第1章 第2話

「……え?」

 あらぬ方向から来た『悪霊』の質問に、男は一瞬、思考が停止した。腰を抜かし、尻餅をついた男は、改めて、目の前のふたりの『悪霊』を見直す。

 ひとりは、腰まで届く金髪で、見るからに話しに聞く白人ペーリンの少女の外見をしている。幼いが彫りの深い顔と、青緑とも、光の加減によっては灰色とも見えるその吊り気味の目の色は、なるほど、ラマ僧の言う『悪霊』の外見そのものだ。腰に手を当て、不遜にこちらを見下ろす態度といい、茶緑の外套チュパの下の黒い薄い服といい、まっとうでは有り得ない。

 もうひとりは、こっちは白人ペーリンと言うほど肌は白くはないし、背中に達する伸ばした髪も目も黒いが、やはりどう見てもチベット人ポパでは有り得ない。もしかしたら、これも話しに聞くインドヤカル、いや中国ヤナクの人間かもしれないが、だとしても、ケシュカルを担いで軽々と崖を登ってくるのは人間離れしている。それに、背中に背負ってるあの鉄の棒。あれは、都の軍隊が持ってる『殺し棒』ライフルに違いない。服も、白人ペーリンの『悪霊』以上に奇天烈な、真っ黒な、妙な形をした襟の、襟や袖に白い三本線の入った、見たこともない服。恥ずかしげも無く足を出しているのも、いかにも『悪霊』的だ。

「ねえったら。教えてちょうだい。今日は何年の、何月何日?」

 ぽかんと口を開けて二人の『悪霊』を交互に見ていた男に、金髪の『悪霊』が重ねて聞いた。

「きょ、今日は、えっと、今年は確か第16ラプチュンの火鼠年の、7月?いや6月だったか?」

 普段、あまり暦に頼らない生活をしている男は、金髪の『悪霊』の質問にしどろもどろに答える。もしかしたら、この問答から何かしらの『呪い』をかけられるかも知れない、などと怯えながら。

「……ダメね。さっぱりわからないわ」

 肩をすぼめて、金髪の『悪霊』はため息をついた。


「さっきの、この土地の年号?」

 黒髪の方の『悪霊』が、金髪の『悪霊』に尋ねる。

「西暦に変換、出来ない?」

「無理ね。さすがのあたしでも、聞いたことのない暦はどうにもならないわ。第一」

 金髪の『悪霊』は、黒髪の『悪霊』から男に視線を戻して、言葉を続ける。

「年もそうだけど、月日があやふやじゃ、意味ないもの」

 言って、『悪霊』は頭を掻く。

「仕方ないわね、じゃあ、あなた、誰かそこんとこがきっちり分かる人の居るところまで、案内してくれない?」

 有無を言わせぬ口ぶりで、金髪の『悪霊』は男にそう『お願い』する。

「え?」

 これまた思いも寄らぬ頼み事を『悪霊』に持ちかけられ、男は困惑する。

 暦のわかる人のところに連れて行け、この『悪霊』はそう言ったのか?男は、自問自答する。暦が分かると言えばラマ僧だろうけど、そしたらつまり、寺院に『悪霊』を連れて行くって事か?

「冗談じゃない!」

 男は、右手に持ったままだった鉈を強く握りしめると、中腰になって、鉈を『悪霊』に向けて突き出す。

「お、おまえらみたいな『悪霊』を連れて寺院に、街になんて行けるもんか!」

 そのまま、男はじりじりと後じさる。

「そ、そうだ、寺院!お前らのことを寺院に教えて、ラマに祓ってもらおう!そうだ、それがいい!」

 吐き捨てるようにそう言うと、男は、踵を返して脱兎のごとく走り始める。

「あ!ちょっと!ちょ……」

 黒髪の『悪霊』は、その後ろ姿に声をかけたが、男は振り向くそぶりすら見せず、走り去る。

「……お~い……行っちゃった……」

「……まあ、状況からして無理もないかと思いますが……」

「……ですよね~……」

 金髪の『悪霊』の胸元から聞こえた、姿の見えない男の『悪霊』の呟きに、黒髪の『悪霊』が力なく同意した。


「ですよね~、じゃないわよ!どうすんのよこれから!情報源に逃げられて!食料も水も無しで!次の日蝕がいつだかも分からなくて!」

「……新月なら七日後よ」

 怒鳴り散らす『金髪の悪霊』ことユモ・タンカ・ツマンスカヤに、『黒髪の悪霊』こと滝波雪風たきなみ ゆきかぜがのほほんと切り返す。

「ああ、そう言えば、ユキカゼさんは月齢がお分かりになる種族でしたね」

 ユモの胸元から、『姿なき悪霊』ことエマノン・ニーマントの声がする。

「そうよお。っても、そこが日蝕って保証は無いけど」

「問題はそこよ」

 ひとしきり怒鳴って憂さが晴れたのか、落ち着きを取りもどした声でユモが話に割って入る。

「ひと月後ならもちろん、それが七日後だって、水も食料も無しじゃどうにもならないわ。それまで寝泊まりする場所だって確保しなきゃだし」

「この人だって、このままって訳にはいかないでしょうし、ね」

 雪風が、足下に倒れ伏す少年、ケシュカルを見下ろして言う。

「もちろんよ……とりあえず、とにかく傷の手当てはしないと。ユキ、三角巾」

「はいよ」

 これまでの幾度かの『時空跳躍タイムリープ』――彼女達は、自分達が遭遇するその現象をそう呼ぶようになっていた――の過程で手に入れ、互いの腰につけている雑嚢――雪風は『ダンプポーチ』と呼んでいる――から、雪風は三角形の布きれを取り出し、ユモに渡す。何の事はない、ただの木綿を切っただけの物だが、包帯などというシャレたものが手に入らない以上、何かにつけ三角巾は非常に重宝するアイテムであった。

