第25話 自分の必要性を感じないもの

 コンコン、と手の甲で数回扉を叩く。


「俺だ、松波。少し話がしたいんだが」


 応答は無し。時間帯からして、寝ているということはないだろう。耳をすませば微かに物音もする。


「……何しにきたの?」


 それでもしばらく待っていると、辛うじて鼓膜を震わす極めて小さい声で、そう言ったのが聞こえてきた。


「副委員長の仕事をしに来た。長期間学校を休んでいる生徒が居れば、様子を見に行くのは委員長の役目なんだろ? その委員長が休んでいるとなれば、その仕事は俺に回って来るってわけだ」

「……あぁ、そういうこと。仕事……ね」


 松波は気だるげに呟く。自室にいるということもあるのだろうが、今日の松波は普段の彼女からは想像もつかないほど覇気がない。

 弱っているというよりは、やる気がないという感じがする。学校では、クラスや級友のために気力溢れる振る舞いを見せているというのに、扉の向こうから聞こえてくる声にはその片鱗もない。


「わざわざ来てもらう必要なんてなかったのに」

「何を言ってる。お前が前に言っていたことじゃないか」

「そう、だから私の言うことなんて聞く必要ないってことよ。あなたには面倒を見てくれる可愛い妹さんがいるじゃない。あの子の言うことを聞いてれば間違いないわ」


 ここで陽依を引き合いに出すということは、やっぱり休んでいる原因は陽依とのあの対決にあるということだよな。


「あなたはちょっと世間知らずなところもあるし、ひょっとして私の言ったことを世間一般の常識だと思い込んでいるのかもしれないけど、そんなことはないわ。クラスメイトが休んだとしても、わざわざ学級委員が様子を見に行く必要はないのよ」

「え、そうなの? 学級委員長の仕事なんじゃないのか?」

「当たり前でしょ。いちいちそんなことまで世話を焼こうとする頭のおかしい委員長なんて私ぐらいなものよ」


 掠れかかった自嘲的な笑い声が扉の隙間から漏れ出てくる。


「私はこういう性格なのよ。とにかく恩着せがましく他人の世話を焼いて、優位に立ちたがる嫌な子なの。弟のことだってそう。親代わりになったつもりになって、色々押し付けた挙句に逃げられちゃって。はぁ~あ、私ってちょっと重いのかもしれないわね」

「……確かに、この隙間なくびっちり貼られた大量の写真はどうかと思うがな」


 壁紙にしたってセンスがない。弟はもう慣れているのかこの部屋で普通に過ごしてみたいだったが、さっきから大量の目に監視されているようでずっと落ち着かない。


「ああ、そっか。そこまで来てるってことはそこの写真も見てるんだもんね。いやぁそれ見られちゃうのはちょっとキツいなぁ」

「いい加減弟離れした方がいいぞ。彼は割としっかりしてそうじゃないか」

「そうでもないのよ? 料理はできないし、家事は全般できないし、勉強だってできる方じゃないし、運動だけはそこそこだけど……別にそれを仕事にできるほど凄いわけでもないし。私がいないときっと……って、こういうとこが駄目なのよね」


 弟の抜けている点を勢いよくまくし立てた松波だったが、自分の過干渉ぶりを自覚したのか大きなため息を吐いた。


「そう、本当はわかってるのよ。あの子は一人でも上手くやっていける。一人じゃ駄目だったのは私の方なのよね」


 まるで独り言のように、彼女は胸中に溜め込んだものを吐き出していく。

 対面して話を聞き出すつもりだったが、顔を見ないからこそ話せることもあるのかもしれない。そう思った俺は、彼女の話を黙って聞いた。


「誰かを支えてるつもりになってるけど、実はそうじゃないのよ。誰かに支えてもらわないと生きていけない。私はそういうへなちょこな人間だわ。依存させているようで依存している。ふふ、面白いでしょう? 世の中にはこういうタイプの駄目人間だっているのよ。知ってた?」


 問いかけてきているようではあるが、別に俺の返事を待っているわけではない。彼女はそのまま俺が何も言わぬ間に続ける。


「ひょっとして、自分が悪いんじゃないかって責任を感じてくれているのかもしれないけど、それは気にしなくてもいいわ。陽依ちゃんに負けたのは癪だけど、遅かれ早かれこうなってたと思うからさ。正直、あの勝負の勝ち負けなんて私にとってはどうでも良かったのよ。ただ、広政君は私に依存してるわけじゃないんだなってわかった時に、私は自分の価値を失ったの。それだけの話よ」


 負けて悔しいから、引きこもっているわけじゃない。松波真美にはその胸に抱えきれないほどの悩みがあり、それが爆発してしまったから、こうして部屋から出なくなったのだ。

 だったら、ここで俺や陽依が謝っても問題の解決にはならない。対決を仕切りなおしたとしても同じことだ。それで松波が救われることはない。


「だから……まあ……気にしなくてもいいわ。もう帰っていいわよ」

「そういうわけにもいかないな。学校に来るのも来ないのも好きにすればいいとは思うが、お前をこのまま放置する気にはなれない」

「どうして? あなたには関係ないじゃない」

「関係ないことはない」

「……ああ、副委員長だからってこと。確かに委員長がクラスからいなくなったらちょっと困るかもね」

「いや、そんなことはどうでもいいんだ」


 学級委員長という役職はそう特別なものではない。クラスで一番地位が高く、選ばれた人間しかなれないものだと最初は思っていたが、こうしてしばらく仕事をしている中で、別にそういうわけでもないということに気づいた。


