幕間2ー7話 その味は嘘をつかない
―― 喫茶店『春の泉』店主 静江 ――
最近、心から楽しいと思ったことがあっただろうか。熱中できるような出来事を思い出せるだろうか。自分は今、幸せなのだろうか。最近は常々そう考えるようになった。
かつて夫と一緒に喫茶店『春の泉』を切り盛りしていた頃は、毎日が気力に満ち溢れていた。私達のもてなしでお客さんが笑顔になる。それこそが至上の喜びだった。
でも、その幸せも長くは続かなかった。子を授かる前に夫が亡くなったのだ。主人の明るさが長年の支えとなっていた店の活気は瞬く間に沈んでいった。
さらに不幸は続いた。店の近くに大手のチェーン店が設置されたのだ。客はより安く、より安心したクオリティーを提供するチェーン店へと流れていき、私達の店の客足は瞬く間に減っていった。
開放的な空間と、常に流行を取り入れて活気づいた相手の店。かたや夫という活力を奪われ、古い伝統にしかしがみつけない私の店。どちらに行きたいかなんて明白だろう。
『空気が重いな、この店は』
『店主の顔が暗いんだよね』
そんな評判も珍しくなくなった頃、気が付けば店は継続することが出来ないところまで衰退していた。
もうすぐ昼の時間帯が終わろうとしてもお客さんが一向に現れる気配はない。この静かな空気が、今の私には何よりも重く感じられる。この空気が閉店まで続くと思うと気が滅入りそうだ。これまでは白石くんがほぼ毎朝通ってくれていたから、明日までの楽しみがあったのだけど、その楽しみすらもう望むことはできない。
もう臨時休業の張り紙を出して、今日の営業を中断してしまおうか。いっそのこと、もう今から完全に店じまいをしてまおうか。そう考えた矢先だった。
チリンチリンとドアベルが音を立て、お客さんが入店してきた。
「いらっしゃいま――せ?」
その女性をひと目見た瞬間、不思議と懐かしさが込み上げてきた。直後に彼女の正体を思い出す。
「久しぶりだね、静江」
「お母さん!? どうして!?」
「客だよ。それ以上の理由はいらないだろう?」
その客とは、私の実母だった。夫と駆け落ちで上京したことが原因で母とは仲違いをしてしまった。そのせいで、家族とはほとんど顔を会わせていない。でも、何故今頃になって私の所に来たのだろう。夫の葬式にすら出席しなかったというのに。
それでも客は客だ。水と温かいおしぼりを席に用意する。
「こんな昼時なのに流行っていない喫茶店も珍しいね。それも大通り沿いに店を構えておきながら」
母は慎重な動作で近くの席に腰を降ろし、隣の席に杖を立てかけた。腰を一度悪くしてから、ますます年季が入ってきたな。
「あたしには閉店を伝えないくせに、あたしの友人にはちゃっかり伝えているなんて。なかなか薄情な真似をするね」
母には話すなって念を押したんだけどな。
「実の母親だからこそ知られたくないこともあるわ」
「でも引き払いの準備は進んでいるみたいだね。表の張り紙を見たよ」
「今更なんなの? 笑いに来たの?」
「迎えに来た――と言ったら信じるかい?」
「…………」
返事をしない私の態度を、母は肯定と受け取ったようだ。
「この店を手放すってことは、おまえを都会に縛り付ける旦那を吹っ切る決意もできたんだろう?」
「流石に現実は見ないとね。いつまでも意地を張り続けるには歳を取りすぎたわ」
「じゃあもうウチに帰って、ウチの果樹園の跡を継ぎな。人手が欲しいんだ。あたしもだんだんと体の自由が効かなくなってきたからね。
都会は暮らすだけでも金がかかりすぎる。金のやりくりなんて忘れて、故郷でのんびりしな」
「お母さんはそうやって、いつも私の人生を決めようとする」
「今の人生だって、おまえの旦那が決めたことなんだろう。大差ないさ」
