第30話 中辺路へ
蒼龍たちが田辺に到着したのは、すでに陽が落ちた後のことであった。
薄暗い通りを進み、なんとか伊吹たちのいる宿を見つけた二人は、食事もそこそこに眠ってしまった。お蘭は、横になるや死体に変貌し、あの世へと旅立った。
河原で目を覚ましたお蘭は、お初の姿が消えてしまったことに気がついた。船守が去った後、川をどうやって渡るか思案していたときは隣にいたはずだった。また鬼に連れて行かれたのかと、あたりを見回しながら立ち上がり、鬼のいたほうへ走り出す。
しかし、どれだけ進んでも鬼の姿はない。お初の姿もなく、お蘭は立ち止まって大声で叫んだ。
「お初ちゃん!」
しばらく返事を待ってみても、聞こえてくるのは川の流れる音ばかり。お蘭は踵を返し、元の場所へと駆け出した。
遠くに、白く浮かぶ人影を認めた時、お蘭はそれがお初だと思い安心した。だが、近づくに連れて、それは白装束に身を包んだ大人の女性であることに気がついた。川に目を向けているその女性が雪花であると分かった瞬間、大きな石の塔に足を引っ掛け転んでしまう。
「お蘭お姉ちゃん、大丈夫? 怪我はない?」
うつ伏せの状態から上半身を起こそうとした時、頭上から声がしてお蘭は顔を上げた。声の主はお初であった。
「お初ちゃん、どこにいたの?」
「川を見てたよ、ずっと」
お蘭は立ち上がり、雪花のいた場所に目を移した。そこに雪花の姿はない。
「他に誰かいなかった?」
お初に尋ねてみるが、首を横に振って
「誰もいなかったよ」
と答えるだけだ。幻だったのだろうかと、お蘭は不思議に感じながらも川のほうに目を遣った。
「あれ? 川が小さくなっている」
今まで気づかなかったことにお蘭は驚いた。川は驚くほど小さくなり、向こう岸がすぐそばに見える。水は何本もの銀の筋となって、白い砂地をゆっくりと流れていく。
「これなら渡れそう」
「えっ? 無理だよ、お蘭お姉ちゃん。流されちゃうよ」
お初は驚きと恐怖の入り混じった顔をお蘭に向けた。お蘭は、小さな子供には危険に見えるのかもしれないと思い
「それなら、私がおんぶしてあげる。それなら怖くないでしょ?」
と言って微笑んだ。しかし、お初は不安げな顔をしてかぶりを振る。お初を安心させるため、お蘭はこう提案した。
「じゃあ、一度私だけで渡ってみるね。そうすれば、大丈夫だって分かるから」
もう一度笑顔を見せた後、振り返って川に入ろうとするお蘭の袖をお初が掴んだ。涙を浮かべるほど恐怖に怯えるお初の様子が尋常ではないことにお蘭は気がついた。
「こんなに水がたくさん流れているんだよ。危ないよ、お蘭お姉ちゃん」
お初には、以前と変わらず激しい流れの川が目に映っているらしい。自分がまやかしを見ているのだろうかと、お蘭は少し心配になった。
「分かったわ。様子を確認するだけにするから、ここで待ってて」
お初の前にしゃがみ込み、両肩へ手を置きながら、お蘭はお初にそう言い聞かせた。お初がうなずくのを確認し、もう一度、川のほうへ目を向ける。
一本の細くて緩やかな水の流れに近づくと、屈んで水の中に手を入れた。川底の砂地まではっきり分かるほど水深は浅く、透き通った水の冷たい感触が手に伝わる。次に、立ち上がって着物の裾をまくり、片足を入れてみた。水に流される心配もなさそうなので、お蘭はもう片方の足も川の中に入れた。
ゆっくりと流れる水が足首に当たって心地いい。お蘭は後ろに目を向けた。お初が口を大きく開けたまま立ち尽くしている。あまりの驚きに言葉を失っている状態のようだった。
お蘭は、そのまま川を渡り始めた。向こう岸までは目と鼻の先である。半分まで渡ったところで、お蘭はあたりを見回してみた。流れの激しい箇所はどこにもない。静かな川のせせらぎが耳に心地よく響く。
とうとう、お蘭は川を渡りきった。深いため息をつき、振り返ったときである。突然、上流から大量の水が流れてきた。目の前の川は瞬時に急流へと変わり、とても渡ることのできない状態になった。
向こう岸へ目を凝らしても、先程まで目前にあったはずのその場所は遠くなりすぎて、お初の姿を確認することができない。お蘭はその場に立ち尽くし、呆然とするしかなかった。
