第339話『鶴岡山の猛虎の美学』(左近のターン)

 鶴岡山の物見代に登って、陣を構える山県昌満の軍に目を光らせる芥子武者、明智の里では鶴岡山の猛虎と渾名あだなされる下条智猛が、麓口に立つ二つの影を見つけ目を凝らした。


 麓の二つの影を捉えた智猛は、脇に控える足軽に尋ねた。


「信代は、起きておるか?」


「はい、先ほど粥を召し上がられたとのことでございます」



「そうか、ならば、信代に、智千代が戻ったと伝えよ」


 と、命じ、大きく深い息をした。


(こうも、簡単に智千代を連れ戻したとすると、遠山家も……)


 智猛は、病症で憔悴しきった妻・信代を思うと胸が締め付けられるような思いがした。




 信代は武田信玄の養女である。上洛への足掛かりに織田信長の治める東美濃攻略の信玄の目論見を、5年前の上村合戦、3年前の西上作戦による恵那・岩村の奪取にことごとく一己の武勇で立ちはだかった漢・それが下条智猛なのだ。


 下条智猛は、東美濃一帯を治める遠山氏の重臣おとな武勇で知れる下条信氏の家臣・遠縁の縁者でしかない。


 しかし、信氏家中の一番槍は決まって智猛であった。


 信玄は、恵那から遠山氏を追いやると、最後まで抵抗した武勇の要の重臣、信氏には妹を嫁がせ味方に引き込んだ。


 信玄は、それだけでは物足らず、一己の武勇で武田の侍を30人を討ち取った智猛には、対峙した山県昌景と秋山虎繁の進言もあり用心のため養女・信代を娶らし家臣に引き入れようとした。



 だが、智猛は信代を娶ったところまでは良かったが、武田氏に降ることは良しとしなかった。主の信氏がいくら説得しても智猛は、


「某は遠山氏にも、ましてや武田氏にも、もちろん、信氏の叔父御にも仕えているわけではござらん。某が仕えているのは、鶴岡山の民にございます」


 信氏が呆れたように諭すように言った。


「よいか、智猛。我らのような土着の侍は、いくら一己の武勇が優れていても、それは所詮、大勢力の前ではただの戦塵せんじんでしかない。上手くいけば下条の家は武田に与することで遠山の家から恵那・明知を奪い取ることが出来るやもしれぬ。ワシは武田家・岩村城を任された秋山虎繁に着くぞ。ワシとお前の実力を認めてくれた山県昌景殿、その主・武田信玄公に仕えるのが下条の家のためだ」


 と、信氏は、燃えるような瞳で智猛を見た。


 智猛は、ニヤリと笑って、


「叔父上、確かに下条家にとってはそれが一番にござる。己の武勇を認め最大限に生かしてくれる大将の元で槍を振るうそれがいい。しかし、オレはこう思うのです」


 と、智猛は、言葉を切った。


 信氏が、いつまでたっても言葉を継がない智猛に焦れて尋ねた。


「智猛、お前の答えとはなんだ!」


 智猛は、ヌッと信氏に顔を近づけ答えた。


「叔父上、オレは強い相手を敵にしたいのです」


 智猛の子供じみた返事に、信氏は腕を組んでけ反った。


 智猛の答えは、軍略、戦略、政略、忠義、でもない。戦国を生き抜く手立てではなく。好みの問題、言わば、『己の美学に反する!』が答えなのだ。


 信氏は頭を抱えた。早くに父を亡くし、叔父・甥の関係で、信氏が鍛えた智猛である。幼き頃より槍を取らせても、弓を取らせても、刀を振らせても家中の誰よりも優れた片鱗を見せた。学問をやらせても『六韜三略』を一度見ただけで暗記して、空で復唱して見せた。


 信氏が、試しに、


「では、六韜はなんぞや?」


 と、尋ねると、智猛は、退屈な質問に興味なさそうに答えるように、カツンと首を鳴らして、


「表の戦い方にござるな」


 と、簡単に答えた。


「では、三略はなんんぞや!」


 これには、智猛も困ったような顔をして腕組みして答えに困っている。


 信氏は、ほれみたことかと、教え諭すように三略の答えを講釈してい言い含めようと口を開きかけた。


「叔父上、三略は戦の極意にござるな」


 信氏は、智猛の簡単だが信氏でもあーだのこーだの説明がいる老荘思想を基調にした”人の心の治め方”を記した三略をいとも簡単に答えて見せたのだ。


(智猛には、ワシの力では何をやっても勝てぬ)


「智猛、お主の才は、我が甥ながら頼もしき限りだ。それに、下条の家の者は皆、お前を好いておる。お前が、家に残ると残らないのでは家の空気が変わってしまう」


 智猛は、困ったように眉を掻いて、


「それは、まいったな」


 信氏は、腹の底から言い含める。


「それに主の遠山氏は所詮田舎侍の価値観でしか人が図れぬが、武田信玄公は違うぞ。噂では秋山虎繁殿は、元は、どこぞの侍でわけあって武田へ仕えることになった素性の怪しい者。それを、山県昌景が推薦して家来になり侍大将にまでなった。その昌景も、元は飯富源四郎と申して、飯富家の次男坊だか、三男坊だか、四男だか知らんが才覚があると知ると引き上げて”風”の大将にまで抜擢したと聞く。お主の才を鶴岡山に閉じ込めておくのはワシは惜しい」


 と、嘆きをこぼし、自己からの説得をあきらめ秋山虎繁を頼った。


 報告を受けた虎繁は、


「ほう、信氏殿の甥・智猛は、山県殿にそっくり似ておるのう。まことに面白い。よし、スグ、山県殿に文を出すぞ!」


 と、面白そうに答えて、すぐさま、駿河国・江尻に戻っている昌景に文を送った。





 対信長の最前線の指揮官、秋山虎繁からの火急の文である。側に控えていた、嫡男の昌満も、娘婿の三枝昌貞も、広瀬景家も孕石元泰も眉を引き締めて引き開いた昌景の反応を息を飲んで待って居る。


 筆頭家老の景家が尋ねた。


「殿、織田家に動きがありましたか」


 すると、昌景は、景家の真面目臭い顔に己の顔を近づけて、腹を抱えて大笑いして「これを見よ」と、文を景家に渡した。


 真面目な景家は、虎繁からの文を読んで目を丸くし、「一大事!」と、でも言わんばかりに驚いた。


「殿、これは御屋形様(武田信玄のこと)の養女を娶っておきながら、武田には降らないともうしておるのですか!」


 昌景は、嬉しいことでも起こったように笑い転げながら、


「そうだ、そうだ、あの芥子武者は、己の美学に反するから遠山家を裏切ないんだとさ。まったく、傑作な漢だよ」


 景家は、まじめな顔して、


「殿、笑い事ではござらぬぞ、例え、下条智猛に娶せした信代様が御屋形様の養女とは申せ、これでは、武田は易々と人質をくれてやったようなものではござらぬか」


 昌景は、ヒョイッと立ち上がって、景家の顔を見て、必死で笑いをこらえながら、


「あいつは、真の武士もののふだ。なんと面白い。だが、今はダメでもいずれ味方に引き入れねばなるまい漢だ。難問だが、あやつにはそれだけの価値がある!」


 と、また笑い転げた。





 麓の二つの影を捉えた智猛は、静かに鶴岡山の登り口に入った二人を見守り呟いた。


「遠山の殿は、大事なことがまったくわかっておらん」


 と嘆いた。




 つづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る