問も持たず、いや持たないように勉強をしてきた。志望校に合格した時も誉めてはくれた。それが当たり前だと思っていた。けれど、『正しいはず』の両親が喧嘩しているところを見ていると居たたまれなくなる。
二人とも大学は卒業しているし、それなりの企業に勤めてはいる。だが、決して自分に言って聞かせたような理想の生活をしているようには思えない。夏穂が溜息をついた瞬間、再びROGER AND ALEXの曲が流れはじめる。
そしてそれは、夏穂に一つの決心をさせた。
―― 林檎を一つ放り投げたら 旅立とう
夏休みは延長ね お気に入りのスカート 風に揺らして ――
早朝四時、三月の冷たい空気が漂う外はまだ真っ暗だ。 夏穂は生まれて初めての一大決心とともに家を出た。
―三日間だけ自由を下さい―
それだけを書き置いて。
小遣いの管理だけは全て夏穂に任されていたのは幸いだった。受験勉強のお陰で使い道のなかったお年玉や小遣いが溜まっていたのだ。度の強い眼鏡は外し、コンタクトレンズにしたクリアな視界は、まだ暗い夜の街ですらも夏穂を高揚させる。髪を解いた小さな頭には浅くかぶったニューバランスのキャップ。少し大きめのデイパックに二日分の着替えを詰めて、ポータブルミュージックプレイヤーにはお気に入りのROGER AND ALEX。
準備は万端。
三日間の自由の始まりだ。行き先は決めていない。特に何がしたい訳でもなかった。だけれど、いてもたってもいられなかった。何かしなくちゃ。何とかしなくちゃ。たったそれだけの焦燥感にも似た気持ちに夏穂は突き動かされた。だけれど、そんな中でも一つだけ、小さな変身願望があった。
『カッコイイ女の子になりたい』
憧れの人はいつもイヤフォンやスピーカーを通じて最高のメロディを教えてくれた。元気、可愛らしさ、愛しさ、哀しさ、切なさ、全てがカッコイイ女の子。デニムのジャンパースカートにオールスターを格好良く着崩した憧れの人は、今日もイヤフォンの向こう側から叫んでいる。
――いじわる小悪魔に見つかっちゃうよ それ!走れ!走れ!――
駅まではそう時間はかからない。
夏穂は生まれて初めて始発電車に乗るために切符を買おうとした。その瞬間、ふと、海を見たいと思った。小学生の頃、家族旅行で行った海を見たい。夏穂にはきょうだいはいなかったが、あの頃はもう一人家族がいた。アルと言う名のビーグル犬だ。夏穂が六年生の時に交通事故で死んでしまった。アルと散歩していた時だった。突然アルが走り出し、驚いた夏穂はリードを手離してしまったのだ。そのほんの一瞬の油断でアルは命を落としてしまった。アルを車で跳ねてしまった人は真摯な人で、何度も何度も家に謝罪を兼ねた弔問に訪れてくれた。しかし、当時の夏穂はどうしてもその人を許す事ができなかった。まる一週間泣きっぱなしだった。少し考えれば、あの時アルのリードを手離してしまった自分が悪かったというのに、弔意を踏みにじるような、随分と酷い態度を取ってしまっていた。そのことを思い出すと、アルが死んでしまったことの悲しみと共に、自分が今以上に馬鹿で我侭な子どもだったことを思い知らされる。アルを跳ねてしまった人にもう一度会って謝りたい。夏穂の気持ちを考えてのことで、以降の弔問をお断りしてしまった今では、それは叶わない願いだけれど、そんな衝動に駆られてしまう。
そしてそのことを考えると、いつも決まって、楽しかった家族旅行のことを思い出してしまうのだ。
コンビニエンスストアで買ったパンを食べ、微かな記憶を頼りに目的の駅に着いた夏穂は言い知れぬ高揚感に包まれた。懐かしさと真新しさとが綯交ぜになったような、奇妙な感覚は夏穂の胸の鼓童を少しだけ高鳴らせる。下車駅から二〇分ほどバスに揺られ、降りた停留所から更に少し歩いたところに海岸がある。程よく疲れた足が防波堤の上で止まる。
防波堤の上に立ち、耳元をすり抜ける冷たい潮風を感じると、深く呼吸をする。