母の言葉に胸がもやもやとした。だけどこれ以上言い返せるだけの力を、私は持ち合わせていなかった。
母もまた、ばつが悪そうに視線をそらした。言い過ぎたと思っているのだろう。
「……コーヒーくらい飲んでいこうか。ホットひとつ」
「かしこまりました」
私はカウンターへ戻り、母の注文通りにコーヒーの用意を始めた。そうするしかできなかった。
何も言い返せない。悔しい。自分の人生とは何だったのだろうか。
母の注文を聞いて、あとどれだけお客さんにコーヒーを淹れる機会があるのだろうか、とネガティブな思考をしてしまった、その時だった。
チリンチリンチリンとドアベルが勢いよく音を立て、お客さんが入店してきた。
「いらっしゃいま――せ?」
異様な光景を前にして、思わず言葉を失う。
入店してきたのは女神と思わせるような美貌を持つ銀髪の女性だった。そこまでは特に驚くほどじゃない。
私が驚いたのは、彼女が立派なメイド服を着ていたからだ。それでいて肩で息をしつつ、大量の汗をかいている。腕には厚めのコートがかけられていた。コートを着たまま急いで走ってきたはいいものの、途中で暑くなってコートを脱いだのだろう。そんな奇天烈な服装でも違和感を覚えないのは、メイドカチューシャを被ってないせいだろうか。
「すまない、驚かせたようだね。どちらに座ればいいのかな?」
「お好きな席にどうぞ……お水、たっぷり持ってこようかしら?」
「ありがたい。是非頼む」
彼女が母の隣のテーブルへ着席したことを確認して、私は大急ぎでエアコンの温度を下げた。そして大きめのジョッキグラスとピッチャーに氷を入れて水を注ぎ、彼女に差し出した。彼女は「ありがとう」と万人が思わず見とれそうな笑みを浮かべてから、ごくごくと美味しそうに水を飲み始める。
「……ぷはぁっ! いやぁ、生き返った生き返った。流石は日本。水の国と呼ばれるだけある。水ですら最高に美味いな!」
「ずいぶんと走ってきたみたいだけど、どちらから来たんだい?」
「品川だ」
話しかけた母は思わず絶句していた。無理もない。電車で何駅あるかもパッと思い浮かばないほど、ここから離れているからだ。
「電車が事故で止まっちまってな。車には乗れねえから、もう走っていくしかなくて。あんまりチンタラ走っていたら日も暮れちまうし、この店まで全力疾走したのさ」
「それは……さぞかしお疲れだったでしょうね」
「走ること自体はそこまで苦でも無かったんだがね。運動用の靴じゃないローファーで走ったせいで、途中で靴がぶっ壊れちまってな。冷たい道の上を、裸足で走るのはなかなかに骨だったぞ」
足元をよく見たら、靴は履いておらず、タイツはボロボロに破れていた。突っ込みどころ満載だけど、後で足元を温めるものを持ってこなくちゃ。
「タクシーじゃ駄目だったのかしら」
「たくしぃ?」
予想だにしない疑問形の反応に、私達はまたもや絶句した。タクシーの手段を思いつかなかった、という反応じゃない。
私達の反応があまりにも仰々しかったのか、彼女も自分の発言の異常さに気づいたらしい。
「すまんすまん、日本に来て日が浅い新参者でな。知らず知らずのうちに非常識なことを言っちまう事があるみたいだ」
「それにしては随分と日本語がお上手ね」
「お褒めに預かり光栄だ、御婦人。こう見えて日本の大ファンなんだ」
メイド服を着ているあたり、オタク文化のファンかもしれない。
「本当、都会は変わった娘が多いわねぇ」
「お母さん! 本人の前で失礼ですよ!」
「おお、御婦人は静江の母君だったのか。よもやの
彼女は母の心無い言葉にまったく気を悪くする事なく、わざわざ立ち上がって一礼をした。
それにしても、どうして私の名前を?
