第16話
「ふふっ……江藤さんったら」
撮影終了。
綾乃とルシフェルは高級旅館の脱衣所にいた。
一泊数万円の高級旅館。
綾乃と同室という条件で、ルシフェルも宿泊することになったが、その価格と格式に、学生服姿のルシフェルはかなりの勢いで辞退を申し出たが、
「学校の指示よ?」と規則を前面に出され、
「別なホテルに泊まって、もしものことがあったらどうするの?」と一般常識レベルの指摘をされ、
「宿泊代は会社持ちで、前払いしてあるから」と、費用のことまで持ち出され、
ルシフェルはここにいた。
正直、仕事とはわかっている。
だが、近衛で動く時はそれでも近衛軍の制服―――その中でも、別名“黒服”と呼ばれているものを身につける。
皇室近衛騎士団左翼大隊所属騎士、つまり、魔法騎士を示す黒服は、世界のどこに出ても、いわば恐怖の対象として語られる代物。
それだけに胸を張ってどこでも行ける。
たとえ、こんな高級旅館でも。
それが、付き人まで全員スーツ姿。
綾乃だって高級なブランド服に身を包む中、
学校の制服姿でプロテクターやシールド、スタンブレードをぶら下げたバッグを担ぐ。
そしてあちこちで、
「あれ、ルシフェル・ナナリでしょう?」
「あの有名な?」
……この辺ならまだ耐えられる。
だが、
「やだ。あの子、なんて格好してるの?」
「どこの生徒かしら?一人で泊まるなんて、何かあったのかしら」
「警察に相談した方がいいんじゃなくて?」
と、あからさまな視線に晒されれば、ルシフェルだって勘弁して欲しい。
ルシフェルだって女の子なのだ。
せめて、浴衣になればなんとかなる。
それが、ルシフェルの唯一の希望だ。
「そう」
ルシフェルは制服に皺が寄らないよう、慎重に畳んで脱衣籠に入れていく。
「78ヶ月って、あれは正直、みっともないと思う」
「この歳になればわかりますっ!って」
「わかりたくないことだよね」
「同感です」
小さく微笑みながら、ルシフェルが最後の一枚を脱いだ。
トップアイドル 瀬戸綾乃
単なる護衛 ルシフェル・ナナリ
その立場がその瞬間、逆転した。
傷一つない、白い象牙細工のような美しい肌。
神の存在を信じたくなる(恨みたくなる)ようなため息の出るライン。
脱衣所にいる全員の視線がそのいわば“芸術品”に釘付けになる。
「……」
横にいる綾乃は、何とかルシフェルと距離をとろうと虚しい努力をするが、
「瀬戸さん?早く入らないと風邪引いちゃうよ?」
ぐいっ。
ルシフェルはおかまいなしに綾乃を浴場へと誘う。
「瀬戸さんが落胆していた理由がわかった」
湯に浸かりながら、ルシフェルはイタズラっぽくそう言った。
「え?」
何故か、泣きそうな顔をしていた綾乃が、きょとん。とした顔になった。
「どういうことです?」
「水瀬君が護衛なら、同室していたのは誰かな?」
「お、お姉さま!?」
「ふふっ……綾乃ちゃん、結構積極的なんだね」
「し、しかたないです」
綾乃は憮然とした声で言った。
「既成事実でもなんでも、とにかくライバルを突き放さなくちゃ」
「でもね?」
それは、ルシフェルがずっと疑問に思っていたことだ。
「それでアイドルって、大丈夫なの?」
そう。
綾乃はアイドルなのだ。
「スキャンダルになるんじゃない?学校のクラスマッチで婚約者宣言したのだって、事務所があの手この手でモミ潰したって聞いたよ?」
「そ、それでも……」
綾乃は憮然として言った。
「私は悠理君が好きです。悠理君を失いたくないんです」
「アイドルと水瀬君、どっちか一つって言われたら、どっちとる?」
「え?」
綾乃は質問の意味がわからず、きょとんとした顔でルシフェルを見た。
「水瀬君とってアイドル辞めるか、それともアイドルの地位をとって水瀬君と距離をとるか」
「……水瀬君との恋愛は周囲も公認。お仕事も順調じゃ、ダメですか?」
「結構、都合がいいんだね」
「私、本気でそう思ってますから」
「……一度、何かを掴んだ手で別な物を掴みたければ、その手を離さなければいけない。私はそう教わった」
「私は、その手で両方を掴む方法を考えます」
綾乃は真顔で言った。
「どんなに難しくても、どんなに大変でも。私はそうします」
「成る程ね」
ルシフェルは空を見上げた。
満天の星空。
儚い夢の瞬きが、そこにあった。
「ごめんなさい」
「え?」
「せっかく休んでいる所で、ヘンなこと聞いて」
「い、いえ!」
綾乃は慌てて手を左右に振った。
「そんなことありません。こうしてお姉さまとお話する機会って、あまりないですし」
「そう?」
ルシフェルが体をひねってタオルに手を伸ばす。
「そう……です」
湯から浮き上がるルシフェルの一部に、綾乃の視線が釘付けになった。
綾乃は思う。
本当に欲しいのは悠理君。
それは間違いない。
でも、それと同じくらい、欲しいものが目の前にある。
それが、絶対に手に入らないだろう事も、もうわかってる。
手に入らなければわからないことで、自分がどれほど惨めな思いをしているかも。
本当に、泣きたくなる。
綾乃は唇をかみしめながら思った。
おっぱいって、お湯に浮くんだぁ。
綾乃が心の中で号泣したのはいうまでもない。