潮騒は波の音と共に胸の中に染み、少しだけ早くなった鼓動をゆっくりと落ち着かせて行く。
(また喧嘩する、かな……)
自分が突如いなくなったことで。
そんなことを考えもしたけれど、すぐにそのことを頭から追い払う。せっかく海にきたのだ。そんなつまらないことに時間を取られたくない。
(きれい……)
何一つ退屈を感じずに、しばらく海や空を眺めていた。どのくらい時間が経ったのか判らないくらいに。そんな夏穂のところに一匹のビーグル犬が近づいてきた。犬を飼っている人間にはそういう匂いがする、と聞いたことがある。ビーグル犬はかつて夏穂が犬を飼っていたことを知っているかのように、夏穂の差し出した手をペロリと舐めた。
「……アルみたいね、おまえ」
夏穂はそのビーグル犬の頭を撫でながらそう呟いた。首輪はないが、このご時世ビーグル犬の野良犬に出会うことなどまずないだろう。それに手入れされている毛並みはとても野良犬のそれではない。そのビーグル犬は人懐こいのか、夏穂の隣に腰を下ろしてしまった。
「一人でぶらぶらしてるとほんとにアルみたいになっちゃうぞ」
「あらら、ごめんなさい」
そう夏穂の後ろから明るい声がかかった。夏穂が振り向くと夏穂より幾らか年上に感じる、勝ち気な瞳をした女性がそこに立っていた。手に持った首輪とリードでビーグル犬の飼い主だということは一目で判った。夏穂は立ち上がってから明るく会釈をする。何と返して良いかと考える前にその女性はビーグル犬と同じように人懐こく口を開いた。
「どうしてこいつがアルって判ったの?」
小首をかしげたその表情は、確実に夏穂よりも年上で大人びているというのにどこか可愛らしい。
「え、この子アルっていうんですか?」
「そ。何だ、知ってた訳じゃないのね」
「あ、はい、前に家で飼ってたビーグルがアルって名前だったんです」
そう言いながら夏穂は女性の観察をしていた。キュロットスカートからすらりと伸びた足は有名スポーツメーカーのハイカットシューズを履いている。少し伸びたくせっ毛気味のショートカットが潮風に乱されているがそれがまた格好良く見える。まるでいつもステレオの向こうから元気をくれる憧れの人のようだった。
「へぇ。面白い偶然ね……」
そう言って女性は顎に手を当てた。
「君さ、ひょっとして家出少女?」
「え!ち、違います」
にやりと笑って夏穂を見る女性からの頓狂な質問に、夏穂は慌ててそう答えた。
(え、家出……?)
こういうのを世間一般では家出と言うのだろうか。いや、もしかしなくてもそういうものなのかもしれない。『三日間だけ自由をください』だなんて、『探さないでください』の書置きとさして違いはない。しかし、時すでに遅し。もうやらかしてしまっていることだ。ともかく三日間と決めた。夏穂は決めた覚悟を揺らがせることなく、一つ頷いた。泊まる当てはないけれど、少し大きな駅に行けばビジネスホテルなりがあるだろう。それくらいのお金は持っている。
「あたしは
そんな夏穂を見て、女性も一つ頷いて名乗った。軽く腰に手を当て貴と思うと左手で髪をかき上げ、にっこりと笑顔になった。
「夏穂、ね」
彩霞は夏穂よりも二つ年上の高校生でフルネームを
「じゃあさ、今日はあたしんち泊まってきなよ。気に入ったよ夏穂」
そんな一言で夏穂は彩霞の部屋に招待された。彩霞は実家の近くで一人暮らしをしている。親の目の届く範囲、それからアルの毎日の散歩で一人暮らしを許されたのだ、と彩霞は語った。そんな訳で、アルを彩霞の実家に帰してから、夏穂たちは彩霞の部屋に来た。彩霞の部屋は小奇麗な部屋だった。あまり不要なものを置かないよう心掛けているのだろうけれど、徹底している訳でもない。その証拠に。
「あ、ロジャアレ!」
ベッドの脇に張られているROGER AND ALEXのポスターを指差して夏穂は言った。このポスターは三枚目のアルバムの予約特典だったものだ。
「お、夏穂も好きなの?ROGER AND ALEX」
「はい、大好きです」
