人恋茶屋へいらっしゃい

若月 はるか

人恋茶屋へいらっしゃい

一 人恋茶屋


 見上げる木造建築は、相当古いものなのだろう――飴色に黒ずんだ素材が、時間と言うよりも歴史と呼ぶにふさわしい流れを感じさせた。模様ガラスの入った引き戸の上に、もはやどこになにが書いてあるのかわからないほど、建物の素材同様に黒ずんだ看板が一枚。よくよく目を凝らせば、読みとれるのは墨書きの文字。四つの漢字の並びは、近年の教育を受けたものならしばし戸惑う――右から左へと読むのだ。

 ――人恋茶屋ひとこいちゃや

 本来なら、辿り着こうとしても辿り着けないはずの場所。



「お久しぶりですね。おみいさん」

 軋むだろう事を覚悟して手をかけた引き戸は、思いの外に軽かった。アルミサッシよりむしろ軽いと思える手ごたえを覚えながら、思い切って引き開けると、耳に飛び込むのは懐かしい声。

「十年ぶりくらいでしょうか? あ、今は……」

 けして嫌味なわけではなく、それでも言葉を切ったのは、こちらの発するだろう言葉をあらかじめ知っているからなのだろう。

「みいでいいよ。ルナ君は、元気?」

 心持ち顔をあお向けて問いかけるのは、目の前の彼の背が高いがため。しばらく調髪してないらしい、中途半端に伸びてところどころ毛先の跳ねる不揃いな黒髪。着慣らしてやわらかくなった白いワイシャツと、緩められたくたびれたネクタイ。同じように碌にアイロンもあたっていないだろうボトムは、それでも身につけたものの中で、唯一、皺ひとつない裾の長い白衣と、奇妙に調和して見えた。そして、黒縁眼鏡の奥の――草を食むふわふわの偶蹄目をつい連想させ得るおっとりと人好きのする視線は、彼を眼前にしたものに、暖かく穏やかな午後の陽射しに似た安堵を与えてくれていた。

「えぇ、元気ですよ。マスターのところへお使いに行ってもらっていますけど、きっとすぐに戻ってくるでしょう」

 彼と同居する助手の名を口にすると、実ににこやかな応えが返る。彼は、彼以外の人物が彼の同居人に気を配ることを殊のほか喜ぶ節がある。それは、どこか親バカじみて見えもするのだが――非常に微笑ましい範囲なので、むしろその様を見るためにルナの名を口にするのも悪い気はしない。

「お茶を入れましょう。どうぞ、かけてお待ちくださいな」

 古道具屋然とした、あやしげな瓶や置き物の並ぶ壁際の棚――背の高いそれと建物自体の古さとの相乗効果だろう、薄暗く思える店内の奥、ほの白く感じるほどに明るい一角。そこが、この古道具屋としか思えない店が「茶屋」の名を持つ由来――擦りガラス越しの陽の光の中に、真っ白いテーブルセット。

「テラが入れてくれるんだ?」

 さらに奥の厨房へ消えようとする店主の背に投げかけると、返ってくるのは苦笑まじりの声。

「ルナほど、上手には入れられませんから、その辺はご容赦くださいね」



 白いテーブルに、白いレースのテーブルクロス。真ん中には、白地に淡い花模様の入った、それでも空のままの一輪挿しの花瓶。大きなすりガラスの窓からは、外光が白々と差し込んでいて、いっそ圧倒されるほどの白さに、店の薄暗さに慣れかけていた意識は、上下の感覚どころか奥行さえ不確かな夢の中にでも放り込まれたかのようにくらくらとさえする。

「『おみいさん』……」

 ひどく懐かしい名前。そう、最後にここを訪れた時には、まだその名を名乗っていた。もっとも、彼らの様子はわかっても――彼らもそれをわかっていても――直接ここを訪ねたのは、そのときが初めてで最後でもあったわけだが。

「その名前だって、呼ばれるに値するものだか……」

 もれるため息は、聞く者が聞けば、自虐と採られかねなかったかもしれない。とりあえずは、店主=テラがそこにいなかったのは、幸いだろう。いや、彼がいたなら、そんなため息などつくつもりはなかったろうが……。

 ――人恋茶屋。

 そこは、自分に戻る店。

 自分自身を見つめる店――。

 つまりは、必要としない者は、訪れることのない店。

 そういうこと……。

 不意に訪れる自覚は、きっともうわかっていて忘れようとしていたこと。そうでなければ、それを忘れてしまうほどに、思考が疲れ切っているのだと言わねばなるまい。

「お待たせいたしました」

 程なく、白いティーセットの乗ったトレイを手に、現れたテラは――そう考えると、善良そうな顔をしつつもなかなかの食わせ者だとも言える。

「さぁ、人恋紅茶をどうぞ」

 こぽこぽこぽ……。

 白い湯気と軽やかな音さえたてながら注がれるのは、白い茶器に見事に赤く映える、香り高いお茶。店主の呼ばわったお茶の名は、人恋紅茶。色、香り、そして味――経験の有無を問わず、不思議と誰もが懐かしさを感じる紅茶。

「入れますか?」

 差し出される、花飾りの乗った角砂糖。

「ピンクの花のでお願いします」

「はい」

 紅茶の面に落とせば、ピンクの花を残してさらりと溶ける角砂糖。そんなふうに、胸にわだかまるものが溶けて消えてくれるならどれほど楽になるだろう――思って、その思いに苦笑がもれる。やはり、そこまで思うほどに自分は疲れているのらしい。

「テラ」

「はい?」

 こぽこぽ……。

 自分のお茶を入れる店主の名を呼ぶと、返ってくるのは軽やかな疑問符。いくらか白々しくさえ思えたのは、これから発せられるであろう言葉を彼が知っている証拠だろう。

「しばらく、こっちにいてもいいかな?」

 反らしたい視線を耐えてテラの顔を見上げつつ、拒否されるのを覚悟の上で訴える――控えめな希望。それでも、できればかなり切実な希望。

 元来、ここは、長居をしてよい場所ではない。それは誰よりも、店主のテラよりも――自分自身が一番よく知っている。そこに長居を希望するということは、世を儚んでしまいたがっているのだと採られてもしかたのないことも。――決してそういうつもりでいるわけではないのだが……。

「おみいさんが、必要と思うなら構いませんよ」

 希望を述べながらも、てっきり反対されると思っていただけに、テラの返事はずいぶん拍子抜けに感じたが、そう感じること事態が、やはり自身の疲弊の証明だろう。ことこの店主において、客の願いなどお見通しであることを、忘れていたということなのだから。

「今のおみいさんには、この場所が必要なのでしょう?」

 すっかり理解されてしまっている――にこやかに投げ返されるのは、自分の欲しかった言葉。

「たまには、少し休むことも必要ですよ。おみいさん、頑張ったのでしょう?」

 だから、ほっと安堵するとともに、口にしていたのは謝罪の言葉。

「ごめん、テラ。そのうち、ちゃんと話すから……」

「えぇ、ごゆっくりどうぞ。おみいさんが、理由を話してくれた時が、おみいさんがここから帰って行く時だと思っておきますね」

 ありがとう――感謝の言葉は、声になっていたかはわからない。

 それでも、ちゃんと届いたのだろう。

 いいえ……テラは静かに微笑んで返してくれたから。





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