第329話智林の苦悩と人質の運命 (左近のターン)
満昌寺の離れで、主烈景が、明知の里の庄屋、商人を集めて開く賭場に、明知城の城主遠山一行の使者が走りこんできて援軍要請を願い出た経緯を、床に潜って盗み聞きしていた左近が、這い出ると、そこに遠山家一の武勇を誇る下条智猛の嫡男で人質として寺に預けられている足の不自由ながらも懸命に雑務をこなす智林が掃き掃除をしているところに出くわした。
「床下でなにをして、おいでなのです」
左近は、武田家の織田領内西美濃・遠山氏が守る明知城切り取りのため、織田の援軍を防ぐ要の地・鶴岡砦の猛虎下条智猛を調略するため、智猛の悩みの種 跡継ぎの智千代こと現在は、遠山氏の氏寺満昌寺に人質として預けられている智林の様子を見ると同時に、明知城の動きを偵察のために潜入した。
が、見守るだけのつもりだった左近が、直接、智林から声をかけられた。決して、床下に潜り集中して情報を盗んでいたから、油断していたわけではない。智林があまりも善良で、寒い冬空で震えながら掃き掃除をするのを、兄弟子の李念が嫌って押し付けたのも自分の修行のためと心得て丁寧な仕事をする智林の淀みのない心がけが、左近の鋭敏な張り巡らされた神経の網から、庭の花木や野鳥の類、と同じ様に外れていたのだ。
智林は、寺の主の離れ屋から這い出た左近を見ても、別段、怪しむようなところはない。丸い素直な目をして、子供のような心で問うたのだ。
左近は、とっさに、
「私は、どこぞの家中に仕官を目指して浪人をしているおこも(乞食)、でございます」
と、嘘をついた。
智林は、左近の言葉をそのまま信じたのか素直に頷いて、
「それは、お腹を空かせてお困りでしょう。そうだ、台所に、まだ、私が朝食に残した干芋が有るかもしれません。私についてきてください」
と、親切に飯の世話を申し出た。
左近は、あくまで、智林の父、下条智猛の調略のため、その息子智林の様子と、遠山家の菩提寺で僧兵を抱える満昌寺を探りに来たのだ。世情を知る寺の大人に姿を見られるわけにはいかない。だが、ここで、智林の親切を断れば、それこそ、智林は左近のついたおこもの嘘を返って心配して大人に相談するだろう。
左近は、頭を掻いて、もう一つ、嘘をついた。
「小僧さん、あなたの親切は嬉しいが、私は人前に出るのが苦手なんだ、食い物を施してくれるならどこか目立たない場所で、恵んでくださらぬか」
と、申し出た。
すると、智林はやっぱり素直に信じて、
「それでは、良いところがあります」
と、寺の裏手にある庫裏に左近を案内した。
庫裏に案内される左近は、智林の素直で淀みのない心の美しさに感心した。さすが、智猛殿の嫡男だ子供ながらに一人の人間として尊敬できると感じた。
倉裏は、10人は入れたらよい手狭だが、棚組に蔵書が詰まれ、机と灯り立てが置かれている。
佐近は、蔵書の一冊を取り上げて見た。
「これは、六韜三略……」
佐近は、禅寺でなぜ古い兵法書の写しがあるのか疑問を持った。
智林は、正直に答える。
「それは、宗林様が、この寺の小坊主は皆、遠山家に仕える家臣の子弟ばかりでしょう。人質の期間が過ぎれば還俗して、遠山家を支える武将になるも見越して、仏門の修行だけではなく特別に兵法についても御講義くださるのです」
佐近は、さらに疑問の態を深めて、
「それならば、ココは人の出入りが激しいのではあるまいか」
と、尋ねた。
すると、智林は左近の問いかけにがっかりしたような顔をして、