彩霞の部屋の時計は一二時を指していた。かなりの時間海で惚けていたのだろう。我ながら自分のマイペースさ加減に呆れてしまう。元々のんびりした性格なので仕方がないといえば仕方がないのだが、空や海を飽きることなく何時間でも見ていることができる呑気さは、いかがなものだろうか、と夏穂は内心自分に舌を出したい気持ちになった。
「かぁほ、敬語無用!」
「でも彩霞さん年上ですし」
流石に出会って数十分の、年上の人に対し敬語を使わないのはおかしい。彩霞がそう言ってくれて初めて成立するものなのに、彩霞からそんな提案は今の今まで一度もなかった。彩霞は彩霞でちょっと変わり者なのかもしれない。
「良し判った。まだ会ったばっかだけど、あんたはあたしの妹という設定にしよう」
「え?い、妹?」
とは言いつつも、それも悪くないかも、と思ってしまった。彩霞のように可愛くて格好良い人が姉であったなら、どんなに毎日が楽しく過ごせるだろうか。
「そ。姉に敬語を使う妹なんて創作物の中かおっぱいおばけしかいないから。多分」
ペロリと舌を出して悪戯っぽく彩霞は笑った。そして夏穂はその彩霞の笑顔の向こうに赤とオフホワイトのエレキギターを見つけた。
「あ、ギター!ギターも持ってるんですか?持ってるの?」
いきなり敬語を辞めろと言われてすぐには対応できない。夏穂は慌てて言い直した。
「お、興味ある?あたしバンドやってるからさ。ギターボーカル!」
そんな夏穂の口調よりも、夏穂がギターに興味を示したことの方が彩霞にとっても嬉しかったのか、ギターを手に取ると肩にかけた。
「バンド!ひょっとしてロジャアレやってるの?」
直接の友達ではないけれど、何人かはバンドを組んでいて、有名なバンドの曲をコピーしているという話を聞いたことがある。楽器など今まで全く縁のなかった夏穂には遠い世界の話だと思い込んでいたが、こうして目の前に本物のギターとそれを弾ける人が現れると急に現実感が伴ってくる。
「コピーは前にやってたけど、今はオリジナルだねー」
言いながら、彩霞はざざんと迷いのない手つきでROGER AND ALEXの代表曲と言っても過言ではない楽曲、ディストーションのイントロを弾いた。
「凄い!」
「いやいや、こりゃあ練習すればできるもんだから。でもオリジナルは文字通り、オリジナリティが出るからねー」
まんざらでもなく言った彩霞が、本当にバンドを楽しんでいるように夏穂には感じられた。きっと彩霞の誇れるもの、なのだろう。
「オリジナル、って自分たちで作詞作曲してるってこと?」
瞳を輝かせて夏穂は言う。自分が思い描いた曲を作って唄う。そんな素敵なことができる人が目の前にいることが素晴らしく思える。彩霞はわずかに二歳年上なだけだ。夏穂にも頑張ればそんな未来が待っているのだろうか。
「そ。明日練習あるから夏穂もおいで」
「え、でも私」
今まで全く触れてこなかった、縁の無かった世界だ。それにバンドということは、勿論メンバーがいて、彩霞以外は知らない人、ということになる。全く縁のなかった世界に知らない人。夏穂は別段人見知りという訳でもないが、この特殊な状況で尻込みしない方がどうかしているだろう。
「したいんでしょ?変身」
不安げな夏穂の表情に気付いてか、そう言って彩霞はウインクして見せた。本当に会ったばかりだというのに、親近感がある。本当の姉のよう、と言うには大分大げさではあるが、それでももうずっと前から彩霞を知っていたような、そんな感覚に陥った。一人っ子の夏穂には姉というものが実際にはどういう存在なのかは今一つ判らないのだが、判らないなりに彩霞のような存在が夏穂にとっての理想の姉像なのかもしれなかった。
「この際今までの嫌いな自分は、ぽぽいっと捨てちゃうのが一番よ」
ぴん、と人差し指を立てて、彩霞はもう一度ウィンクした。
「うん」
そんな彩霞につられてか、夏穂も笑顔になる。確かに彩霞の言う通り、良い機会だ。今までの『ぱっとしないマジメっ子』だった自分と決別する。自分に自信なんて持てないけれど、必要以上に臆病になりすぎていてはいけない。せっかく小さな変身願望を持って家を飛び出したのだから。