「私の名前を知ってるメイドさんって……もしかして、白石くんのところのかたかしら?」
「いかにも。メイドカフェ『びくとりあん』所属のメイド長代行、ルルーファ・ルーファという者だ。まあ、今はもう『びくとりあん』ではないのだが。おっと、俺としたことがメイドの象徴を忘れていたな」
彼女はそう名乗ると、思い出したかのようにポケットからメイドカチューシャを取り出して装着した。いや、つけなくたって分かりますよ?
そんなことより、気になる事を言ったな、この子。
「白石くんのお店が無いって、どういうことかしら?」
「詳細は追って話そう。静江が作ったケーキをいただきながらね」
瞳を爛々と輝かせながら、ルルーファさんは片っ端からケーキを注文し始めた。
・・・・・
・・・
・
「私を白石くんの店のメイド長に!?」
「ンむ」
ベイクドチーズケーキを目一杯頬張りながらルルーファさんは頷いた。美人なのに逐一仕草が可愛いな、この子。
一方、大量に積み重なったケーキの皿を目の当たりにして、お母さんはげんなりとした顔でコーヒーを啜っていた。
「こんなオバサンなんかにメイドは務まらないですよ」
「務まると確信しているからこそ俺は君を誘っている。寧ろメイド長には貫禄が必要だ。なおさら君は適任だよ」
「他の人では駄目だったのかしら?」
「ああ、駄目だ。君
ルルーファさんの言葉に、私は不覚にもときめいてしまった。
それは、かつて夫が私にプロポーズした時の言葉だ。私に上京を決断させた、とっておきの口説き文句。声に籠もった想いも、かつての彼に負けず劣らず情熱的に聞こえる。
――とはいえ。仮に応えるとしても状況が悪すぎる。憮然とした表情でルルーファさんを睨む母に私は視線を向けた。
「ごめんなさいね。ありがたい申し出だけど、店を畳んだら実家に帰らなくちゃいけないの」
「静江はあたしの果樹園を継がなきゃいけないんだ。遠路はるばる悪いけど、ここから先は家庭の事情だ。他人にあまり踏み込まれたくないね」
母は立ち上がってルルーファさんの目の前に移動し、そして彼女が来ている服に向けて自前の杖を向けた。
「ましてやメイドだと!? 冗談じゃない! あんたはウチの娘に、恥さらしになれと言うのかい!」
「お母さん!」
失礼な態度を取り続ける母を窘めようとすると、ルルーファさんは私を手で制した。
「御婦人の心配もごもっともだ。令和のメイドは独特の文化を築き上げている。初見では俺もまったく受け入れられなかったから、娘にメイド服を着せたくない気持ちは分かる」
「気持ちが分かるのに静江を引き込むのかい。とんだご都合主義だね」
「だが、俺とシライシがこれから築き上げるのはその文化には含まれない領域だ。大衆娯楽としてのメイドではない。奉仕と品格を第一とした、本来の意味としてのメイドだ。彼女にはそのメイドを務められるだけの素質がある。恥となるような真似は誓ってもさせない」
「適当な事で言いくるめようったって――」
「断じて適当などではない!」
ルルーファさんは立ち上がり、声高らかに叫んだ。
「年季が入っているとは思えないほどの店内の清潔ぶり。客に落ち着いて食事をしてもらうための気配りが、彼女の接客や店内の雰囲気から見て取れる。ケーキもひとつひとつに時間をかけ、丁寧に作り上げている。そして頂いたすべてのケーキ。これらもまた甲乙つけがたい極上の品ばかり。店と仕事を愛している証拠だ。そして仕事中の佇まいは――決して姿勢を崩すことなく、凛とした面持ちで仕事に臨んでいる。そんな女性にメイドの適性が無いなど、天地が引っくり返ってもありえん!」
ルルーファさんの情熱を目の当たりにして、今度は母が押し黙る番だった。
傍から見る限りでは、結局のところ都合の押し付け合いではある。それでもルルーファさんと母の間は決定的な差があった。ルルーファさんは評価を出した上で私を誘っているのだ。それも挑戦心を孕んだ大きな情熱と一緒に。ひたすら保身へ走る母に言い返せるだけの勢いは無いだろう。