雪花、猪三郎の二人が、いつものように焚き火を囲んで座っている。一匹の大きな蛾が、炎の中に飛び込んで一瞬のうちに燃えてしまった。
「『飛んで火に入る夏の虫』か・・・」
その様子をぼんやり眺めていた猪三郎がつぶやいた。
「他にも飛んできた虫がいるようね」
「どういう意味ですか?」
雪花の言葉に、猪三郎が疑問を投げかけた時、遠くから悲鳴が聞こえた。素早く立ち上がる猪三郎を雪花が制止する
「大丈夫です。仲間が倒してくれましたから」
「いや、全ては倒していない」
頭上から男性の声がした。同時に何かが落ちてきた音を聞き取り、猪三郎が刀を抜く。
「お待ちくだされ。我々は争いに参ったわけではありません」
暗がりに浮かぶ影が三つ、どうやら忍びの者らしい。その落ち着き払った声を聞いた雪花は
「いつぞやのお侍様ですね」
と話しかける。
「あなたとは初めてお会いしますが」
と相手は返すが、雪花は微笑んだまま何も言わない。仕方なく、男は話を始めた。
「拙者のことは法心とお呼び下され。単刀直入に申し上げれば、あなたと取引致したいことがございまして」
「取引ですか?」
「訳あって、我々はある盗賊一味を監視しておりました。奴ら、急激に数を増やし、このあたりでは大きな脅威となっておりましたから」
「その盗賊たちを手懐けるおつもりだったのですか?」
法心と名乗るその男は少し間をおいてから
「それはご想像にお任せします」
と答えた。しばしの沈黙の後、再び法心が話を始める。
「失礼ながら、我々はあなた方がその野盗共と闘う姿を拝見しておりました。あの骸の山、ちょっとした騒ぎになっておりまして」
ここで法心は口を閉ざした。雪花がうなずくのを確認した後、再び話を続ける。
「皆、極秘に調査している様子。しかし、如何にして人間を瞬時に氷漬けにしたのか、誰も分からぬでしょうな」
「私達のこと、いろいろとお調べになったようですわね」
「ええ、敵であれば少々厄介ですから」
「そうではないと言い切れるのですか?」
「今のところ、あなた方が船を使ってこの国に参られたことは存じております。その目的までは分かりませぬが」
「貴方様の仇敵に雇われた者だとはお考えにならなかったのですね」
男の含み笑いが聞こえる。
「そんなことを恐れていては、交渉はできません。今日は覚悟を決めて参った次第です。どうか、お話だけでもお聞き頂けないでしょうか」
雪花は、すぐには答えようとしなかった。男たちは微動だにせず、辛抱強く待ち続ける。
「分かりました、伺いますわ」
「感謝いたしますぞ」
暗闇の中でも、法心たちが頭を下げたのが分かった。顔を上げた法心は、再び話を始める。
「我々は主命により、今はこの地を探っているところですが、本来は鉄砲を超える新たな武術や忍術の研究が主な任務です。あなたの使われたあの技、我らの使う忍びの術とは全く異なるものであった」
「その術の使い方を教えてほしいということですか?」
「いいえ、そうではありませぬ」
意外な答えに、雪花の眉が上がった。
「似たようなものを、実は以前、目にしたことがあります」
「私以外に、あの術を使える者がいると?」
「あれほど強力ではありませんでしたが、その御仁は夏の暑い最中、庭一面に雪を降らせてご覧になった。あなたほどの力をお持ちかどうかは存じ上げません。なかなか本当の力を見せてもらえぬ故」
いったん言葉を切った法心は、雪花の顔から笑みが消えているのを知り
「興味がお有りですかな?」
と問いかける。
「そうですわね・・・ でも、今は貴方様の要求について伺いたいわ」
その言葉に法心が大きくうなずいたのが、雪花たちの目に映った。
「拙者が驚いたのは、あなたがあの隻眼の男に斬られたときです。奴の刀は確かに、あなたの体を両断していたはずだった。しかし、あなたは平然と立っておられた。一体どういう仕掛けなのか、拙者には理解できない」
「では、その秘密を知りたいと」
「もし、あれが幻なら、あなたの術は遠くにいた我々に対しても影響を及ぼしていたことになる。我々の存在をご存知だったとは思えないし、たとえ気づかれていたとしても、遠くの者に幻を見せてなんの得があろうか」