「さってとぉ、買い物行くよ、夏穂」
中途半端な時間だったせいもあって、昼食も食べずに彩霞と夏穂は様々な話で盛り上がっていたが、突然彩霞が立ち上がってそう言った。ごどぅぐるるる、という物凄い音はきっと彩霞の腹の虫の声だろう。
「買い物?」
「そ、晩御飯の支度。ついでだからあたしの得意料理教えてあげるよ」
バンバン、と夏穂の肩を叩きながら彩霞は言った。
「うん」
「彩霞さん、じゃない、彩霞って何でもできるんだね」
「はっはぁ、まぁねん!」
フライパン片手にVサインを作る彩霞は本当にカッコイイと思う。本当に彩霞が姉で毎日を一緒に過ごせたのならば、どれだけ素敵だっただろう、と幻想を抱くほどに。親が喧嘩していたって関係なく、バンドの話で盛り上がったり、怒られたって一緒に反発してくれたりしてくれるかもしれない。
「私も彩霞みたいになれるかな」
「何が?」
俯いて夏穂は言った。そしておもむろにデイパックからピンクのカラーゴム二本と眼鏡を取り出して髪をまとめ始める。夏穂は彩霞にいつもの、学校に行く際の自分の姿を見せた。
「これが本当の私なの」
「え、全然カワイーじゃん。似合ってるよ、それ」
彩霞の答えは夏穂の予想外、しかも想像を絶する言葉だった。
「え、うそ」
からかっているようにも冗談を言っているようにも見えない。
「まぁ確かにちょっとだけ工夫は必要かもだけどさ、そのちょっとですっごい変わるよ。そういう夏穂の可愛さって」
「か、可愛さ……」
彩霞のように自然体でお洒落ができている人間というのは何か見ている先が違うのか。夏穂の、自分自身のこれを、どう見たら可愛いと思えるのか。
「あたしには絶対にない可愛さだよね、そういうのってさ。……んー、何て言うのかなぁ。あたしはね、女の子ってぇのはさ、ここは誰にも負けない、自分が一番可愛いって、誰にも言えなくたって、密かに思ってる部分が誰にでもあると思ってんだよね」
「……」
夏穂には彩霞の言っていることが今一つ判らない。こんな自分を同じ女の子であれ可愛いと言ってくれるとは思ってもいなかった。それに夏穂には彩霞が言うような、ここだけは人には負けないなどと思えるところは一つもなかった。何一つ自分に自信を持てないでいる夏穂自身の心の顕れようなのかもしれなかった。
「でもさ、その可愛さはとりあえず置いといて、明日はダバーって変身してみなよ。私の服貸してあげるから。夏穂ならきっと似合うと思うよ」
「うん」
それでも、夏穂は笑顔で頷く。小さい変化かもしれないけれど、変身はできる。変身ができれば、もしかしたら『ここだけは誰にも負けない何か』を、夏穂でも見つけられるのかもしれない。そう思うと胸が躍った。
朝九時。彩霞は夏穂を文字通り叩き起こしにきた。いや、蹴り起こしにきた。
「おーれ夏穂。アルの散歩だよぉ」
「むー……」
中々寝起きの悪い夏穂は彩霞に踏みつけられながら布団の中で呻いている。
「あぅ、おぉ起きる、起きるよぉ」
「まぁ無理もないか、昨日は四時起きだったんもんねー」
実際には三時には起きていた、と言いたいところだが、それよりも何よりもとにかく目を閉じて眠りたい。しかし穏やかに言う台詞とは裏腹に、彩霞は容赦なく夏穂をズケズケと踏みつけている。夏穂は身をよじりながら彩霞の攻撃を何とかかわそうとしているのだが、無駄な足掻きだった。
「でぇも、アルの散歩したいって言ったのあんただよ!」
「わぁかってるぅ」
諦めがついたのか、夏穂も布団から這い出て眼鏡をかけた。デイパックの中から自分の服を取り出す。
「ダメダメ、今日はあたしの服着るんだよ夏穂は」
「今から?」
「そ、今から」
そう言って彩霞はタンスの引き出しからいくつかの洋服を引っ張り出した。
「いきなりライダースってのは魅力だけどちょぉっと重いしなぁ。スタジャンと、うーん、夏穂はロングスカートが似合いそうだから、あ、 オーバーオールのやつにしよーっと。それから中はぁ……」
