第38話 夢から現実へ

 お蘭の死体の前には、蒼龍、源兵衛、そしてお松が並び、座っていた。

「戻らぬか・・・」

「先を急ごう。俺が担いで行くよ」

「お菊殿が不審に思わないかしら?」

「心配するだろうな。出発に反対する可能性もある」

 蒼龍は、顎の無精髭を触りながら答えた後、お松に目を向けた。

「お松殿は、もう出発しても大丈夫かい?」

 お松は蒼龍の顔をちらりと窺った後、ゆっくりとうなずいた。彼女は旅を続ける決心がついたようだ。

「私は、必ずあの子の敵を討ちます。役目を終えたら、刀を捨てて、もう一度ここに戻ってくるつもりですわ」

 蒼龍も源兵衛も、お松の話を黙って聞くのみであった。彼女は出家して尼になるつもりなのだろう。その強い意志に反対することなど、二人にはできなかった。

「お松殿がいなくなると寂しくなるな。若旦那も張り合いがなくなるだろう」

 源兵衛がわざと快活に話しかける。お松は、ほんの少しだけ微笑んだ。

「よし、善は急げだ。旅の準備を始めようじゃないか」

 蒼龍はそう言って、すっと立ち上がった。

 しばらくの後、お雪の墓の前に集まった六人の旅人たちは、墓に向かって手を合わせていた。

「思えば、お雪にはいろいろと迷惑をかけたな」

 いつも身勝手な伊吹が、珍しく殊勝なことを言った。その横で、お菊は涙ぐみ、お松はまだ合掌している。

「さて、ここから卯の方向へ進めば海に出るらしい。海岸線に沿って子の方向へ行くと、伊勢に着くとのことだ。本道は危険だから、裏道を使おう。話では、本道の左手にあるそうだ。細く険しいようだが、襲撃に遭うよりは安全だろう」

「奴らも二手に分かれている可能性があるぞ。裏道も危険なんじゃないのか?」

 伊吹の意見に蒼龍はうなずいた。

「それは十分考えられる。実は午の方角にも道があって、そちらを辿る方法もあるのだが、かなり大回りになるんだ。当然、連中もその道のことは知っているだろうから、見張っている可能性も高い。それなら、近道になるほうがよかろうというのが、源兵衛殿やお松殿、そして俺の意見だ」

 中辺路は、熊野本宮大社を境に南東の方角へ進む。熊野那智大社、熊野速玉大社を含む熊野三山は、その中辺路で結ばれていた。それに対し、東へ伸びる道は伊勢路と呼ばれ、神宮に至る。

「どちらを進んでも危険なことに変わりはないという訳だな。なにか策はないのか?」

「お松殿とわしが先行することにした。もし、この前のように関所があったら戻って皆に知らせるから、そこを迂回して通るんだ」

 源兵衛の答えに伊吹は満足しなかったようだ。

「蒼龍殿に任せればいいだろう?」

「お蘭殿を背負わなければならないから無理よ」

 お松に指摘された伊吹は、不満げに鼻を鳴らした。

「しかし、奴らが今回も同じ手を使うとは考えられないから、おそらく今度は隠れて待ち伏せするだろうな」

 蒼龍が腕を組みながら一言付け足した。

「その時はどうするんだ?」

「同じだよ。先に見つけて迂回する」

「やけに大雑把な作戦だが大丈夫なのか?」

「一晩、考えてみたが、いい案なんて他には浮かばないよ。とにかく、先に見つけて逃げる。捕まったらお終いさ」

 事もなげに言ってのける蒼龍に対し、伊吹は渋い顔をして

「そんなに軽々しく言うべきでもないだろう」

 と口にした。

「あの・・・ 蒼龍様、お蘭さんは大丈夫なのですか?」

 伊吹の横に立っていたお菊が、心配そうな顔で蒼龍に問いかける。

「心配は無用ですよ。持病の発作ですから、しばらくすれば元に戻ります」

「でも、頭まで隠してしまって、息苦しくはありませんか?」

「発作の時は、陽の光を嫌うんです」

「それはかわいそう・・・ 夜の間だけでも顔をお出しにならないと、息が詰まってしまいますわ」

「ああ、そうだな・・・ 寝る時は外してあげるようにするよ」

 お菊は大きくうなずき、蒼龍が背負っているお蘭の死体に対して声を掛けた。

「お蘭さん、辛かったらいつでもおっしゃって下さいね」

 当然ながら、それに対して返事はない。

「すまない、発作のときは気を失っているんだ。お気遣い、ありがとう。本人が目を覚ました時は、伝えておくようにするよ」

 蒼龍の言葉を疑うことなく、胸を痛めるお菊の様子を見て、蒼龍は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。事実を伝えたほうがいいのではないかとさえ思うようになったが、それは結局できなかった。