「智林様は、皆の将来を思って御講義くださるのですが、私以外の小僧は、皆、身分の高い重臣の子弟ばかりです。頭を鍛える勉学よりも、烈景様が直接ご指導になる武術の稽古ばかりに真剣になり、智林様の教えを請うのは私一人です。そのおかげで、私は疑問が浮かべば、智林様よりすぐにご解答いただけるので喜ばしい限りなのですが」
「ならば、ココには、講義の時以外は、智林殿しか人は来ないのですな」
智林は、屈託のない笑顔で答えた。
「そうです、ここへは私しか来ません。すぐに、干芋を持ってきますから、少しお待ちください」
と、言って智林は下がっていった。
佐近は、手に持った六韜三略をパラパラとめくってみた。
「おや?」
これは、丁寧な文字で書かれているが文字にあどけなさが残る。どうやら、子供の字である。
佐近は、豹韜を開いた。確かに、これも子供の字だ。ところどころに朱が入れられ注釈が書き込まれている。
「これは、もしや、誰かが書き写した物か……」
先ほどの話から推測するに、おそらく、これは、宗林の講義を受けた智林が書き写して、自分で注釈をつけたものだ。
なかでも、左近が手に取った豹韜は、主に山岳地帯、林での兵法の秘伝が書かれた指南書である。
六韜事態は、古代中国の軍師 ”太公望(呂尚)”が周の国を興した武王の質問に答えると言った形式の兵法書だ。
豹韜の注釈をみた左近は、大きく頷いた。
「さすが、下条智猛の嫡男である。例え、足が不自由であっても、頭の中では鶴岡山での戦を想定してしっかり、山岳戦に特化した豹韜を学んでおる。子供なのに、なかなかなものだ」
と、頷いた。
「智林はおらぬか!」
と、蔵へ向かって李念の声と足音が近づいてきた。
佐近は、棚の裏に身を隠した。
ガラリ!
頭に鉢巻を巻き、僧衣の袖は背中で襷がけをして縛り、右手には薙刀を持った李念が戸を開いた。
「智林! なんだ、居らぬのか、これから、武田との戦で一大事だというのに、あいつは武術の稽古には身を入れず本ばかり読んでおるから、逃げ出したのやもしれぬな」
などと、独り言を言って帰っていった。
四半刻ほどすると、干芋を取に行った智林が、この寺の主である烈景にまるで罪人でも扱うように、体と腕ぐるりを縛り上げられて、蔵へ引っ立てられ投げ入れられた。
そうして、烈景は捨て台詞に、
「智林、お前は、あの厄介な下条智猛を手なずけておくための人質だ。満昌寺は遠山一行と武田を迎え撃つことに決めた。お前は、戦が終わるまで倉へ入って置け!」
と、押し込んで。「ガチャリ!」と倉のカギを閉めた。
烈景の声と足音が遠ざかるのを見計らって、左近が、智林の縄を解いてやった。
「智林殿、何事にございますか」
と、左近は尋ねた。
智林は、困ったような顔をして答えた。
「どうやら、満昌寺は武田と戦うようです。私は、父が裏切らぬよう人質として、ここに押し込まれました。父は何も私を捕らえておかなくても忠義の人で心配ないのに、まったく、猜疑心の強い烈景様には困ったものです」
と、愚痴をこぼした。
「そうそう、忘れておりました」
そう言って、智林は腹帯から干芋を一切れ出して左近に差し出した。
「浪人さん、すいません、お腹を空かせてらっしゃるから、もっと、持ってこようと思ったのですが、すぐに、烈景様に先ほどのようにされて、干芋を一切れしか持ってこれませんでした。烈景様は父と違って、私のように末端の者は使い捨ての駒のように、いくらでも代わりの利く人間だと思って粗末に扱います。」
と、言って、左近に干芋を差し出した。
智林から差し出された干芋を受け取る左近は、智林の双眸(そうぼう)の奥に光る輝きを見つけたような気がした。
つづく
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