Vol.2【少年と烏】
平良 リョウジ
第1話 その名は炭丸
時折烏が鳴く明け方のことである。
堤防に座り込んでいる少年は目の前に広がる山間の人造湖を詰まらなそうにじっと見つめていた。彼が持っている荷物は小さなウエストバッグ一つ。こんな大自然の中を何時間も電車に乗って訪れた人間としてはいささかその軽装備が目立っている。
少年は好物のクッキーを齧りながら人造湖の見えるはずもない底を想像した。
どこからか鶲(ひたき)の囀りが聞こえ、人造湖では鴨の親子が列を成して泳いでおり、その水面では時々大きな魚がうねりを上げている。
かつてこの人造湖の底に賑やかな町並みがあった過去を知る人は少ないだろう、と少年は思った。ここは三年前に完成したダムであり、今ではバス釣りの名地となっている。
「おう兄ちゃん。さっきからずっとこの湖を眺めているよな」
と、何人かの釣り人に声をかけられたものの、少年は全て愛想笑いで返し、釣り人達が遠くの岸まで向かうのをじっと待つ。
よし、丁度良い頃合いだな。
少年は堤防の坂を下っていき、間近で底の見えない水面を見つめた。どうせ死ぬなら僕一人で誰にも気付かれずにこの場所で死んでやる。将来の夢の無い現実……迫られる進路先……誰も隣にいない毎日……これで全てとおさらばだ。
記憶こそは微塵も無いが、自分はかつてこの湖底にあった町で生まれ育ち、小学校時代までの時間を過ごしたらしい。記憶が残っていないのに『ここで生まれ育った』という事実を聞かされただけで人はここまで場所に愛着が湧いてしまうのか。と、少年は死ぬ前でありながら不思議に思った。
……じゃ、行ってきます。
「やめてくれ」
と、誰かが少年を制す。
「え?誰?」
と、少年がふと水面を見てみると、自分の真横に一羽の烏が止まったのが映って見えた。烏も少年と同じように水面を見つめている。
烏は草臥(くたび)れた声で少年に言った。「頼むからここで命を絶たないでくれ。ここは俺の思い出の場所なんだ」
「思い出の場所だって?」
と、少年は驚いたように目を丸くした。「え?烏にも思い出という概念があったの?……まあ偶然にも君は僕と同じなんだね。うん、事情はなんとなく分かったよ。じゃあ僕は他の場所で死んでやる。じゃあな」
「おい。ちょっと待て」
と、烏は堤防の坂を登っていく少年を呼び止めた。「お前は何故、死のうとしているんだ?」
「これからどう生きていけばいいのか分からないから」
と、少年はさっぱりと答えた。「これ以上に理由が必要?」
「なるほど、分かった。確かにそれ以上の理由は不要だな。だったら早く他に死ぬ場所を探したまえ。ほら、急げ」
と、烏は急に少年を突き放すかのようにあっさりと答えた。
数分間、人造湖のほとりで沈黙が重い霧のように流れる。
やがて殺意すら覚えた少年は顔を顰め、烏を激しく睨みつけた。「は?何だよ?烏の分際で偉そうに僕に自殺を促させやがって……。僕だって死ぬほど辛いんだよ」
「何故そんなに怒る必要がある?もしかしてお前は俺から下手な慰めの言葉でも聞きたかったのか?」
と、烏は少年の崩れていく表情を見つめながら言った。「言っておくが俺にだって抱いている傷はある。でも俺に死ぬ気はない。お前の傷と秤にかけたらどっちが重い傷なのかも興味がない」
少年は目の前の草臥れた様子の烏をじっと見つめた。風が吹けば倒れてしまいそうなほどに弱々しいが、それが抱く心からは鋼の如き凄まじさを感じさせられた。
やがて世界は一人と一羽を置き去りにして一定に時間を進めていく。山の向こうからは朝日が昇り始め、次第に輝きを増していった。
そしてどれくらい時間が経っただろうか。不思議と彼の『傷』が気になった少年は苛立ちを表情に残しつつ、くぐもった声で烏に問いかける。「……それってどんな傷なんだよ?どうして君に傷ができてしまったの?」
烏は少年を見た。「それを知りたいのか?少年」
朝日がゆっくり昇り続ける中、少年はそっと頷いた。「僕は翔次。君は?」
「炭丸(すみまる)だ。人間からすれば変な名前だがな」
烏はそう名乗ると自身の傷ができた経緯について話し始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます