第5話高木文。1989
あたしの名前は
文と書いてあやと読む。
周りに人は、ほとんどが『たかぎふみ』と読むからちょっと嫌な思いもするときがある。
父親がいなくて母子家庭。
でもお母さんは一生懸命働いて、あたしを育ててくれている。
あたしもそれがわかっているから、お手伝いもするし、ぜいたくな物もねだったりもしない。
だけど、クラスで流行っているサッカー漫画を見て、『あたしもやってみたい!』と思うようになったんだ。
記憶にある限り、初めてお母さんにお願いした。
「お母さん、お願い。サッカーやらせて!」
お母さんは、ニコっと笑うと、
「あなたにもやってみたいことができたのね」
と嬉しそうに言った。
こうして小学校4年生から、あたしはサッカーを始めた。
もともと運動はあんまり得意じゃないけど、4年生が終わるころにはリフティングは10回はできるようになった。
足の甲、内側、そして太ももを使って。
頭でやるのはあんまりできない。おかげでヘディングは上達しなかった。
試合には出してもらえるけど、それは、サッカー少年団の自分の学年が人数ギリギリしかいなかったからだ。
だれか、新人が入ってきたらあたしは、いの一番にレギュラーを外されるだろう。
そういう意味では『少年団に入れるのは4年生だけ』というルールは有難かった。
だけども、それは2年間で終わった。
千反田大治という天才サッカー少年が、特例で入ってきたからだ。
彼は、うまい。うますぎる。
監督やコーチも見たこともないフェイントを繰り出して、大人も止めることができない。
試しにたずねてみたことがある。
「大治くんってリフティング何回できるの?」
そうしたら大治くんはこう答えた。
『日が暮れるか、疲れてぶっ倒れるまで……かな』
それにあたしはおったまげた。
あたしはまだリフティングは15回で止まっていた。
それが、彼ときたら……
次元が違った。
男の子はまだいい。
実業団があるから、おとなになってもサッカーを続けられる。
でも、女の子はどうだろう。
サッカーを続けていても、いつかは辞めるときが必ず来る。
自分の才能のなさに絶望する。
「大治くんみたいにうまかったら、悩むこともないのかなあ」
練習に行きたくなくなった。
レギュラーから外されるのは自分に決まっている。
実際、次の週から練習に行かなくなった。
月曜日に学校に行くと『なんで練習来なかったの?』と男の子がたずねてきた。
「体調が悪かったから……」
そう答えた。
ウソだ。
次の週も練習を休んだ。
そうしたら、今度は大治くんがたずねてきた。
『サッカー好きじゃないの?』
「あたしは……大治くんみたくうまくないから、面白くないよ、辞めたいよ!!!」
そう言ってしまったら、大治くんはあたしの手を握ってグラウンドまで連れて行った。
『サッカーは楽しいんだ。サッカーをプレーすることで面白くないなんてことがあっちゃいけないんだよ』
普段はあんまりおしゃべりじゃない彼はそう言って、目の前でリフティングをはじめた。
あたしみたいに、足の甲や太ももだけじゃなく、頭や肩、そしてかかとを使って。
そして、
『やってごらん』
と優し気に言うんだ。
大治くんのあとにやるのは緊張する。
だけど、失敗しても大治くんはまるで年上のように優しく、やり方を教えてくれた。
なんど失敗してもぜったい怒らなかった。
お母さんはたまに怒るけど、大治くんはぜったい怒らない。
大治くんは普段は、大人っぽいだけの無口な小学生だ。
だけども、そこにサッカーがかかわると別人のようになる。
『俺が何度でもいっしょに付き合うから。辞めるなんて言うなよ』
あたしがサッカーを辞めることを本気で悲しんでくれた。
補助輪なしの自転車の練習を何度も何度もしてくれたお父さんを思い出した。
まるでお父さんがサッカー好きとして生き返ったみたいだ、と思った。
夏休みが始まろうとしている。
あたしはリフティングが100回以上できるようになった。
ポジションも右サイドバックから、フォワードになった。
あたしはボールを蹴る。
シューンと白黒のボールは飛んでいき、真っ白なネットに吸い込まれる。
はじめて、ゴールした!
保護者席を見ると、お母さんがハンカチを目に当てていた。
「もう、やめてよね、お母さん! たった1ゴールしただけなんだから!」
たった1ゴール?
そう言ってしまう自分に驚いた。
結局、あたしは大治くんとともに、全国大会で優勝した。
あたしはそれまでに12ゴール決めた。
大治くんはひとりで100ゴール以上決めたらしい。
らしいというのは、多すぎてチームメートのだれもが覚えきれないからだ。
大治くんはすごい。
たぶんこういう人が全日本に入るんだろうな、と思った。
あたしが進学する中学に、女子サッカー部はない。
男子サッカー部もマネージャー枠があるかどうかは確かめてない。
だけども、たぶん、あたしは一生サッカーにかかわっていくと思う。
そう大治くんに告げたら、彼は、
『俺もおまえも、サッカー好きで良かった』
と言った。
それを聴くと、身体中に電流が流れたみたいになった。
大治くんと同じものを好きになれて、良かったと心から感じた。
なぜだが、食欲が落ちて、お母さんに心配された。
でも、たぶんおそらくそれは……
ううん、口に出すのはやめておこう。
大治くんが言ってたんだ。
『イタリアでは、夢は口に出すと叶わなくなるって言われてる』
って。
だから、もうちょっとだけ、心の底にしまっておこう。
もうちょっと、彼に私が見合うようになるまで。
それまで……
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