 お雪の眠る寺を後にして、一行は東へと旅を再開する。朝日を浴びてキラキラと輝く門をくぐり抜けてから、お松は後ろを振り返る。

「必ず戻るから」

 その声は、誰の耳にも聞こえないほどかすかなものであった。


 お蘭もお初も、銀の砂漠が突然途切れていたことに気がつかなかった。山はそこで消え去り、砂は滝のように下へ落ちていたのだ。山の裏側は垂直に切り立った崖になっていた。まるで誰かが大きな包丁か斧で半分に割ってしまったようで、その異様な姿にお蘭は畏怖の念を抱いた。

 落下の速度はどんどん増していき、いつの間にか崖は消え去っていた。同時に、落ちるという感覚が失くなってしまう。周りの景色が動かなくなったからだ。暗くも明るくもなく、色もない世界。色彩がないのなら灰色の世界と呼べるだろうが、それすら感じることができない。自分が上を向いているのか、それとも下を向いているのか、判別ができなくなり、体を動かしてみても自由に向きを変えることは難しい。お初はお蘭とは真逆の方向を向き、近くで手足をバタバタと動かしていた。

「お初ちゃん、待っててちょうだい。すぐに助けるわ」

 とは言ったものの、自分もどうすればお初の下へ移動できるのかよくわからない。それでも、いろいろと試しているうちに二人はコツを掴んだらしく、上手にお互いの向きや距離を調整することができるようになった。

「私たち、まだ落ちているのかしら?」

「・・・着いたみたい」

 お初の一言でお蘭は理解した。二人は今、果ての世界にいるのだ。そこはまさしく虚無であった。二人以外は何も存在しなかった。当然、お初を呼んでいた人物も見つからない。探し出そうにも、その世界がどれくらい広いのか、あるいはとてつもなく小さいのか、それさえ判別できないのだ。

「ここが果ての世界なのね。お初ちゃんを呼んでいた人っていうのは・・・ やっぱり、いないか」

 お初の顔をそっと覗き込む。お初は穏やかな顔でお蘭に微笑みかけていた。

「お蘭お姉ちゃんに、お願いしたいことがあるって、その人が言ってるよ」

「お願いしたいこと?」

「その人はね・・・ 未来のお初なんだって」

 はじめ、お蘭はその言葉の意味がよく理解できなかった。

「未来の・・・ お初ちゃん?」

 お初は大きくうなずくものの、自分でもよく分からないらしく、それ以上は何も言えない。

「それで、お願いって何?」

「雪花という人を倒してほしいって」

「私が? 雪花さんを?」

 お初の姿が何となく霞んでいるように感じた。

「その人を倒すことができるのは、お蘭お姉ちゃんしかいないって」

「でも、どうやって・・・」

「もう、元の世界に戻らなきゃ駄目みたい」

 お初はお蘭の下へゆっくり近づいてきた。手を伸ばし、お蘭の首に腕を絡める。

「さようなら。お初も、お蘭お姉ちゃんのこと大好きだよ。絶対に忘れない。絶対に・・・」

 だんだん声が遠ざかっていく。お初の姿も蜃気楼のように揺らいでいた。お蘭が、慌ててお初を抱きしめながら

「お初ちゃん、必ずまた会えるよね。約束してくれるよね」

 と話しかけても、お初からの返答は得られなかったし、お初の耳に届いたかどうかも分からない。やがて、お初の姿は跡形もなくなり、彼女から伝わる温もりも消え失せてしまった。

 自分の手をじっと見つめていたお蘭の目から、大粒の涙がこぼれた。それから両手に顔を埋め、長い間お蘭は泣き続けた。


 涙を拭い、顔を上げたお蘭は、大きく深呼吸した後、ゆっくりと目を開けた。そして、自分がすでに果ての世界にいないことに、その時初めて気づいた。あたりは暗く、目の前には幅の細い上り坂が続いている。どうやら、ここは山奥にある道のようだ。

