彩冠綺譚〜「転生者」である俺は最上級魔導士の称号を授かったのですが、平穏な日々を勝ち取るため事務職員に転職希望です〜

３．迷える子兎の突撃

「そこのクロ、ちょっと待った」

　ガイダンス終了後、早々と帰路につこうとロビーを横切っていた俺を、聞き馴染みのある声が呼び止めた。

　受付係として窓口に立ったフィーユが、来い来いと手招きしている。逡巡したが、受付窓口に用事のある職員は他にいないようなので、そちらへ歩み寄った。光沢のある木のカウンターの上に、筆記具などの事務手続きに必要な一式が綺麗に整頓されて在る。

「施設巡りお疲れ様。長時間、ご清聴ありがとうございました」

「……いえ、こちらこそ、案内してくれてありがとうございました」

「それで？　私に、何か言いたいことがあるんじゃない？」

　半目になってにやにやしている。確かに、言いたいことはあった。

「フィーユ……先輩は、」

「よそよそしいなあ、ここでもフィーユでいいから！」

「……フィーユは、その……ちゃんと休めているのか？」

　ぱっと見開くと翡翠色の瞳は、美しさといい色鮮やかさといい、本当に大粒の宝石のように見える。

「おっと……その質問は想定外だったかも。安心して、昨夜も五時間は寝たわ。この肌の艶がその証」

「……事務員として働きながら、依頼も受けているのは知っていた。だけど……」

「私が心配？」

　頷く。フィーユは横顔を見せて、何事かを考え込んでいるようだった。

　美しい弧を描く睫毛が、ひらりと瞬いたかと思えば、形良い唇に笑みが浮かぶ。どうやら良いアイデアが浮かんだようだ。

　少し屈んだ姿勢で、悪戯っぽい眼差しで俺を見上げながら、

「それなら、心配要らないぞ～って、その眼で確かめてもらっちゃおうかな？　ちょうど……」

「あ、あああっ、あのっ、あのぉぉおお！」

　背後から、悲鳴？

　何者かが突進してくる。フィーユがはっと視線を投げた方向、標的は俺だ。右足を軸に、回転するように右方へ躱しながら剣を抜いて……

　違う、敵意がない。躱すのは駄目だ、この勢いならそのままカウンターに激突、怪我をさせてしまう。

　だから俺は振り返り、

「ひゃわぁあ、何で突然振り返っ……ふぎゅうっ！？」

　両肩を押さえて勢いを殺し、抱きとめ……きれずに俺の胸に、衝撃とともに小さな何者かの顔が埋まった。

「平気か！？　鼻血が出たんじゃ……ん？」

　この、栗色のふわっとしたボブカット。頭頂部の辺りから突き出ている、ピーンと硬直したうさぎのような長い耳。鍛錬の休憩中に、木々の狭間に寝転んでいるときのような、柔らかな草花の香り。

　肩を引き離して、容貌を確認する。

「……ああ。やっぱり、入会試験の待合室で会った……確か、ティアさん？」

　瞬きもできないほど硬直していた獣人の少女は、俺に名前を呼ばれてはっと我に返っ……たかと思うと、ぷるぷると震えながら、つぶらな琥珀色の瞳にみるみる涙を溜め……

「うぅぅ……うぅう～……！」

「えっ！？」

　な、泣かせてしまった！？　どうして！？

「なっ、えっ、あっ、その、泣か……な、名前か！？　名前が間違っていたのか！？」

「ふえ～ん、合ってますぅ～！　あたしなんかのこと、覚えててくれたんだなって、嬉しくって……あっ、ああっ！　ももも、もしかして、フィーユ先輩とお話し中……す、すみませぇぇえん！　今すぐ消え去りますぅぅうう！」

「はいはい二人とも、ちょーっとだけ落ち着こっかー！　そうね……うん、続きはあそこに座ってお話しましょう？」

　どうやらコミュニケーション能力に難があるらしい二人の新人職員は、頼り甲斐のある先輩によって、ロビーの隅に向かい合わせに設置されたソファまで案内された。

　獣人とは、身体のどこかに「人間以外」の動物的特徴を持つ人々のことだ。シェールグレイ王国領にも暮らしていると聞いていたけれど、俺が合ったのはティアさんが初めてだった。