何やらクローゼットを漁り出した彩霞を余所に歯磨きセットをデイパックの中から取り出すと、歯磨きを始めた。
「夏穂、中に着るやつはどんなの持ってんの?」
「んん?」
流し台で歯磨きをしていた夏穂は気の抜けた返事をする。
「あ、このパーカーがいいや。かわいーの持ってんじゃん!よっし、歯磨き終わったらこれに着替えてごらん、夏穂」
「んん」
歯ブラシを咥えたまま夏穂はうんうんと頷いた。
「そ、れ、か、ら、小道具小道具っと」
まだあるのか、と夏穂は少々呆れた。いったいどのくらい自分を変身させる気でいるのだろうか。
多少不安にもなったが、楽しみにしている気持ちの方が大きかった。自分を知っている人がいないところで、自分のやりたかったことができるのだ。
あと二日間だけ……。
夏穂はアルの散歩を済ませ、彩霞達のバンドが練習しているスタジオに訪れた。ベルボトムのブルージーンズにウェッジソールを履き、テレキャスターというエレキギターを肩にかけ、マイクに向う彩霞の姿は、ROGER AND ALEXのボーカル、冴波みずかのように、痺れるほどに格好良かった。
バンドのメンバーは四人。ギター、ベース、ドラムは男の子で女の子は彩霞のみだ。メンバーはギターの
「よぉし夏穂、一緒に唄うよ!」
何曲かを練習すると、マイクを通して彩霞が言った。夏穂は慌てて両手を振ってノーサインを出したが、メンバー全員から声援が上がり夏穂の抵抗は無駄に終わった。彩霞の笑顔が少しだけ意地悪っぽく見えるのはきっと夏穂の気のせいではないだろう。その証拠のように恭一が彩霞に指を指して笑っている。
「じゃあロジャアレのディストーションね!」
皆覚えてるでしょ、という彩霞の声とともに始まったメンバーの演奏に頭を振ってノリながら、彩霞は夏穂の首に腕を回し、最初の唄い出しを唄った。勿論夏穂が良く知っている、大好きで大切な歌だ。
――きっと笑顔で歌を唄って 泣き顔はやめにしよう
戸惑いも悩みも蹴散らしてホラ
左手から零れ落ちる 乾いた砂も投げ飛ばして
広がる波にすべてを溶かして
闇が降りたら 顔を上げて
思い出させるよ笑顔のメロディ――
だから一緒に唄おうよ……。
そんな思いが彩霞の回した腕から伝わってくるようだった。夏穂はありったけの勇気を出して唄い出した。歌は苦手だしカラオケもあまり好きではなかった。けれど、そんなことなどに臆することなく、かまうことなく、恥ずことなく、飽くことなく、楽しめる時間が、空間がここにはあった。上手いも下手も関係ない、ただ楽しむためだけの時間と空間。
唄うことがこんなにも楽しいと思ったのは生まれて初めてかもしれない。
塾通いを始めてから楽しいことが何もなくなっていた。
やりたいことも何もなかった。
喧嘩ばかりしている親の言う通りに塾に通い、高校に合格した。
別に立派でも何でもなかった。
夏穂自身のやりたいこと。
今はただ、新しい、優しい仲間達と一緒に唄いたい。ただそれだけだった。
練習も終わり、夏穂と彩霞はメンバー達と別れ、夕食を摂るために部屋に戻った。
「夏穂も結構やるじゃん。いやぁびっくりした。あたしが食われるかと思ったわ」
「そ、そうかな、なんか恥ずかしい」
全くバンドの経験ない夏穂は顔を赤らめてそう言った。
「上手かったよ、音程もちゃんととれてたし、声もちゃんと出てたし」
「ほんと?全然自信なんてなかったし、全然下手だと思ってたのに」
ぱっと顔を輝かせて夏穂は言った。お世辞でも嬉しいとはこのことだろう。
「音楽の授業で習う歌い方とかカラオケで上手に歌う歌い方とバンドの歌い方は全部別物だからねー」
「音楽の授業ではそんなに楽しくなかったし、さっきのより下手だった気がする」
なるほど、と思う。確かにそこは、明確な何かが、と言い切ることはできないのだけれど、確かに、確たる違いがあるのだろうことは夏穂にも判った。