 夜の闇で見えるはずのない周囲の風景がはっきり分かるので、お蘭は何か違和感を覚えた。自分がまだ夢の世界にいるのだろうと最初は考えていたが、それにしては、木々や土の香りと、肌で感じる涼しい風が、現実の世界を思わせる。もしそうならば、どうして山奥に一人でいるのか、理解できないお蘭は不安に駆られて前に進み始めた。この時、山を下るのではなく、登るほうを選択したことを不思議には思わなかった。ふもとの村を探すなどとは考えもしなかったのである。

 やがて、お蘭は粗末な小屋を見つけた。戸の前に、三人ほど男が立っている。お蘭は慌てて藪の中に身を隠したが、その際に音を立ててしまった。男たちはすぐさま反応し、こちらに近づいてくる。お蘭は、逃げたくても足がすくんで動けない。

 男の一人がゆっくりと刀を抜き、茂みの中に入ってきた。お蘭は両手で頭を抱え、息を潜めていることしかできない。段々と足音が近づいてくる。目をきつく閉じたまま、じっとしていると足音が聞こえなくなった。通り過ぎてくれたのだろうかと思い、お蘭は薄目を開ける。そこには二本の足があった。驚いて上に目を遣ると、青白い顔の男が自分のほうを睨んでいる。お蘭はその場で尻もちをついた。すぐに逃げなければ殺される。でも、体が言うことを聞いてくれない。

 腰を抜かした状態のお蘭は、それでも何とか懐から刀を抜いて、闘う覚悟を決めた。ところが、その様子を見ても、男は刀を構える気配がない。やがて、お蘭には目もくれず、他の場所へ移動してしまった。

 理由はよく分からないが、とにかく助かったらしい。三人の男が森の中に入っていくのを確認し、お蘭は小屋のほうへ進んでいった。この時も、逃げようという気が起こらなかった。なぜか、小屋の中に入りたいという欲求に勝てなかったのである。

 扉の前に立ち、できる限り静かに開けた。中から漂ってきた爽やかな香木の匂いが鼻をくすぐる。真っ暗なはずの室内は、森の中と同じように、お蘭には手に取るようにはっきりと見えた。中には仕切りが全くなく、飾り気のない部屋が一つあるだけ。壁には棚が並び、巻物が大量に収められていた。窓もなく、床は剥き出しの地面で、人が生活できる場所だとはとても思えない。

 巻物の一つを手に取り、広げてみる。書かれていた文字は今までに見たことがないもので、解読するのは不可能だ。棚に巻物を戻したとき、その影に隠れていた背の高い机を見つけた。書きかけの巻物が無造作に置かれている。それにも知らない文字が記されていて、ほとんど読むことはできない。しかし、一部は流暢な平仮名が使われていたので、お蘭はその箇所だけ読んでみることにした。

『たましいを よびよせる ほう にくたいを ふっかつさせる じゅつ これらは たがいに うちけしあう ちからが はたらく

 それを ふせぐためには だいしょうが ひつようだ

 わたしは かつて なにを ぎせいにすればよいか みつけていた

 どうしても おもいだせない

 もうすこしで たっせいできたはずなのだ

 にんげんを かんぜんな かたちで いきかえらせることが』

 その後の文字は、墨で塗りつぶされて何が書かれていたのか分からないが、どうやら人を蘇らせようとしていたらしい。その考えに狂気を感じて、お蘭は背筋が寒くなった。

 机の上には、他にも何本かの巻物が積まれている。その横に、一冊の本が置かれていた。お蘭は、それを手に取って、適当に開いてみた。

『わたしは みずからに のろいをかけたのだ

 いま そのことを おもいだした

 そんなだいじなことを どうして わすれていたのか

 だんだん きおくが うすれていく

 わたしは こわい』

 『のろい』という言葉にお蘭は胸が高鳴った。自分の受けた呪いと何か関係があるかもしれないと考えたのだ。驚いたことに、自分自身に対して術をかけたと書いてある。どうして、そんな事をしなければならなかったのだろうか。