これは、猪三郎も不思議に思っていたことだ。あのとき、雪花が斬られる場面は彼の目にも映っていたからである。
「教えていただきたい、あなたは不死身なのですか?」
法心の突然の問いに、雪花は答えようとしない。沈黙の時間が刻々と流れていく。猪三郎は刀を握りしめたまま呆然と立ったままだ。死体を操るというだけでも驚くべき能力だというのに、自分自身が不死であるなどとは夢にも思わなかったのだ。眠っていた銀虫が、知らぬ間に起き上がり様子を窺っている。三人の忍びは今度も動きを止めたまま静かに待ち続けた。
「それをお聞きになって、どうするおつもりか?」
ようやく、雪花は沈黙を破ったが、それは返答ではない。法心は、素直に話すことに決めた。
「我が長にお会い頂きたい。我らが究極の目的は、不老不死の客人を探し出すこと。そのために多くの同胞の血を今まで流してきた。全ては我が寺院の存続のため」
「お会いするだけでよろしいのですか?」
「残念ながら、拙者も長が何を考えているのか存じておらぬのです。それは本人が直接明かすでしょう」
雪花は一度うなずいてから
「分かりました。伺うことに致しましょう。しかし、条件があります」
と答えた。
「雪花殿、目的をお忘れか?」
猪三郎が慌てふためき問いかける。雪花は微かに笑みを浮かべ、その顔を一瞥しただけだった。
「何なりとおっしゃるがいい。どんなものでも必ず手に入れると約束しよう」
「ものではございません。私どもは現在、ある人物を追っている最中です。相手は六名。彼らを生け捕りにしてほしい。但し、絶対に命は奪わないこと。傷一つ付けてはなりませぬ」
「その六名をあなた方にお渡しすればよいのですか?」
「引き渡してほしいのはそのうちの二名です。残りはしばらく・・・ そう、ひと月ほど拘束して頂けると助かります。でも、決してひどい仕打ちはしないで下さいね」
法心は少し考えた後、その要求を受け入れることにした。
「分かりました。あなたが長にお会いして下さるなら、その条件、喜んで受けましょう」
お蘭は、荒れ狂う大河を前に右往左往するばかりであった。ひとりで川を渡ってしまったことに後悔しても、今となってはもう手遅れだ。そのうち、どうにもならないことを悟り、再び川が緩やかになるのを願いながら待つことにした。
その場に腰を下ろし、抱えた膝に顔を近づけ、川をじっと眺める。長い時間、お蘭は待ち続けた。川の流れは衰えを知らず、白波を立てながら目の前を通り過ぎてゆく。白い靄が、その先の風景を完全に隠していた。お初がどうしているのか、お蘭には見当もつかない。只々、彼女のことが心配でたまらなかった。
川を渡る手段がないか、もう一度だけ調べてみようと立ち上がった時、地面に岩でも落としたような重い音が聞こえてきた。地面が震え、近くにあった石の塔が崩れ去る。音のするほうに目を遣ったお蘭は、赤く光る何かが近づいてくるのを知り、愕然とした。鬼が再び、姿を現したのだ。
お蘭は逃げようとしたが、すぐに足を止めた。あの鈴の音が耳に届いたのである。
「お初ちゃん?」
腹に響く鬼の足音に混じり、軽やかな鈴の音が確かに聞こえる。お蘭は無意識のうち、鬼に向かって駆け出していた。
お初は鬼の肩に乗り、落ちないように鬼の髪にしがみついていた。怖くて目を閉じていたので、お蘭の存在に気づいたのは鬼が歩くのを止めてからだ。そっと目を開け、お蘭の姿を認めるや、鬼の肩から飛び降りた。
「お初ちゃん、危ない!」
お初が落下する様子を見たお蘭は驚き叫んだ。お初はなんとか両手をついて地面に着地し、すぐにお蘭の下へ駆け出す。飛び込んでくるお初の体を、お蘭は両手で抱きしめた。
泣きじゃくるお初の頭をそっと撫でながら、お蘭はしばらくの間、お初の顔を愛おしそうに眺めていた。
「ごめんね、お初ちゃん」
謝るお蘭に涙で潤んだ目を向けて、お初は頭を振った。
「お蘭お姉ちゃん、川に流されたのかと思ったの。どうしようかと思ってたら、あの鬼さんがやって来て、お蘭お姉ちゃんのところに連れて行ってくれるって」
涙を拭いながらお初が説明するのを聞いて、お蘭は思わず
