第42話 転落

彼女を見送ったあとの自分の帰り道。また俺は食い入るように位置共有アプリを見ていた。彼女は駅を降り、住宅街へ入り、やがて自宅へとたどり着いた。ちょうど自分の最寄駅で降りたところだった俺は、壁に手をついてため息をついた。


「よかった......」


超のつく田舎がゆえ周りに人がいないのを良いことに、少し大きな声でひとりそう呟いた。そこから改札に向かう地下階段を降りようとした時、足に何かぶつかった後にカランコロンと少し低い音が響いく。壁の隅に置いてあったエナジードリンクの空きビンを蹴飛ばしたらしい。


「あっ」


転がり落ちるビンに気を取られて下り階段の1段目を踏み外した。そのままバランスを崩して下の方へ倒れ込み、リュックを負った背中と後頭部を階段に強打した。両方の足が高く持ち上がってそのまま横に倒れたかと思ったら、そこから俺の体は丸太のように階段を転げ落ちた。先を行くビンの転がる音がまるで自分の音みたいだった。そのビンの割れる音を聞いた時俺は我に返った。踊り場に差し掛かったところで手を地面に叩きつけて、そこからさらに転げ落ちることからはなんとかまぬがれる。しかし、その手のひらに鋭い痛みが走った。


「ああ、クソ!!!」


倒れたまま地面についた手を持ち上げると、手のひらに張りついた茶色いガラス片が落ちた。やはりそこからは血が出ていて、1センチくらいの切り傷が2つ確認できた。ジンジンとした痛みを感じながらしばらく階段に寝転んだままだったが、やがてその冷たいコンクリートから頭を持ち上げ、段のへり﹅﹅に肘をついてあちこち痛む冷え切った体を起こした。


「痛いな、もう」


後頭部にはこれでもかというほど大きなタンコブが出来ていて、手はさっきとは比べ物にならないほど血まみれになっている。さらにその血が固まっていた。地面を見てみると、俺が作ったのであろう血だまりの血も茶色く変色して固まっている。怪我をしていない方の手でスマホを取り出して時間を確認すると夜の2時を回っていた。


「3時間......」


3時間以上、ここで寝ていたらしかった。そろそろ家に母親が帰るころだ。この時間に帰宅して家に息子がいなかったら大変だ。俺は今度こそ転ばないように慎重に階段を降り切った後、無人の駅構内から家まで走り、自分の部屋に駆け込んで部屋着に着替えた。あとは血の処理だ。服につかなかったのは不幸中の幸いだが、それでも肘まで血まみれだ。


家で部屋着なら、この時間に洗面所にいたとしてもおかしくはないだろうと思い、俺は落ち着いて手を洗い始めた。乾いて固まっていた血はもうあらかた取れていたのですぐ水で流せば綺麗になったが、最初に爪の中に入ってから固まったのであろう血はなかなか取れず、指先は赤いままで見た目にも不潔だった。


爪を使って爪の中の血を取り、その時に爪に入ったのをまた別の爪でこそげとり、ようやく手が綺麗になる。結局部屋に戻るまで母と出くわすことはなく、何事もなく翌日の昼を迎えた。寝起きで下のトイレに降りた時、リビングで何か食べていた母に声をかけられる。


「ねぇアクア、どこか怪我したの?」


「えっなんで?」


「洗面所の排水口のネットに、固まった血がいっぱい絡んでたから」


迂闊だった。いや迂闊すぎた。


「あーごめん。うん、転んだ時にガラスの破片で」


「見せなさい?」


俺が手のひらを見せると母は眉をひそめて「いったぁ」と呟いた。改めて見てみて俺も驚いた。傷は2つだったと記憶していたが、実際は少なくとも4つあったのだ。


「救急箱持ってくるから、それ食べてなさい」


「分かった」


ツナとコーンとトマトとしめじをまとめて醤油バターで炒めたもの、ソーセージ、パンとジャム、そしてポンジュース。食パンを焼いてからスプーンでバター炒めを頬張っていると、母が救急箱を持ってきてくれた後、俺の対面に座って食事を再開した。


「大きい絆創膏もあるから、ちゃんと手当しなさいよ」


「うん」


「あと最近アクアの位置情報見れないんだけど」


「あー、なんか嫌だからオフにした。別に心配しなくて大丈夫だよ」


「怪我してきたのに」


「大したことないから」


食事の終わった母は、「あと食べて良いわよ」と言い残して寝室に戻った。位置情報を確認してみると、彼女は家にいるようだった。


食器を流し台に運んだ後俺はいつものようにまた彼女とオンラインゲームを始めたが、彼女はいつもとは変わっていた。それも悪い方に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る