六件 1

 鏡子は自室で一人「うーん」と唸っていた。地獄で頑張って生きていくと決めた。そして決めたからには自身の役目を、裁判官の仕事をしっかりとやり遂げることが大事だと思ってはいるのだが。

 鏡子は閻魔帳に手を伸ばす。


 ここ、地獄には六法全書がない。それに法律はその時代によって移り変わっていくものであるし。

 どうやって知識を深めて行こう……。


 鏡子はもう何度読んだか分からない閻魔帳をパラパラとめくっていく。


 どうやったら閻魔大王の役に立てるだろう。どうしたら閻魔大王の隣にふさわしいと思ってもらえるのだろう……。


 そこまで考えて鏡子はハッとしてブンブンと首を振る。いつの間にか頬が熱を持っている。


「何を考えているんだ、私は」


 思わず一人呟いた。その時、トントンと戸を叩く音がして「鏡子様」と声がかかる。入ってきたのは司録だ。


「鏡子様。裁判の時間です」

「あー、うん」


 そんな鏡子の煮え切らない態度に疑問を持ったのか「何かございましたか」と尋ねてくる。鏡子は緩やかに首を振る。


「大丈夫。何でもない……」


 裁判が終わったら……。裁判が終わったら……。六法全書が手に入らないか聞いてみよう。それからもっと閻魔大王と話しが出来る機会を作ろう。裁判が終わったら――。


 この時の鏡子はそんな悠長なことを思っていた。この先、大変な事件が起こるとも知らずに。




「すみません。お待たせしました」


 鏡子は自分から閻魔大王に声をかけた。閻魔大王は「来たか」と鏡子を見ると手招きをする。鏡子は手招きされたまま素直に閻魔大王の隣に立つ。と、閻魔大王が鏡子の肩を抱き寄せる。


「っ! ななっ、何ですか」

「前みたいに襲われる可能性があるからな。今日は余の側にいてもらう」

「あっ、はい」


 すると司録が「ま。閻魔大王は鏡子様に触れたかっただけなんですけどね」と含んだ笑いを浮かべる。閻魔大王は「うるさい! とっとと記録をとれ!」と後ろにある机を指差す。司録は笑いを引っ込めることなく、指差された机に座る。


「んじゃ、そろそろ始めてい~い?」


 いつの間にか司命が私達の前に立っている。

 鏡子が大きく頷くと司命が小学生高学年くらいの男の子腕を強引に連れてくる。まさかの子供が裁判相手だったことに思わず肩をすくめてしまう。と、閻魔大王に緩く手を繋がれた。


「っ!」

「大丈夫だ」


 そう優しく閻魔大王に言われて思わずホッと息が出てしまう。

 鏡子は閻魔大王を見つめ「はい。大丈夫です」と返した。すると鏡子の視界はグルリと反転して景色が一瞬にして変わった。




 パチリと鏡子が瞬きをすると目の前に滑り台があった。鏡子は試しにグルリとその場で回ってみる。ブランコやシーソー、砂場が目に入る。どうやら公園にいるらしい。

 鏡子は公園を見渡していると一人の男の子を見つけた。司命が腕を引いていた男の子だ。男の子は左手にグローブ、右手に野球ボールを持っている。洋服もよく見てみればどこかの野球チームのユニフォームを着ていた。

 男の子は一人で野球ボールを投げる。ボールは真っすぐ飛び、レンガ造りの花壇に当たる。ボールは跳ね返ってまた男の子のグローブに戻っていく。

 男の子はそれからずっとボールを投げて、花壇にぶつけて、拾って、を繰り返す。


「……」


 鏡子は特に野球にハマったことがない。だから何が面白いのか分からない。けれど男の子は弾ける笑顔でボールを投げ続けている。その様子を見ていると鏡子は自然に笑みがこぼれた。


 前の内田 美知恵の息子みたいに強制的にやらされているわけじゃなさそう。とっても楽しそうだし。良かった。


 そう思った瞬間、男の子の投げたボールが花壇に当たらず上を通り越した。花壇の向こうは歩道、そしてその奥には車道がある。ボールは歩道を越え、車道に出た。


「あ!」


 男の子は声を上げた。自転車に乗った六十代の男性が目の前を通り過ぎようとしている。そこに野球ボールが迫っていた。

 鏡子も思わず「あ!」と声を上げるが、こればかりはどうにもならない。

 ボールは男性の頭にぶつかり、バランスを崩して自転車から転げ落ちた。自転車から転げ落ちた男性は頭を負傷し血を流している。


「だ、大丈夫ですか!!!」


 男の子は青ざめながら公園を飛び出して男性に駆け寄る。だが男性は打ち所が悪かったのか起きる気配がない。

 そのうちに車から若い夫婦が降りてきて、「今救急車呼びましたから!」と男性を介抱しようとする。


 そこで鏡子の視界はグルリと回り、景色はまた地獄に移り変わった。

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