孤独

クロノヒョウ

第1話



 月を見ていた。


 美しく輝く月明かり。


 漫画や小説だったらこう言うだろう。


 きっと今ごろあの人も同じ月を見ているはず、と。


 でも彼はきっと見ていない。


 ここはビルの八階にあるネットカフェ。


 彼と喧嘩して家を飛び出し行くあてもなくふらりと入った。


 適当に選んだ端の部屋にはちょうど窓があり綺麗な月明かりに照らされていた。


 酔うと突然怒りだす彼。


 今日も私に向かって灰皿やリモコン、グラスとテーブルの上にある物を投げつけてきた。


 私は殴られやしないか、殺されやしないかと怯えながら泣きながら家を飛び出した。


 玄関を出てエレベーターを待っていると彼が追いかけてきた。


 ひき止めてくれるのかと期待した私がバカだった。


 彼は恐ろしい形相でこう言った。


「お前が出ていってどこかに泊まる金も全部俺の金なんだからな!」


 それだけ言って彼はドアを閉めた。


 私は無になった。


 完全に思考が停止した。


 静かなネットカフェの狭い空間のマットに横になりただ月だけを見ていた。


 これが初めてではなかった。


 もう何度も彼は同じように私に向かって物を投げつけ罵声をあびせる。


 その度に私は家を出て夜の街をふらふらと彷徨う。


 何度別れようと思ったか。


 なぜ彼のもとから逃げ出さないのか。


 それはきっと私が孤独だから、孤独になりたくないからかもしれない。


 ひとりぼっちだった私といつも一緒にいてくれた彼。


 あの頃はどれだけ彼に救われたか。


 彼と別れてまたあのひとりぼっちの日々を送るのかと思うとぐっとこみ上げてくるものがあった。


 時間が経てば、二、三日すればお互い冷静になる。


 そして私は何事も無かったかのように家に帰る。


 また彼との穏やかな日々をおくれる。


 それだけを願って月を見ていた。


 彼は見ていないだろう月を。


 まばたきもせずただ静かに息をしながら見ていると月に口が現れた。


 そしてその口は私に向かってしゃべり始めた。


「どうしてそんなに我慢するのさ」


 (我慢なんて……してるのかな)


「もっと幸せになりなよ」


 (幸せだと思ってたけど)


「君はひとりぼっちじゃないよ」


 (そうかな)


「彼は君のことを愛してると思う?」


 (違うの?)


「愛してる人にあんな酷いことをする?」


 (愛してるからするんじゃないの?)


「君は怒られるようなことをした?」


 (してないと思うけど、私の何かが彼の怒りに触れた)


「それでもいいの?」


 (いつものこと)


「この先もずっと?」


 (この先もずっと)


「じゃあボクが願いを叶えてあげる」


 (本当に?)


「うん」


 月はそう言うと姿を消した。


 私はほっと安心して目を閉じた。


 明日目が覚めたら家に帰ろう。


 そしてまたいつものように穏やかな日々を過ごそう。


 そう思いながらうとうとした。


 はっと気付き時計を見ると午前二時。


 ひときわ明るく輝く月明かりが眩しいほどだった。


 見上げると月はさっきよりも一回り大きくなっていた。


 そして口から真っ赤な血を滴らせていた。


 (ありがとう)


「こちらこそ。ごちそうさま」


 月はそう言って血のついた口で笑ってみせた。


 私は家に帰った。


 家の中は彼が投げつけた物で汚れていた。


 灰皿やリモコン、割れたグラスを片付け掃除した。


 彼の姿も彼の荷物も何もかも無くなっていた。


 これでまた穏やかな日々が送れる。


 私は窓を全開にして月を見上げた。


「私はひとりじゃない」


 月に向かってそう呟いた。


「だってあなたがずっと一緒にいてくれる」


 これで何人目だろうか。


 月に彼を食べてもらうのは。


 その度にどんどん大きくなっていく月。


 もしかすると他の人の願いもきいてあげているのかもしれない。


 そうしたら月はもっともっと大きくなってこの星ごとのみ込んでしまったりして。


 そして私はずっと月の中で月明かりに照らされるの。


 孤独ではなく月と一緒になって。


「それもいいかもしれないね」


 月はそう言うと、また真っ赤に染まった口を開けて笑っていた。


「君は孤独じゃない」


「うん」


 早く次の彼を見つけて早く月が大きくなって早くこの星ごとのみ込んでくれますように。


 そう願いながら私はひとり、月を見ていた。



           完



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孤独 クロノヒョウ @kurono-hyo

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