風呂上がり。
綾乃とルシフェルは寝具の敷かれた部屋に入る。
ルシフェルが霊刃片手にあちこちを調べ、異常がないことを確認する。
当然、外もだ。
障子を開け、庭に視線を向ける。
問題は、ない。
ルシフェルが障子を閉め、振り返ると、綾乃がお茶を入れていた。
「お茶といってもティーバックですから」
「それでも、誰かにいれてもらうと美味しいよ?」
「それが私でも?」
「友達だもの」
「ふふっ……ありがとうございます……あの……」
「?」
ルシフェルは、一瞬だが、耳を疑った。
綾乃が、
ごめんなさい。
そう言った気がしたのだ。
「瀬戸さん?」
「あ!お姉さま、お茶菓子、いかがです?」
それからしばらく。
綾乃とルシフェルは水瀬をネタに盛り上がっていた。
元来、会話が苦手なルシフェルは聞き手で綾乃が話し手。
綾乃の言葉に相づちをうち、質問されれば答える。
それがルシフェルの立場。
それで会話は成立していた。
問題は―――
「瀬戸さん?」
「え?あ、ごめんなさい」
ちらっ。と障子に視線を向けた綾乃が慌てた様子でルシフェルに詫びた。
「どうしたの?何かいるの?」
ルシフェルはお茶を飲みながら小首を傾げる。
障子の向こうには何の気配もない。
何がどこにあるか。
その部屋のつくりがどうなっているか。
魔力で全てがわかるが、それでもルシフェルは異常なしと判断できている。
「え?い、いえ」
綾乃は思い出したように、バッグから携帯電話を取り出した。
「ごめんなさい。ちょっと連絡を忘れていたので」
綾乃はそういって部屋を出た。
綾乃は携帯電話を使わない。
連絡なんて最初からない。
ただ、その時間が必要だったのだ。
カラッ
部屋に戻った綾乃は、室内の様子に、少しだけ満足した顔で微笑んだ。
「非礼をお詫びします。ルシフェルとやら」
綾乃はそう言った。
もし、ルシフェルが起きていて、部屋に入ってきた綾乃を見たら、同一人物とすぐに認めたか。正直、疑わしい。
それほど、綾乃の様子は変わっていた。
何が?
一言で言えば、雰囲気。
あるいは、綾乃が纏う周囲の空気そのものだ。
今の綾乃が纏う空気。
それは、周囲を圧倒する気品そのもの。
幸いというべきだろう。
ルシフェルはそれに気づくことはない。
ルシフェルは、ちゃぶ台の横で眠りこけ、その手元には湯飲み茶碗が転がっている。
綾乃は無言でバッグからハンカチを取り出し、湯飲みからこぼれた茶を念入りにふき取り、ポットのお湯でその湯飲みを満たす。
その間も、綾乃はちらちらと視線を障子の方へと向ける。
そして―――
「しつこいですね」
綾乃は不満そうにそう言うなり、湯飲みを持って障子へと向かった。
ガラッ
障子とサッシを開いた綾乃は、外を睨み付けるなり、湯の中身をそこへかけた。
かけた?
そう。
かけたのだ。
どこへ?
「そんな所に立っている変質者さんは、こうなるんです」
そう。
そこには人がいた。
長髪、
頬に傷。
黒い服。
そんな、男が。
「ルシフェルとやらは、感づくことすら出来なかったようですが……何の用です?」
男は答えない。
ただ、無言でポケットからナイフを取り出すだけ。
「待ちなさい」
綾乃は凛とした声で男に言った。
「あなたは大変な勘違いをしています」
男の動きが止まった。
綾乃の次の言葉をうかがっているのは明らかだ。
「私は自らの意志であなたを殺したのではありませんよ?呪われた者よ」
男は無言で綾乃の言葉を待つ。
「私はこの国の皇女、日菜子殿下の命令であなたを襲いました」
綾乃は顔色一つ変えずに言った。
「魔族の皇女、プリンセス・ティアナの名において宣言します」
そう、言ったのだ。
「あなたを襲ったのは、私達です。しかし、いわば、銃と銃弾、そして引いた指も私達。しかし、引き金を引く意志は日菜子殿下のもの」
男は身じろぎ一つせず、その言葉に聞き入るだけ。
「そうです」
綾乃は唇の端を歪ませて笑った。
「我が夫となるべき男をたぶらかし、あなたを殺したのは、日菜子殿下。つまり」
綾乃は言ったのだ。
「あなたの敵は日菜子殿下。その道具である私達ではありません。―――違いますか?」
「……」
「……」
沈黙の時が流れ、
そして
サッ
男の姿が闇の中に溶けた。
「軽い嫌がらせ―――そんなところですか」
障子を閉めた綾乃は、ルシフェルの様子をうかがいながら独り言のように呟いた。
「全く、世話のかかる」
ルシフェルの生命に問題ないことを確認した綾乃は、安堵のため息をつく。
「魔界からこんな薬を手配させたり、私に精神操作をさせたり」
綾乃は自分の頬を掴むと、その頬を軽くひねった。
「少しは反省なさい?いいですね?」
綾乃は自分に言い聞かせるように呟く。
「私には、あなたを完全に演じることは出来ないのです」
誰かに説教する口調で、綾乃は続ける。
「あなたは、自我が減りつつあるとはいえ、いまだ一人の人間、そして、私の分魂なのですから」
ふっ。
綾乃の体から、何かが離れ、
糸の切れた操り人形のように、綾乃は床に倒れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます