春に名残

束白心吏

プロローグ

 私の意識を浮上させたのは着信音だった。

 勉強に没頭していた私は、この時に部屋が薄暗くなっていることに気づいて卓上照明をつけ、音の発信源である勉強机の真横であるベッドの枕元からスマホを取る。発信者名は……『お母さん』。珍しいこともあるものだと思いながら通話ボタンを押した。


『もしもし雪葫ゆきこ?』

「どうしたの?」


 電話越しのママの声はどこか切羽詰まってるように思えて、私の中で何か嫌な予感が芽生えた。それを裏づけるように紡がれた『落ち着いて聞いて欲しいのだけど――』という言葉から一拍おいて、ママは本題を口にした。


『アキ君が事故に遭って、意識が戻らないらしいの』

「……え?」


 ママの言葉に私の頭は一瞬真っ白になった。嘘だろう。そう思いたかったけれど、ママはそうした嘘が大嫌いな性格なので、嫌でも本当だと頭は判断を下してしまう。

 アキ君と私は所謂幼馴染で、そして好敵手ライバルの関係でもあった。物心ついてからこれまで、勉強はもちろん運動や登下校の早さまで、競えるものがあれば何であれ競い合っていた。とはいえ仲が悪いということもなく、家族ぐるみで仲が良い。特にママ達の仲がよかった為、多くの思い出を共有してきた。

 今回だって期末の総合得点で競うことになっていた。これまで高校での戦績は同点……四勝四敗と互角だ。前回の中間で負けた私は今回は勝つと意気込んで先ほどまで勉強机に張り付いていた。 


『幸い一命は取り留めたらしいけど──雪葫、大丈夫?』

「だ、大丈夫だよ! うん! あ、私アキ君の分も、テスト頑張らないとだから、切るね!」


 私は動揺を隠すように見栄を張り言葉を捲し立てて電話を切る。動揺してることは明らかにバレているだろう。

 しかし咄嗟の言葉とはいえ、頑張らなければいけないのは確か。


「はぁ……」


 ため息を一つこぼして、私はベッドに胴を投げ出す。

 ──ダメだ。やる気が起きない。先ほどまであった意欲は冷水でもかけられたかのように消沈し、堕落を誘う。

 結局ママからの一報以降、勉強に手を付けるなんて考えが浮かばなかった。いや、正確にはが適当かもしれない。何せ今日も勉強していたのはアキ君に総合得点で勝つためだ。勝ったから何かある、という訳ではないけれど、これまで様々な分野で競い合った仲。何もせず負けるなんて私の矜持が許さなかったし、アキ君だってそう思っていたに違いない。

 だけどその前提が、勉強の意欲に直結していた大義名分は、アキ君が交通事故に遭ったことで失われた。意識不明のアキ君が勉強出来るわけないし……そもそも意識不明のアキ君が期末試験を受けられるかどうかも不明だ。受けられたとしても内容に若干内容に差異があって競うには不適切かもしれない。


「はぁ……」


 もう一度、ため息を吐く。考えれば考えるほど勉強に対するモチベーションが低下していく。勉強するための理由よりも、逃げる理由が次から次へと思い浮かぶ始末だ。

 私はそのまま布団を被って踞る。いつの間にか睡魔が忍び寄ってきていたようで、瞼がは自然と閉じていく。願わくばこれが悪い夢であれ──そんなことを考えながら私は微睡みに身を委ねた。


 それから週明けまで、私がやる気を起こして勉強机に向かうことはなかった。

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