「アテー マルクト……」

 受け取った三角巾に、腰につけた弾薬盒パトローネンタッシェの中の小瓶の聖水を1、2滴垂らし、ユモは銃剣バヨネットを手に呪文を唱える。

「至高の御名において、父と子と精霊の御名において……」

 呪文に併せて銃剣バヨネットでユモは三角巾を撫で、聖別する。十字をきってまじないに区切りをつけると、跪いたユモはその三角巾をケシュカルの、鉈で斬りつけられた左腕に巻き付ける。

 巻き付けようとして、一瞬何かに気付いて少しだけ怪訝な顔をしたユモは、ユキを見上げる。以心伝心、ユモの言わんとする事を察した雪風は、黙ったまま一度だけ頷く。

 雪風に頷き返し、小さくため息をついたユモは、圧迫止血の要領で三角巾を傷に巻き付けた。


「で?実際問題この後どうするのよ?」

 三角巾の端を縛りながら、ユモは雪風を見ずに訪ねる。

「どっち行けば良いか、見当つくの?」

「それな。ぶっちゃけ、さっきの人が逃げてった方向に街がある、って事だと思う、ざっくりだけどね」

「なるほど、理屈ですな。しかし……」

 雪風の答えに、ニーマントは同意しつつ、疑問を呈する。

「……寺院、というのが気になりますね」

「それよ」

 立ち上がって雪風に向き直りつつ、ユモが言う。

「まあ、どうやらアジア地域らしいから、教会キルシェって事はないだろうけどさ。ユキ、何か知ってる?」

「って言われてもさあ。ここがどこでいつ頃かわかんないし。仏教かヒンドゥーかイスラムか……密教って仏教だっけ?」

「知らないわよ、何、アジアってそんな複雑?」

「ヨーロッパだってキリスト教にユダヤ教にイスラムに……あ、でも全部元は同じなの、か?」

「確かにその三つは全部ヤーヴェに繋がるけど、ってそうじゃなくて!教会キルシェでも寺院テンペルでも、それが街にあって、回状でも廻ってたらまずくない?」

「ああ、それは少々やっかいですね」

「でしょ?この子も目を醒まさないからほっておく訳にもいかないし……ユキ?聞いてる?」

 相槌を打ったニーマントに答えつつ、ユモは、雪風がいつの間にか背後の丘の稜線を見つめていることに気付き、声をかけた。

「何か、気になることでも?」

 ニーマントも、言葉を重ねる。

「……うん、ちょっと、ね」

 稜線を見つめたまま、雪風が呟くように答える。

「ちょっと、面倒になるかなって」


「……気付かれましたか?」

 官給品の6×30双眼鏡を目から離して、ペーター・メークヴーディヒリーベ一般親衛隊アルゲマイネ エスエス少尉は呟いた。

「まさか。300mは離れてます。肉眼で発見されるとは……あ」

 ペーター少尉よりかなり年上の、少尉の参謀役兼護衛の曹長が、こちらは双眼鏡から目を離さずに答えて、そして何かに気付き、言葉を切った。

「……手を、振ってます?」

 再び双眼鏡を目に当てたペーター少尉は、レンズ越しの光景、5シュトリヒほどの大きさの、恐らくは黒い服を着た少女の怪訝な動きを、見たままにそう形容した。

「こっちに来い、と言っているように思えます」

 再び双眼鏡を目から離したペーター少尉は、少女の動き、こちらに向けて最初は大きく頭上で手を振り、続けてその両手をあおり上げるように数回、体の前から頭上に振り上げた動きについての感想を、今度は傍らに臥せる曹長を見ながら、言った。

「確かにそうかも知れませんが……しかし」

 実戦経験のある曹長は、ペーター少尉の意見に納得しつつも、しかし自分の経験に照らして、この距離ならよほどのヘマをしない限り肉眼ではまず発見されないはずだと思い、同意しきれない。

「よろしい。行きましょう。いずれにしろ、話を聞かないわけには行かないのです」

 意を決し、丘陵の稜線に身を隠して伏せていたペーター少尉は、立ち上がって制服の埃をはたく。

「今、この地には、我々以外の外国人は居ないはず。彼女たちが何者で、どこから来たか、確認しないわけにはいきません……行きましょう、曹長」

了解ですヤボール少尉殿ヘル ウンターシュトゥルムフューラー

 ペーター少尉の請願という命令に間髪入れず答えた曹長は、一挙動で立ち上がると、稜線のさらに後方に控える兵士数名に手を振り、呼び寄せた。

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