第44話 裏切り

 夏休みもあと1週間と少し。まだまだ夏の暑さも絶好調だが彼女は長袖を着るようになった。あれから何日か経ったが、塾がある日には彼女は必ず帰りの電車で別れてから「ストーカーがいる」と俺にメッセージを寄越した。俺はその度に電車を折り返して彼女の待つ駅まで会いに行って、周りに怪しい奴がいないか見渡してから彼女を見送る。震えて、日によっては涙目にすらなっている彼女とは対照的に俺の方はもはや流れ作業になっていた。実際にストーカーがいるとはもう思っていないが、絶対にいないとも思えず、またそれに関わらず彼女自身は怖がって、俺がやってくるのを待っている。他に用事があるわけでもないのでさほどの実害がある訳ではないが俺は文字通り振り回されていた。それに、定期の区画外で改札を出ずに折り返すことへの罪悪感も少なからず積もっていっていた。


「もういないと思う」


「本当に?」


「うん、大丈夫」


 そう言って彼女を電車に乗せて見送って俺はまたホームを移動して帰路についた。彼女に何があるのか、心を病んでいることは間違いないがどうすれば良いか分からない。出来るだけのことはやっているつもりだ。もし自分が原因だったらと思うこともあるが、俺が見放すことは絶対に出来ない。だとすれば、俺は壊れていく彼女を見ていることしか出来ないということになる。


 ある日の夜、彼女から突然電話がかかってきた。


「どうしたんだ、もう日が変わるぞ」


「あのさ、私橋下に」


 嗚咽まじりの彼女の声では、なんと言ったのか聞き取れなかった。


「まってくれ聞こえない。落ち着いて」


 俺が話すのに被せて彼女は何か言っていて、俺はその中に「謝らないと」というのを認めた。


「落ち着いてくれ。ゆっくり言って、怒らないから。一回深呼吸して」


 そう言うと彼女のマイクが一旦オフになり、しばらくしてから声が聞こえてきた。


「橋下の財布から、お金をとったことがある」


「えっなにそれ、いつ?」


 彼女はまたひと呼吸置いたが俺には何時間にも感じられた。冗談を言っているようには思えない。でも彼女がそんなことをするとも全く思えない。


「あの、ふたりでカフェに行ったときに」


 また彼女の言葉が途切れ、今度はマイクはオフにならずに彼女のすすり泣く声が聞こえてきた。それを聞きながら俺の頭は自分の記憶を探り、あの時のことを思い出した。たしか会計をしようとした時、彼女の分も払うと格好をつけて財布を見たらあると思っていた5,000円札がなくて結局割り勘にしたのだった。


「あの5,000円......」


「そう。それで、あのお年玉が帰ってきてから返したの」


「遊園地に行った時か?」


「うん」


 チケットを買う前、鞄から財布を出そうとしたらどこからともなく5,000円札が足元に落ちたのを覚えている。彼女は一度俺の財布から金を盗り、また返してきて、それをまるで手品のように俺が全く気づかない間に行っていたが、今になって突然そのことを伝えてきたのだ。頭の中で状況を整理してみてもその理解には及ばない。それを聞いた俺はどうすれば良い? 正直にそれを謝ってきた彼女を許し、俺に気づかれずにそんな芸当をしてみせたことに対して感心でもすれば良いのか?


「ごめんなさい!」


 5,000円もの金を盗るというそれなりの大罪に関しては俺は怒る権利を充分に有しているだろうがその金は既に返されているし、泣きながら謝ってくる彼女に対してそれは出来なかった。もしくは混乱によってそういった俺の情緒が麻痺してしまったのかもしれない。


「なんで、そんなこと」


 彼女にどんな言葉をかけるべきかを思索する余裕もなく俺は自分の率直な疑問をなげかけていたが、彼女からの返答はなく沈黙が続いた。


「5,000円、何に使ったんだよ。課金か?」


「ううん、違うの! 私......」


 彼女の、単に声の大きいのでない言い方がその重大さを示していた。あくまでも最低限の良識と遵法意識を持っているであろう彼女がいやしくも友達の財布から5,000円も盗るなど滅多にあり得ることではない。彼女がどれだけ奇行を重ねようと、これほど明白な犯罪行為をやってのけるかもしれないなどという心配は今までしたことがなかった。なぜそんなことになったのかの答えを俺は辛抱強く待ったが、彼女はそれを隠すことを選んだ。


「いや、ゲームに課金したの。本当にごめんなさい」


 そう言い終わるやいなや彼女は電話を切ってしまった。その後にメッセージが届くこともない。言わずもがなその日俺は眠りにつくことが出来ず、翌日、いつものように彼女と仲良く一緒に塾に向かうこともはたしてなかった。俺はいつもの時間よりもずっと早く家を出発して、夜も彼女とは別の車両に乗って独りでいそいそと帰るようになったのだ。

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