「案外夏穂もボーカル向きだと思うわよ。……で、どうだった?初めての経験は」
「……楽しかった、凄く」
彩霞の質問に夏穂はそう答え、彩霞は満足そうな笑顔をしたが、夏穂の表情は逆に暗くなっていった。
「どうしたのよ」
訊いてきた彩霞に、夏穂は苦笑にも似た笑顔を返す。
「うん、こんなに楽しいのも今日が終わればあと少しだけなんだなぁって思ったら……」
春休み中、ずっと彩霞とこうして過ごしたいという気持ちが大きくなってしまった。勿論彩霞には迷惑がかかるだろうし、流石に書き置いた三日間を過ぎれば親もただ事ではないと騒ぎだすだろう。迷惑をかけるどころの騒ぎではなくなってしまう。
「そんなの夏穂次第じゃん。夏穂がその気になって頑張ればきっと毎日楽しくなるって」
夏穂が自分の意志でここにきたように、帰ってもまた夏穂が自分の意志で行動すればきっと周りの状況も変わってくる。きっとそれは彩霞の言う通りなのだろう。理屈では、頭では、判っている。けれど。
「だって私の周りには彩霞みたいな人、いないから」
彩霞が引っ張ってくれたからこそ、経験できたことだ。
「あのねぇ、あたしがいなくちゃ何もできないような言い方しないの。ここまで来たのはあんたの意思でしょ?あたしは夏穂が変身できるように、ほんの少しだけ手伝いをしただけなんだから」
そのほんの少しの手伝いが、夏穂の様な人間にとってはとてつもなく大きな少しなのだ。
「帰りたくないな……」
「はいはい、甘ったれたこと言わない」
口調は優しかったけれど、目が、笑っていないように思えた。これはつまり……。
(怒らせた……?)
と思ったら、随分と手加減をしたチョップが夏穂の頭にぼす、と落ちた。
「あんたね、そんなこと言ってたらホントに誰も助けてくれないよ。あたしはね、自分に全然自信の持てない、けど、たった一人でこんなとこまできちゃった、ちょっとヘンな度胸のある女の子に力を貸してあげたの。他人に手ぇ引いてもらわなくちゃ何もできない女の子に力を貸した覚えはないんだから」
「彩霞……」
彩霞の言葉は意外だった。自分が度胸のある女の子だなどと思ったことはただの一度もなかった。けれど、彩霞は会ったばかりの夏穂を、夏穂自身知らなかったことまで見抜いていた。彩霞の言う通り、ここまできたのは紛れもなく自分の意志だった。いつも親の言いなりになっていた自分からは想像もつかない行動力だ。親が何を思うかなんて考えないで、子供じみた自分勝手な行動を取った。自分にもそんな行動力があった。アルを轢いた人を許せなかった、子供の頃と少しも変わっていなかった。馬鹿で我侭な子供。それでも今はそんな子供さ加減を夏穂は少しだけ好きになれたのかもしれない。
「子供には子供にしかできないことがある、って彩霞は思う?」
もしかしたら、まだ夏穂は、馬鹿で我儘な子供のままでも良いのかもしれない。ふと、そんな風に思ったのだ。
「思うわよ。だって考えても見なよ。もしもあたしが大人だったらさ、きっと夏穂を説得して家に帰してたと思うよ」
「た、確かに……」
未成年どころかまだローティーンだ。あんな早朝にたった一人、大きなデイパックを背負って海辺に一人でいたら、誰でもおかしいと思うのかもしれない。
「それにさ、家出なんて子供の専売特許よ。子供なんてさ、親の脛かじってるくせに自分勝手に親に反抗して怒られるもんなのよ。背伸びして大人振るのも子供にしかできないことでしょ?」
「……うん」
頷いた夏穂は彩霞を心から尊敬していた。自分より少しだけ大人びた女性。背伸びした大人を装っているだけなのかもしれないけれど、カッコイイ我侭。
自分がまだまだ子供だと自覚したうえでの。
子供にしかできないことを判ったうえでの。
「だから、一旦はちゃんと自分で決めた三日間にケジメつけて、明日は帰る。ここには休みの日になったらいつでも遊びにきていいんだから、ね」
「うん……。うん!」