『やつらが にくい

 さんごの もちぬしを ころした

 きのうの ことだ

 あいては ろうばだった

 むねを つらぬいたとき かのじょは あぜんと していた

 こんなことをして よかったのだろうか

 やつらが にくい

 でも りゆうは わすれた』

 過去に遡りページをめくる。理由もよく分からないまま、老婆の命を奪ったらしい。それだけ相手のことを憎んでいたのだろうか。しかし、お蘭にとっては、それが正気の沙汰とはとても思えなかった。

『わたしは うまれかわった

 それまでの しんしょうは すべて うしなって

 のこったのは たった ふたつ

 たいせつな おまもりと

 ひとふりの こがたな

 これで なんどめになるのか もう わたしには わからない

 とつぜん いのちを うしなう きょうふに たえるのも つらいものだ

 かいほうされることは えいえんに ないのだろうか』

 これが一番はじめのページに記されていた。生まれ変わったとは、どういう意味なのか、お蘭には理解できない。それも一度ではないようだ。終わることのない生と死の繰り返し。雪花も同じようなことを言っていたのを思い出した。それは眠ると死体になるというお蘭の呪いを表していると考えていたが、ここに書かれているのも同様の意味を持っている。これは対の呪いを指しているのではないかとお蘭は考えた。呪いの持ち主は突然、命を失い、そして生まれ変わる。不老不死は人間が欲するものの一つではあるが、いつ果てるか分からない人生を送るのは確かに辛いものであろう。お蘭は、今度は末尾のほうへ読み進めてみた。

『たましいは あるべきところへ

 いそがなければ わたしは すべての きおくを うしない

 さまよう ぼうれいと なってしまうだろう

 もう いのちを うばうことに ていこうは なくなった

 ひとの こころを うしないつつある

 あねうえへの おもいが うすれつつある

 のこるは やつらへの うらみだけ』

『こどものころを おもいだした

 げんいんふめいの やまいに おかされたときだ

 かおに おおきな あざが できて なんにちも こうねつに くるしんだ

 だれに たすけてもらったのだろうか

 まじないも きかないので おやも さじを なげていた

 あたたかい てが わたしの かおに ふれた きおくが のこっている

 きっと わたしの あねうえに ちがいない』

 本を持つお蘭の手が震える。これを書いた人物には姉がいた。そして、子供の頃、顔に大きな痣があった。思い当たる者が一人。でも、その事実を受け入れることができなかった。

『きょうは きぶんが いい

 たいせつなものを とりもどすことができた

 それは わたしの なまえ

 あねうえが きめたのだと むかし おしえてもらった

 でも あねうえの なまえは まだ おもいだせない

 かわりに おもいだす だれかの なまえ

 おらんとは いったい なにもの だろう』

 自分の名前が記されているのを知って、お蘭は確信した。これはお初が残したものだ。いつ頃の話なのかは知る由もないが、お初が呪いによって今もなお転生を繰り返し、生き続けている可能性は十分に考えられる。もしかしたら、対の呪いの持ち主とはお初なのではないか。お蘭はこの部屋でお初が戻るのを待とうと考えた。

 しかし、それはできなかった。突然、部屋の中が揺らぎ始めたのだ。棚が傾き、中の巻物が散乱する。机が溶けた飴のように崩れ、壁は生きているかのように波打つ。いつの間にか床が消え去り、お蘭は吸い込まれるように落ちていった。


 ほとんど道だと確認できないような場所を、蒼龍たちは歩いていた。

「この方向で本当に正しいのか?」

「源兵衛殿とお松殿の足跡が残っている。大丈夫だよ」

「あいつらも方向を誤っていたらどうする?」

 伊吹は心配そうに尋ね、蒼龍がそれに答える。しばらくすると

「道を間違えてはいないだろうな」

「心配ない、二人がちゃんと先導しているよ」

「それだって、あてにできないだろ」

 と、同じことを延々と繰り返していた。不安に思っていたのは伊吹だけではない。他の者たちも、山の中で迷い子になるのではないかと心配していた。それに加えて、いつ追手に襲撃されるか分からないという恐怖もあり、誰もが口を閉ざしたまま歩き続けた。解決する訳でもないのに、何度も不安を口にしているのは伊吹くらいのものだ。