 だから松波が戻ってこなければクラスが回っていかないというわけではない。彼女がいなくても、稲山高校にて、普通の学校生活は普通に続いていく。その普通を支えているのは決して彼女ではないのだ。


「……じゃあ何? 私を学校に引っ張り出す理由が何かあるの?」

「お前がいないと、陽依がイキイキしすぎて困る」

「は?」

「止める奴がいないからって増長しまくっててな。俺も最近のあいつには強く言えない事情があって、参ってるんだよな」

「……知らないわよ、そんなの。あなたの妹でしょ? あなたが責任もってなんとかしなさいよ」

「うーん、ごもっとも」


 しかし俺ではあのプレッシャーに勝てる気がしない。あの陽依に対抗し得る人材というのは貴重なんだ。

 松波は陽依の殺気を正面から受けても堂々としてたし、あの勝負だって実質松波の勝ちみたいなもの。松波の戦力は、俺の平穏な学校生活を実現させるために必要不可欠だ。


「心配しなくても、何とかなるわよ。誰も私を必要としてなんかいないんだし、私がいなくなったからってどうなるわけでもないもの」

「……お前はどうなんだ?」

「私?」

「周りがどうとかじゃなく、お前はどう思ってるんだ? このまま学校をやめるつもりなのか?」

「…………」


 扉の向こうが静まり返る。その沈黙には若干の苛立ちが込められているような気がした。


「誰かに必要とされるから学校に行くわけじゃないだろ。あそこは自分のために行く場所だ。周りのことは関係ない」

「あなたは強いからそんなことが言えるのよ。私は誰かに依存してもらわないと生きていけないの。誰かに必要とされなきゃ、自分の必要性を感じないもの」

「それでもお前は────」

「いいから! もういいからさぁ……一人にしてよ。一人になりたくて部屋に籠ってるのに、そんなにしつこくされたら迷惑よ」


 ほんのりと漂っていた苛立ちが、彼女の叫び声によって明確な怒りへと変わる。


「引き下がるわけにはいかないな。何としてもお前を学校に連れて行く。それができるまで諦めるつもりはない」

「あっそう……」


 それ以降、松波は何も言わなくなった。時折ゴソゴソと何やら物音が聞こえるだけで、声をかけても返事は来ない。

 ……いや、それどころではない。さっきまであったはずの気配が消えている。いつの間にか物音すらも聞こえなくなり、不気味なほどの静かさが広がる。


「……おい、松波?」


 ノックをしながら声をかけるも、やはり応答はない。


「入るぞ?」


 ドアノブを握った感触からして、扉には鍵がかかっているわけではない。部屋の主の許可なく踏み込むわけにもいかないと思い、扉の前に留まっていたが、どうも嫌な予感がする。

 この予感を俺の勘違いであると証明するために、俺は扉を開け放って部屋の中へと踏み込んだ。


「松波……?」


 開けた瞬間、強い風が吹き抜けてくる。

 部屋はもぬけの殻であり、窓が全開になっていた。窓枠には丈夫そうなロープが垂れ下がっているのが見える。


「まさか、これで下に降りたのか……?」


 ここはマンションの三階。普通に飛び降りれば無傷では済まない高さだが、少しロープで降りれば出っ張っているエントランスの屋根に飛び移ることができそうだ。

 それならば無傷で部屋を脱出することができる。これは完全に虚を突かれたな。部屋の前を塞ぎさえすれば後は持久戦だと思っていたのに。あの松波にも結構やんちゃな一面があるらしい。


 部屋の中も廊下と変わらず弟の写真だらけ。違いがあるとすれば、部屋に飾ってある写真は弟だけではなく、家族の姿も写っているということだ。

 松波本人も含めて四人。恐らくは、これが父親と母親だろう。弟の話では既に亡くなっているとのことだったので、ここにある写真がこれ以上増えることはない。


「あいつもあいつで、色々抱えてるんだな……」


 うちの高校の生徒は、俺以外皆普通の高校生活をエンジョイしているものだとばかり思っていた。

 何の悩みもなく、心配もなく、不安もなく、青春という刹那の輝きに身を委ねているのだと勘違いしていた。


 そもそも、普通なんてものは存在しなかったんだ。それぞれ理想の高校生活を思い描いていて、それが寸分違わず実現している奴なんていない。誰しも理想と現実の乖離に苦しみながら日々を過ごしている。

 だが、それは理想を諦める口実にはならない。誰だって理想を追い求める権利がある。俺にだってあるし、陽依にだってあるし、田村にだってあるし、もちろん松波にだってある。


 俺は松波にも理想を追って欲しいんだ。理想の青春を諦めてほしくない。もしここで諦めてしまったら、将来きっと後悔するから。

 例え叶わないとしても、諦めるには早すぎる。大人になれば、理想を追うのだって難しくなってしまう。この三年間は、長い人生において、後先考えずに馬鹿がやれる貴重な時間なんだ。


 俺はマンションを飛び出し、どこかへ消えた松波を探す。


「────お兄様!」


 まだそう遠くには行っていないはずの背中を探そうとした時、俺の腕を息を切らした陽依が抑え込んだ。


「おま……どうしてここが⁉」

「はぁ……はぁ……私は……お兄様のことなら何でもお見通しですから……いえ、そんなことよりも、お兄様……大事なお話が」

「後にしろ。俺は今、忙しいんだ」


 俺は陽依の手をやや強引に振りほどき、走り去ろうとする。


「────お父様から! お父様から、大事なお話があるとのことで、すぐに本社の社長室へ来るようにと!」


 陽依が届けてきた予想外の知らせに、俺の足は止まった。

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