第28話 歓送迎会

 午後5時15分に終業のチャイムが鳴った。

 僕はパソコンをシャットダウンし、「先に行っています」と矢口補佐に断ってから、佐藤くんとともに歓送迎会の会場である初音屋に向かった。

 初音屋はやや高級な和食の店だ。8千円の飲み放題コースを予約している。

「お金は忘れてないよね?」と僕は佐藤くんに確認した。

「だいじょうぶです」

 彼は大事そうに鞄をかかえている。


 初音屋に着き、「予約していた波野です」と告げた。

 店員が2階宴会場に案内してくれた。畳敷の和室で、13席用意されていた。

 事前に注文しておいたとおり、上座3席、左右に5席ずつ整っている。

 開高課長には上座中央に座ってもらう。その左右は矢口管財係長と橋本庁舎公用車管理係長の席だ。

 僕と佐藤くんは下座に並ぶ。その他は自由席。


 午後5時55分に全員が揃った。

「本日は飲み放題コースとなっております。飲み物メニューの中からお好きなものをご注文してください。皆様、最初はビールでよろしいですか?」と僕は発言した。

 全員がうなずいた。

 店員に瓶ビールを6本持ってくるように頼む。

「それでは、定刻となりましたので、管財課親睦会の歓送迎会を始めさせていただきます。最初に開高課長、ごあいさつをお願いします」

 課長が立ち上がった。

「みなさん、お疲れさまです。私たちは市の財産管理ならびに庁舎と公用車の管理という大切な仕事をになっています。立派にその業務をまっとうしているみなさんに感謝しています。どうもありがとう。

 さて、本日は歓送迎会です。加賀さんは管財係で3年間勤務し、庶務や火災保険業務などで貢献してくれました。小林さんは庁舎管理の各種委託業務などを5年間に渡って担当されました。おふたりとも、ご苦労さまでした。心から御礼申し上げます。

 加賀さんは生活保護課へ、小林さんは保健センターへ異動されました。新しい職場でがんばってください。

 次に、管財課へ本町公民館から来られた石川さん、新入職員の本田さん、歓迎します。私たちは河城市の行政を支えている縁の下の力持ちです。誇りを持って仕事をしていただきたい。よろしくお願いします。

 最後に、管財課のみなさんのご健康とご多幸を祈念して、私のあいさつとさせていただきます」

 課長のあいさつが終わり、集まっている全員が拍手をした。


 僕は皆のコップにビールが注がれるのを待って、声を上げた。

「次に、矢口補佐に乾杯の音頭をお願いします」

「はい。皆様、準備はよろしいでしょうか。だいじょうぶなようですね。それでは、管財課のますますの発展と皆様のご健康を祈って、乾杯したいと思います。乾杯!」

「乾杯!」

 唱和する声とコップがカチンと合わされる音が鳴り響いた。

「それでは、異動者の方々のごあいさつは後ほどしていただくことにして、しばらくの間、ご歓談とご飲食をお楽しみください」


 僕は末席に座り、軽くビールを飲んだ。

 前菜の若竹煮を食べていたら、本田さんがビール瓶を持ってやってきた。

「波野先輩、いつもご指導どうもありがとうございます。飲んでください」

「ああ、ありがとう。でも僕は後でいいよ。上座へ行って、課長と補佐にお酌してきて。上司が先。それが社会人の基本的なマナーだよ」

「むーん。先輩と飲みたいのに」

「後でね」

 本田さんはしぶしぶという感じで上座へ向かった。

「本田さん、ずいぶんと波野さんを慕っているみたいですね」と佐藤くんが言った。

「まあ、僕がメンターだからね。それだけだよ」

「いや、視線が熱っぽかったですよ」

「気のせいだよ」と僕はかわした。

 本当に熱い視線だと思ったが、惑わされてはいけない。彼女は本田家のご令嬢で、市長の座を狙っている野心家だ。僕なんかを相手にしてくれるのは、最初だけにちがいない。


 30分ほど経ち、場がかなりなごんできたのを見計らって、僕は異動した方々にあいさつをしてもらった。

 加賀さんと小林さんが、昨年度までお世話になった旨のお礼といまの職場での苦労を簡単に語った。

 庁舎公用車管理係に配属された石川さんは緊張した面持ちで、慣れない仕事で戸惑っていますが、よろしくお願いします、というようなことを言った。

 新人の本田さんがあいさつする番になった。彼女はまず深々と腰を折った。

 小柄だが、彼女がすっくと立つと、凛々しさが感じられる。皆が注目した。

「新人の本田茜です。1週間ほど仕事をしただけですが、管財課の仕事がいかに重要か、身に染みてわかりました。わたしはこの仕事に邁進していく所存です。皆様、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」

 大きすぎず、小さすぎない声で、落ち着いて彼女はあいさつした。

 僕はびっくりした。新人が所存とかご鞭撻なんて言うのを聞くのは初めてだ。と言うか、僕はそんな言葉をいまだに使ったことがない。

 しかし、本田さんにはその言葉が似合っていた。

 彼女には本当に政治家の資質がありそうだ、と感じた。

「本田さん、プリンセスプライドの社長の妹さんなんですよね。毛並みがちがう」と佐藤くんが言い、僕はうなずいた。

 あの子はちがう世界の住人だ。遠くない将来、市役所のヒラ職員ではなくなり、もっと大きな舞台に立つことになるだろう。


「そろそろ飲んでもらえますよね」

 本田さんが僕に向かってビール瓶を傾けた。僕はコップを空にして、それを受けた。

「僕にも注がせてよ。コップ持ってる?」

「はい」

 彼女が差し出したコップにビールをなみなみと注いだ。

「明日が楽しみです」

「僕は憂鬱だよ。きみたち姉妹は上流階級の人間だ。僕の住まいに来るような人たちじゃない」

「えーっ、そんなことないですよお。わたし、ラーメンが好きな一般庶民です」

「ラーメンが好きなの?」

「はい、大好きです。最近気に入っているのは、河城大勝軒ですね」

「あそこのワンタンメンは絶品だよね」

「そうなんです。先輩、わかっているじゃないですか」

 僕と本田さんはラーメンの話で盛り上がった。


 開会から2時間が経過した。

 橋本補佐があいさつをし、全員で一本締めをして、歓送迎会は終了した。

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