「これは熊の爪の跡だな。こんなものにまで警戒しなきゃならないのか」

 源兵衛は、木の幹に残された傷跡を調べていた。その背後で、お松が覗き込みながら

「熊鈴でも用意すればよかったかしら」

 と話しかけた。しかし、源兵衛は頭を振って応える。

「追手に居場所を知らせるようなものだから、それも危険だよ。いざとなれば、刀を手にとって闘うさ」

 お松はうなずきながら、あたりを見回した。

「道はこちらで間違いないのよね」

「わしもそれは少し不安だった。方向は合っていると思うのだがな」

 源兵衛は太陽のある方角を見上げる。木々の間から、太陽の強烈な光が地面まで伸びていた。

「太陽の昇るほうへ進めば間違いはないだろうて」

 笑みをこぼす源兵衛を眺めながら、お松がほんの少し笑った。寺を出発してから、ようやく見せた笑顔であった。

 結局、追手は現れることなく、道は山間の小さな集落に至り、一行はそこで小さな古寺に宿を求めた。

「蒼龍様、お蘭さんはまだお気づきになりませぬか?」

 お蘭を背負ったまま部屋へ入ろうとする蒼龍に、後ろからお菊が声を掛けた。

「ふむ、発作が始まるとしばらくは起き上がれぬよ。なに、心配は要らない。それより、あなたも疲れたでしょう。早く休まれるがいい」

 蒼龍に促されても、お菊はうつむいたまま立ち去る気配がない。さて、どうしようかと考えているところに、お松が通りかかった。

「あら、お菊殿、どうされましたか?」

「お松さん・・・ あの、お蘭さんの様子を伺いに参ったのですが」

「まだ、回復なさっていないのですね」

 困り顔の蒼龍にちらりと目を遣ってから、お松はお菊の肩にポンと手を置いて

「心配なのは分かるけど、私たちではどうすることもできないわ。それより、自分の体のほうを大事にしなければ」

 と言葉を掛けてみた。お菊はうなずいたものの、まだ何かを言いたそうな雰囲気だ。

「なにか悩み事があるようだな。遠慮せずに話してみてはどうかな」

 お菊はゆっくりと顔を上げた。お松の心配そうな表情と、蒼龍の優しいまなざしを交互に見ているうちに、彼女の目から涙があふれる。

「お雪さんが亡くなったのは私のせいです。それだけじゃない、鬼坊やお蝶も死んでしまった。どうしたらいいか、私、分からないのです」

 両手で顔を覆って泣き始めるお菊の姿に、蒼龍とお松は為す術もないといった表情のまま、互いに顔を見合わせた。

「これ以上、誰かが死ぬのは耐えられない。いっそ、この手で何もかも終わりにしてしまいたい」

「落ち着きなさい。自暴自棄になってはいけない」

 お菊に声を掛けた時、蒼龍は、背負っていたお蘭の体がだんだん重くなっていくことに気づいた。お蘭が蘇生を始めたのだ。

「お菊殿、あなたは何も悪くはありません。全ては若旦那が招いたことよ。お菊殿も被害者の一人、自分を責めてはいけないわ」

 お松の言葉が耳に届いたかどうかも分からない。お菊は泣き続け、二人はどうすることもできず立ち尽くしている。旅を再開し、冷静に考えることができるようになったので、自責の念に駆られてしまったのだ。確かに、今回の騒動は伊吹とお菊の別れ話が発端なのだから、そう思うのも仕方がない。

 やがて、お蘭が息を吹き返し、突然暴れだした。気づいたら目の前は真っ暗で、何者かに背負われた状態であれば、誰もがそうなるであろう。

「お蘭、大丈夫だ、危ないから暴れないで」

 蒼龍は、その場にしゃがみ込んでお蘭の体を床に下ろすと、顔を覆っていた小袖を急いで取り除いた。目の前に現れた蒼龍の顔を見て、お蘭は思わず飛びつき、彼の首に腕を絡める。

「お蘭さん?」

 あまりにも突然に、お蘭が復活したので、お菊は泣くのも忘れて、その様子に目を凝らしていた。お松も少なからず驚いたらしく、唖然とした表情で二人を眺めている。

「怖かった・・・」

 お蘭のつぶやきを、お菊もお松も顔に小袖を被せられていたからだと解釈した。ただ一人、蒼龍だけは何があったのか勘づいたようだ。お蘭の頭を優しく撫でながら

「大丈夫、全て夢だから」

 と何度も話しかける。

「お菊さん、私たちも部屋へ参りましょう。二人のことは心配いらないわ」

 お松に促され、お菊はうなずいてから、その場を静かに立ち去った。

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