言葉の代わりに


 暖かくてふかふかの何かに包まれるようで、どうにも心地が良い。

 何かしら。

 ベッド?

 いいえ、ベッドがこんなにふかふかなはずはないわ。


 ベッドってもっと固くて、冷たくて、消毒の匂いがして──……。

 ん?

 違う。

 それはじゃない──。


 そのことに気づいた私は、ゆっくりと重たい瞼をこじ開けた。

 光の線が大きく広がって、私の目の前に映ったのはクリーム色の壁紙だった。


「ん……ここ……」

「奥様!!」

 ぼんやりとした視界に悲鳴に近い声をあげ入ってきたのは、30代後半か40代ほどの心配そうな顔をした女性。


「マゼ、ラ……?」

「よかった……ご無事で……!!」

 ほっそりとした両手で顔を覆って安堵の涙を流すマゼラに戸惑いながらも、私はゆっくりと気だるい身体を起こした。


「はっ、いけません、まだ寝ていなくては……」

「大丈夫よ。少しぼーっとするけれど、不調はないわ。それよりマゼラ、あの少年は?」

 私が湖から引きあげたあの子は、無事だろうか?


 私が尋ねると、マゼラはすぐそばの椅子に腰掛けていたらしい少年を私の前に差し出した。

「生きています……!! あなた様のおかげで……!! レイを助けてくださって、ありがとうございます、奥様……!!」


 よかった。

 イメトレやドラマや漫画の知識も捨てたもんじゃないわね。

 紫色だった唇も血色のいいものに変わっているし、見たところ怪我もなさそう。


「レイ、と言うの? 私はメレディアよ。無事でよかったわ」

 安心させるようにできるかぎり穏やかな声色でそう言うも、彼は暗い表情で視線を逸らすのみ。

 初対面で嫌われた……!?


「あ、あぁ、申し訳ありません。レイは生まれつき耳が聞こえないのです。いつも筆談で意思疎通をしておりまして……」

 生まれつき耳が聞こえない?

 ──前世の私と同じだ。

 するとマゼラはエプロンのポケットからメモとペンを取り出し、何かを書いてからレイに手渡した。


 そうか。

 この世界では手話というものがないのよね。

 私も手話ができない人相手には筆談をしていたっけ。


 レイは手渡されたメモを見てから難しい顔で何かを考えてから、やがてゆっくりとペンを動かし始めた。

 書き終わったメモはマゼラではなく、私へと直接渡される。

 マゼラには、見せたくない?


 私は渡されたメモを見て、言葉を失った。


『何で俺を助けたの? 俺は死にたかったのに』


 彼は湖にんじゃない。

 自ら湖にんだ──。

 焦点の合わない虚なライトブラウンの瞳。

 その光の灯っていない目に、私は覚えがあった。


「マゼラ。少しレイと2人にさせてくれるかしら?」

「え? で、ですがお身体が……」

「私なら大丈夫。それに、すぐにお話を終わらせてレイも休ませるから、安心して」


 無表情の女性と生気の伴わない目でそれを見る少年。

 2人にするのは不安だっただろうが、マゼラは小さく頷くと、レイの肩にそっと手を置いてから部屋から出て行った。


 静まり返る室内。

 音のない世界で生きる彼にとっても、前世の私にとっても、それはただ日常で、心地の悪いようなものではない。

 それが普通の状態だったのだから。


 私はメモに言葉を紡ぎ出してから、彼に差し出す。


『なぜ自殺なんて?』

『俺は邪魔者だから』

『なぜ邪魔なの?』

『耳が聞こえない俺は母さんのお荷物だ』

『貴方のお母さんは、貴方のことをお荷物だなんて言ったの?』

『言ってない。でもきっとそう思ってる。今はそうじゃなくても、そう思う日は絶対にやってくる。俺なんていなくなればいいんだ』


 メモが短い時間で行ったり来たりを繰り返す。

 改めて手話の便利さを思い知る。


 なるほど、レイの言っていること、よくわかる。

 私と──前世の私と同じだわ。


 何で自分だけ耳が聞こえないの?

 耳が聞こえない私は、これからどう生きていけばいいの?

 これからずっと、私はお父さんとお母さんの手を借りながら生きていかなくちゃいけないの?

 お父さんとお母さんに迷惑をかけたくないのに……。


 そして私の目からも、光が消えた時期があったのだ。


 何もかもが嫌になって、自分を消去してしまいたいと思ったこともあった。

 そんなある日、父母は私に一枚のメモを渡したのだ。


『お前が生まれてきてくれただけで、幸せだよ』

 ただ一行書かれたそれは、私は死ぬ間際まで握りしめていたと記憶している。


 そのメモを渡されてから、私は手話という交流手段を学んだ。

 そして私は、手話の先生になろうという目標を得たのだ。

 まぁ、なる前に病気で命を落としてしまったのだけれど……。


 きっとレイのお父様とお母様も同じ。

 だって、まだ手話も、もっと言えば筆談という手すらあまり知られていないこの世界で、彼に文字を教え、交流の手段を与え、世界を広げてあげているのだもの。


『あなたの筆談という交流手段は、誰が教えてくれたの? あなたに字を教えてくれたのは誰? ご両親ではないの? 耳の聞こえない人に字を教えるということは簡単なことではないわ。それをきっちりと教え、あなたに世界を与えてくれたのは、あなたにこの先も前を向いて生きて欲しいからだとは思えないかしら?』


 私がそれを書いて彼に差し出せば、ライトブラウンの瞳が大きく見開かれ、僅かに光が灯ったように見えた。

 私はさらにこう付け足す。


『もう少し、世界を広げてみる気はない?』

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