ルルーファさんは、きっと本気だ。本気で私を口説こうとしている。
「静江を引き入れされるとあたしは困るんだよ……あんたは、この壊れかけた老体にまだ鞭打てと言うのかい」
「む。身体の事情か」
「仕事で腰をやってしまったんです。どちらにせよ母の仕事を手伝わないといけないわ」
「それは難儀よの。ふむ……では、少し卑怯な方法を取らせてもらうか」
「卑怯な方法って――」
「失礼。少々痛むぞ」
母が何事かと問いただす前に、ルルーファさんは目にも留まらぬ速さで母の背後へ回り込んだ。そしてルルーファさんが母の腰に手を当てた途端、その手から金色の淡い光が放たれた。悲鳴を上げる直前に、ルルーファさんが唇に人差し指を当てる仕草を目にしてどうにか耐える。
「あいたたたた!? あんた、何をするんだい!」
「同意を得ずにすまないね」
振り回された杖を軽々と受け止めるルルーファさん。直後に私と母は驚いてしまった。暴力を振るってしまった母に対してではなく、痛みを訴えることもなく杖を振り回すことができた母に対して驚いたのだ。
「随分と調子が良くなったはずだ。しかし、老いが身体を蝕んでいることは変わりない。無理をしてはいかんぞ」
「何を……何をしたんだい」
「奇跡を少々。こう見えて、少しばかり聖女を嗜んでいる身だ」
癒やしの力、というやつだろうか。ルルーファさんが卑怯と言う意味が分かった。母を元気にすることで、私を実家に帰らせる理由を消し去ったのだ。本来ならありえない力技。しかも母にとってはマイナスとなる要素が起こっていないのだから、責めるに責められない。これは確かに卑怯だ。
「さて、静江と御婦人の悩みがひとつ解決したと見てよろしいな? 静江。改めて君を誘いたいと思うが」
「それは、先ほど母を治していただいた代わりに――という条件でしょうか」
「どちらでも構わない。悩みを手っ取り早く解決する方法を俺は持っていたから実行した。ただそれだけの話だ。静江にはできるだけ気兼ねなくメイド長を務めてもらいたいからね」
これもずるい。交換条件にできる手札を捨ててまで尽くされてしまったら、もう断れないじゃないか。
「分かりました、ルルーファさん。その話、受けさせていただきます」
母を治してもらったお礼じゃない。実家に帰って身の入らない労働をするよりは、挑戦心に溢れた子の元で私も頑張ってみたいと思ったのだ。
私の返事を聞いて、母はムスッとした表情でルルーファさんを睨んでいた。ルルーファさんの行為は善行から来るものだと分かってしまったから、納得いっていないのに、強く言い出せないのだ。
そんな母に対して、ルルーファさんは視線を合わせた。
「御婦人。身内から恥晒しが出ないか心配なのだろう。貴女の考え方は親として当然だ。だからひとつ、交渉したい」
「交渉だと?」
「ひと月だ」
ルルーファさんは人差し指を立てた。
「静江を実家に連れてかえるのは、ひと月だけ待って欲しい」
「その後は連れ帰ってもいいって?」
「ああ。ただし条件がある。
ひと月後に我々のメイドカフェはリニューアルオープンを執り行う。静江をメイド長に据えた上で、な。御婦人には我々の仕事ぶりや静江の働く様子を見て、それでもメイド業を恥だと思ったならば、遠慮なく連れ帰っていただいて構わない」
「随分と自信満々だね。あたしの気分でどうとでもなるじゃないか」
「問題ない」
ルルーファさんは柔らかく微笑んで、私達に言った。
「だって彼女は、俺が選んだ未来のメイド長だからね。心配なんて微塵もしていないよ。
静江。勝手に話を進めているが、よろしかったかな?」
ルルーファさんのあまりにも堂々とした態度に引っ張られてしまい、私は力強く頷いてしまった。
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