彩霞が夏穂のどこを気に入ってくれたのかは判らない。だけれど、こんな夏穂に、ほんの少しの、とても大きな力をくれた彩霞に恥じない自分でいたい。
「よっし、んなら今日はあたしの奢りでちょー旨いお好み焼き食べに行こ!」
彩霞は夏穂の肩を叩いて大袈裟に言った。
「やり!よぉっし、彩霞の奢りならいっぱい食べなくちゃ!」
空元気かも知れない。でも、それでも彩霞に応えるように夏穂は大声で言った。
「むぅ、現金な奴めぃ」
「じゃあね、夏穂。元気に怒られていらっしゃいな」
駅の改札口で切符を買い終えた夏穂に彩霞は言った。
「……うん。ま、また来てもいい、よね?」
帰る、とは決めたものの、夏穂の表情はやはり明るくない。
「とーぜん!また一緒に唄お」
「変身もね」
「変身はもう終わってるわ。そんなもの、もう今の夏穂には必要ないもの」
きっぱりと彩霞はそう告げた。確かに、彩霞と一緒に唄ったことは夏穂の中で輝いている。す、と胸元に手を当てると、鼓動が高鳴った気がした。
「そうかな……。でもそうだったら、いいな」
瞳に感じる熱い雫を無視するように夏穂は笑った。いつまでもウジウジしていたらまた彩霞にしかられてしまう。
「ばか、泣くな!」
そう叱咤した彩霞の目にも涙が光っていた。
「うん、泣かないよ、泣いてなんかないよ」
彩霞に抱き着いて夏穂は言った。
精一杯の負けん気引っ張り出して。このままここで泣くだけなら彩霞が力を貸してくれた意味がなくなってしまう。自分の中にある『ヘンな度胸』を見つけてくれた彩霞に申し訳が立たない。
だから、笑ってここから立ち去ろう。どれだけ涙が溢れていようとも、笑顔にはなれるから。
「さて、怒られ終わったらちゃあんと電話よこすんだぞ」
ぷぁん、という音とともに電車が駅に横着するアナウンスが流れる。
「判ってる。んじゃ、アル、またくるからね」
彩霞から勢いよく離れると、夏穂はアルの頭をなでつつ、そう言った。
「んじゃあ気を付けて」
彩霞は涙を拭いて笑った。文字通り、べし、と尻をひっぱたいて。そんな送り出し方の方が彩霞らしい。
「今度くる時は絶対今よりカッコ良くなってくるから!」
夏穂は軽く敬礼の真似をしながら彩霞に言った。そして勢い良く彩霞に背を向ける。
「……もう充分カッコイーじゃんか」
呟いた彩霞も夏穂に背を向けた。
彩霞へ
お元気ですか?おかげで私は元気になれました。
以前よりもずっと。
高校生活も始まって、今はつまらないこともあるけれど、楽しいことはその百倍あるよ。
そうそう、バンド、私も始めたんだ。彩霞と同じ、ギターボーカル!
メンバーのみんなは巧い人ばっかりで、ギターも始めたばっかりの私は圧倒されっぱなし。
でも負けてられないから、一生懸命練習してるんだ。
今度唄もギターも彩霞に習いに行かなくちゃ。
アルは?みんなは?元気?
夏休みになったら必ず行くからね。
その時は前よりもちょっとだけカッコ良くなった私を見せてみんなをびっくりさせてやろうって思ってるから。
彩霞が見つけてくれた私のヘンな度胸でいっぱい頑張って絶対カッコ良くなるから楽しみにしててね。
そうそう、電話でも話したけど、あの日はね、やっぱり怒られたけど私もいっぱい反発したし、言いたいことは全部言ったよ。
それからかな、喧嘩もなくなったし、勉強、勉強、って言わなくなったし。そのぶんちゃんとやるべきことは自分でやってるけどね。
あの三日間と彩霞の見つけてくれた私のヘンな度胸、これからもずっと忘れないよ。
私の宝物だから。
でも一番感謝しなくちゃいけないのはやっぱりアルね。
彩霞は二番目(笑)。
だってあの日、アルが私のところにこなかったら私達は会えなかったんだから。
今度アルに御馳走買って行ってあげなきゃ。
じゃあまた、電話するか、手紙書くかするね。ばいばい。
彩霞の不出来な妹、夏穂より
十五歳の三日間 終り
十五歳の三日間 yui-yui @yuilizz
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます