イメージトレーニングの成果
さて、何をしよう。
とても美味しい朝食をいただいた私は、一人、与えられた部屋で窓辺に佇み、腕を組みながら窓から空を見上げる。
澄み渡った雲ひとつない穏やかな空に、鳥の群れが北のほうへと飛んでいくのを見て、私はふと昨日旦那になったばかりの男性を思った。
どうか無事に、北の村に辿り着きますように。
……それにしても……。
暇だ。
実家から本をたくさん持ってきたは良いけれど、既に何度も読んだものばかり。
普通の令嬢ならばここで「そうだわ!! お友達を呼んで庭でお茶会でもしましょう!! うふふ!!」となるのだろうけれど、私は間違ってもそんな気は起こさない。
うるさいの苦手だし。
友達いないし。
極力静かにおとなしくしてるという制約もあるし。
友達いないし。
大事なことなので二度、いや、三度言います。
友達、いないし。
うるさいのは嫌いだ。
でもだからといって人間が嫌いなわけではない。
むしろ前世では耳が聞こえなかったせいでなかなか他人と馴染めなかったり、病に臥せってからは寝たきりで入院生活を送っていたせいで友達がいなかったので、今世こそは友達1人は欲しいとは思っている。
だけど【ゲロ令嬢】【鉄仮面令嬢】なんてあだ名がつけられている私に近づこうなんて輩(やから)、誰1人としていなかった。
好きで鉄仮面なんじゃないわ。
感情が表に出にくいだけで。
肩に力が入っちゃうだけで。
引きこもりすぎて他人との接し方がわからないだけで。
友達100人できるかな、じゃなくていい。
そんな贅沢は言わないし、むしろそんなにいたらうるさいからいらない。
でも、今世では友達1人でもいいから、できるといいなとは思うのだ。
そんなことを思いながらふと窓から下の方を見てみると──。
「? あの子……」
少年が1人ポツンと、湖の辺りにある木の下で膝を抱えている。
ベゼル公爵家の敷地内、よね?
誰だろう、あの少年。
……はっ……!!
まさか……まさか旦那様の隠し子!?
ありうるわ……。
うぶの気(け)があるとはいえ、旦那様は御歳25歳の健全な成人男性だ。
そしてあそこでぼっちしてる少年は10歳かそこらのようにも見えるし、15歳で子ども……うん、ありえないことはない。
え、じゃぁどこかにあの子のお母様──愛人様も囲っているのかしら?
も、もしかして私ってお邪魔!?
旦那様と愛人様は真実の愛で結ばれていて、何らかの理由で婚姻関係を結ぶことができなかった。
だから愛人としてどこか離れででも囲っていて、使用人の皆はそれを知っているから、ぽっと出で結婚してしまった私にあんな嫌悪感を──?
あり得る……。
あり得るわ。
前世で何度もそんなお話を読んだもの。
でも結婚してしまったものは仕方がない。
私、愛人様を虐げるようなことはしないわ。
むしろ私の方が離れに行ってもいい。
そうだ、そう提案してみましょう。
そうと決まれば、あの少年を懐柔──いえ、仲良くなって……って……。
「!?」
私が思考の海から浮上し再度少年の方へと視線を落としてみれば、少年はいなくなっていた。
そして代わりに湖の辺りには靴がそろえて置いてあり、岸からすぐの湖には大きな波紋とともに泡がぷくぷくと上がっていた。
まさか……!!
考えるより先に、私は走っていた。
嘘でしょう!?
冗談よね!?
沈むとか、ないわよね!?
でもあの状況。
自ら湖に飛び込んだかのような……。
最悪の事態を想像してブンブンと顔を左右に振って、私は一階に降りて湖のすぐそばの部屋の窓から飛び出した──!!
「奥様!?」
途中マゼラの驚く声が聞こえたけれど今はそんなのどうでもいい。
はしたない行いだとか、人の命の前では意味はないのだから。
ぷくぷくぷくぷく──……。
どんどん上がってくる気泡が小さくなっていく。
まずい……。
私は羽織っていたショールをその場に脱ぎ捨てると、大きく肺いっぱいに息を吸い込み、ドボンと大きな音と飛沫をあげて、湖の中へと飛び込んだ──!!
「っ……」
温かい季節とはいえ、湖の中はひんやりとしていて、私の体温を容赦なく奪っていく。
緑がかった水は透明度もあり、視界ははっきりとして見える。
私は前世で、イメージトレーニングで培った泳ぎで頭を下の方へと向けると一気に底の方へと下降していった。
どこ?
え、まさか私の早とちりだったり……?
私、飛び込み損?
焦りながらも底をぐるりと見回すと、小さく何かが光ったのが見えた──。
いた──!!
少年の首からふわりと水中を漂う小さな銀のネックレス。
私はすぐにそこ目掛けて、必死で両手で水を掻いた。
水の抵抗を切るように。
重たい腕を懸命に動かす。
そして少年の身体を片手でホールドすると、すぐに向きを変え、微かに差し込む光の元を目指して、反対の手でまた水を掻く。
あ……だめだ。
苦しい。
やっぱりイメージトレーニングと実践とじゃ訳が違うわ……。
少しずつ。
少しずつ光が近くなる。
だけどそれと同様に私の酸素量の限界も近くなっている。
ここまで……なの……?
あと少しで私の手が水面に出る。
そんな時、私の脳裏に浮かんだのは、黒の
お父……さん……。
お母……さん……。
今世での父母ではない。
前世の父母の、私が死ぬ前に見た2人の最後の顔だ。
もう、お父さんとお母さんに、あんな顔をさせるのは嫌だ──!!
私は、生きる──!!
火事場の馬鹿力とはこのことだ。
私は遠のきそうな意識を再浮上させると、一気に水をかき分け──「ぷはぁぁっ!!」──湖の牢獄からの脱獄に成功したのだった──。
「奥様!! ──!! レイ!? レイ!!」
「はぁっ……はぁっ。マゼ、ラ……」
荒く呼吸を繰りかえしながらも岸へと少年を上げると、私は彼の胸へと耳を当てた。
小さくも早いリズムを刻みながら音を奏でる少年の心臓。
「生きて、る……!! でも、呼吸ができてない……!!」
「そんな……!! レイ……!!」
レイ、と言うのか。
この少年は。
このままじゃ死んでしまうのも時間の問題。
迷ってる暇はない。
ドラマや漫画の見様見真似だけど……!!
私は気をしっかりと持ち直すと、まだ息も整いきらないままに先ほど耳を当てていた場所へ両手を重ねて置き、強く押した。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10!!」
ごめん、少年!!
「ふぅーーーーーーっ!!」
「奥様何を!?」
私は少年の顔を少しばかり上を向かせ気道を確保し、青くなった唇へとそばに脱ぎ捨てていた薄いショールを被せると、その上から私のそれを重ね、一気に空気を送り込んだ。
大丈夫。
ショール越しだからノーカンよ!!
だから安心して息を吹き返しなさい!!
「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10!! ふぅーーーーーーーーーっ!! 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10!! ふぅーーーーーーーーーっ!!」
「奥様!?」
「レイ!? レイじゃないか!!」
人工呼吸と心臓マッサージを繰り返しているうちに、屋敷の中から騒ぎを聞きつけた使用人たちが駆けつける。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10!! ふぅーーーーーーーーーっ!! 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10!! ふぅーーーーーーーーーっ!!」
数回繰り返すと、少年の瞼がわずかに揺れ、そして──。
「ゲホッゲホッ……!!」
「レイ!?」
少年は咳き込みながら水を吐き出したのだ……!!
よかった……!!
もう大丈夫だわ。
ゆっくりと開かれたライトブラウンの瞳が、私の顔を映し出す。
「大丈夫?」
「……」
私が尋ねるも、荒い呼吸を繰り返しながらぼんやりと私を見上げるだけで、言葉を発することがない。
も、もしかしてまだ何か……。
「レイ……!! よかった……。よかった……!!」
私がどうしたものかと考え始めた刹那、私のそばを横切ってマゼラがレイを抱きしめた。
涙を浮かべたその横顔が、私がさっき思い出した父母と重なった。
マゼラにとっての、大切な子、なのね。
父母とは違う、安堵と喜びの涙だわ。
あぁ、やっぱり、病室のベッドの上でイメトレしててよかったわ。
そこまで考えてから、私の意識は、ぷつりと途絶えた──。
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