　俺の隣に腰掛けたフィーユが、ふむふむ、と目を閉じながら二度頷く。

「なるほど……入会試験の直前に、魔糸が乱れちゃったわけか。で、そこに居合わせたこの彼がぱぱっと治療してくれて、二言三言話しただけで、お礼を言う間もくれずに颯爽と去っていっちゃった、と」

「そう、なんです……」

　魔力は、血液のように身体の中を循環している。魔法を使うときは、その流れを把握して、統制する必要がある。一定の方向へ尾を弾きながら伸びていく姿から、「糸」という表現が用いられる。

　熟練の魔導士となるには魔糸の動きを鈍らせるプレッシャーへの対策が不可欠。しかし対策が万全だとしても、心身が消耗している場合などには、魔糸が乱れることがある。経験が浅いほど、そして体内の魔力含有量が多いほど、深刻で対処の難しい問題となりやすい。

　ティアさんは、フィーユと同じデザインのショートパンツから覗く、色白の小さな膝小僧をもじもじと擦り合わせた。

「その……炎に愛された魔導士さんは、炎の性質上、攻撃魔法が得意で、補助的な魔法は苦手だなって人が多いって、魔法の先生から教えてもらったんですけど……得意分野じゃないはずの治癒魔法を、クロさんは、あたしのおでこにすうって右手をかざすだけで、簡単にこなされて……。

　すごいな、とも思ったんですけど……あたし、それ以上にびっくりしちゃったんです。一度に入会できる人数は限られてて、ライバルなはずなのに、どうしてティアのこと、助けてくれるのかなって。そう、お訊きしたら……『取るに足らない不運のせいで、貴女の望まない結果になって欲しくないから』って……」

「へえ、かっこいい」

「うっ、茶化さないでくれ、フィーユ……」

　確かにそんなことを言った記憶はある。あるが、ティアさんの瞳をろくに見ることもできず、盛大に吃りながらだった記憶もある。

「……望んだ結果になったなら、良いんだけど」

「なりましたっ！　あたしなんかが合格できたのは、クロさんのおかげです……本当に、本当に、ありがとうございましたっ！」

　こ、これが獣人の敏捷性か。物凄い速度と物凄い角度で幾度もお辞儀され、慌てて静止するように懇願した。ティアさんがその懇願に三十秒くらい後に応えてくれると、何だか、ほっと頬が弛みそうになった。

　気が重いとばかり思っていた。でも、俺にできる些細なことで誰かの力になれた……その実感は、とても温かいものだった。

　……だからと言って、再び「英雄」に憧れることは、ないだろうけれど。

「お礼、言えて良かったね。ずっとそわそわしていて、緊張してるのかな？　って思ったら、そういう理由だったんだ」

　フィーユが優しく微笑む。まさに小動物というか、ティアさんの放って置けない雰囲気に内なる姉性が覚醒したのだろうか。

　完璧な美貌を持つフィーユの笑顔は、同性すら赤面させるほどの破壊力がある。ティアさんはあわあわと両手を胸の横で振った、ベル型に広がった長めの袖がゆらゆらと揺れる。手元を隠す長さの袖……身体的サインで発動するタイプの魔法の使い手だろうか？

　ティアさんはやがて、祈るように胸の前で両指を組み、

「あ、あのぅ……実は、それだけじゃなくって……図々しいにも程があるって、分かってはいるんですけどぉ……その、お願いが……」

「お願いって、俺に？　叶えてあげられないかも知れないけれど、聞かせくれるか？」

　ティアさんは自分の膝小僧を見つめたまま、すう、はあ、と三度、深呼吸を繰り返した。

　そして再びやってくる、超高速お辞儀。

「クロさん！　ど、どうかあたしと、一緒にお仕事を……一回だけ、あたしとパーティを組んでいただけないでしょうかぁあっ！？」

「え……」「えええええぇぇっ！？」

　フィーユ先輩の声が、広々としたロビーに響き渡る。

　ど、どうしてフィーユの方が驚いているんだろう……？