「どうして?」
と鬼に問いかけた。
「我が主は、その子を救えるのがお前しかいないと判断なされた。このまま旅を続けるがいい。しかし、それはお前にとって大きな試練となるであろう。覚悟しなさい」
それだけ言葉を残し、鬼は川を渡り始めた。鬼の体は、白い靄の中でも赤く光り輝いていたが、その光も、やがて消えてしまった。
「ここが分かれ道か」
源兵衛が道標の前でつぶやいた。左に進めば中辺路である。その道の左右には、家々が規則正しく並んでいた。
「あいつらが、このまま真っ直ぐ進んでくれることを祈るよ」
伊吹が、今まで辿ってきた道のほうを眺めながら口を開く。
「しばらく姿を現していないからな。俺たちの居場所も把握していないはずだ。これなら逃げられるぞ」
源兵衛は勝ち誇った顔でそう言うが、追手には鬼の目があることを、彼らは知る由もない。
進むに連れて家はまばらになり、やがて周囲は田んぼばかりになった。小さな川に沿って道は続き、その先には緑深い山々が連なる。空は雲ひとつない、見事な晴天であった。
山間の集落に入ってすぐ、道を歩いていた老婆に源兵衛が
「潮見坂へはこちらを進めばいいのかな?」
と尋ねる。本来、中辺路はより南側にある富田川沿いにあった。しかし、富田川は暴れ川として有名な上、その川を何度も横断しなければならず、危険で不安定な道として知られていた。そのため室町時代の頃にはすでに、潮見坂を通る北側の新たな道が開拓されている。もっとも、危険は減ったものの難所であることに変わりはない。
「あんたら、こんなときに熊野詣かね。呑気なものだねえ」
辛辣な言葉に対して源兵衛は、一本取られたとばかりに苦笑する。横にいたお松が代わりに答えた。
「私たち、所要で伊勢まで行かなければなりませんの。こちらで正しいのか教えてくださらないかしら?」
「そうかい、そうかい。このまま山沿いに進んだら、そのうち登り坂になる。迷うことはなかろう」
そう言った後、老婆は上目遣いにお松の顔を睨んだ。
「だが、用心することじゃ。山の上では争いが絶えんからの。巻き込まれたら、命はないだろうな」
ひきつけでも起こしたような甲高い笑い声を上げながら、老婆は唖然とする六人を尻目に去っていった。
老婆の言う通り、道はやがて急な登り坂になり、山の中へ続いている。左手に見えていた、谷間に並ぶ家々はすぐになくなり、その景色もやがて木々に隠されてしまった。
たくさんの巨木に囲まれて、道は複雑に蛇行しながら続いている。一行は、ただ黙々と前に進んだ。老婆の言葉が気になり、誰もがあまり物音を立てたくなかったのである。しかし、右手の視界が開け、そこから望む景色には全員が驚嘆の声を上げた。眼下に広がる深い森の中に、つづら折りが見え隠れしている。その向こうにある盆地には、家々が精巧な模型のように立ち並び、尾根を越えた遥か彼方に、水色に霞む湾が姿を現していた。水平線は空と溶け合うようにぼやけて、まるで海の水が天に舞い上がっているような、不思議な印象を与える。
一行はひとしきり、眺望を堪能した。危険がなくなったわけではないものの、少なくとも恐ろしい刺客の脅威からは逃れられたという安心感が、こうして景色を眺める余裕を生み出したのだろう。
「私たち、あそこから来たのですね」
お雪がしみじみと言葉にした。
「随分遠くまで歩いてきたものね。峠まではあとどれくらいかしら」
お松がそう言いながら、行く先に目を遣ったとき、一羽の大きな鳥が森の中から飛び出した。それはクマタカであった。
「鳥になれたらいいのにな。そうすれば、あっという間に伊勢まで行けるでしょう」
空を舞い上がるクマタカを目で追いながらつぶやくお雪の横で
「空を飛べるって、素敵でしょうね」
と、お菊も一緒になって空に目を移した。しかし、その後のお雪の言葉を聞いて、お菊は息を呑み、彼女に顔を向けた。
「私、生まれ変わったら、鳥になりたい」
お雪はまるで魅せられたように、空を仰ぎながら恍惚の表情を浮かべていた。
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