第1話 恭平
何かが追ってきている。
恭平の背筋を恐怖がぞわぞわと這い上がった。息を切らせて走りながら前方だけを見据えている。
ただ、その姿を見たわけではない。それでも本能的に振り返ってはいけないと分かっていた。
何かは走る音を立てないが、後ろに存在し追いかけてきているのは分かっている。
それが一メートルなのか、五メートルなのか。手を伸ばせば恭平を捕らえることができる距離にいるのか、それともまだ余裕があるのか確認したくて仕方ない。
しかし、振り返る動作は無駄なだけだ。
マラソンでも駅伝でも後ろの走者を見るために半身を捻る動作をしたために力尽きた例をテレビで見て知っている。
それよりも今はけもの道を少しでも速く駆けて、止めてある車に辿りつく方がいい。
生い茂った灌木の枝が恭平の体を叩き引っかく。もういくつも引っかき傷ができたいたが痛みは我慢した。
恭平が地面を踏みしめる音と荒い呼吸の音だけが響き渡る。
なぜか喧しい夏の蝉の声すらも聞こえなかった。
緩くカーブを描く道を曲がる。
しめた。隧道が見えた。
あと百メートルほどだ。
それほど長くない隧道を通り抜けた向うにはここまで来た車が止めてあった。
恭平は面倒くさがらずにすぐに出られるようにバックで駐車しておいて良かったと思う。
頭から突っ込んでおけばいいんだよ、とそのときに言った颯太はもうこの世にはいない。
元は颯太だっただろうものの異様な姿が恭平の目の前にちらつく。
嫌だ。俺はあんなふうに死にたくない。その思いを気力に変えて顔を上げた。
あと五十メートル。
久しぶりに全力で走った脚の筋肉が超過労働に絶えず悲鳴をあげている。
あともうちょっとだ。
隧道の入口にたどり着く。
恭平はまたもや後ろを振り返りたくなるのをぐっとこらえた。
生還への希望が生まれて喜んだ途端に小さな石を踏んでぐりっと転びそうになる。左の足首に鈍い痛みが生じた。
左足をかばうようにして走り続ける。
隧道を通り抜けた向こう側の陽の光がどんどんと大きくなった。
あと少し。
入口を塞ぐようにして立っているA型バリケードの脇をすり抜けた。
脚が触れてガシャンという音を立てる。
バランスを崩しそうになりながら耐えた。
ラストスパートをかけながらポケットに手を突っ込んで車のキーを取り出す。
安さ重視で借りたヴィッツにタッチレスキー機能はついていなかった。
車の右側に回り込み急停止する。ざっと音がして足が滑り転びそうになった。
運転席のドアにしがみついて体を支える。
震える手で鍵穴にキーを差し込んだ。
カチャ。
ドアのロックが外れる。
その音を聞くのももどかし気に恭平は車に乗り込んで前かがみになり、ハンドルの右側の差し込み口にキーを入れた。
キーを捻る。
なぜかエンジンがかからない。
もう一度キーを回した。
半狂乱になって両手をハンドルに叩きつける。
「動け。動けよ。このポンコツ!」
もちろん叩いても車のエンジンはかからない。
落ち着け。落ち着くんだ。
恭平は深呼吸をしてもう一度イグニションキーを回す。
しかし、無情にもやはりエンジンはかからなかった。
誰か助けてくれ。
尻ポケットからスマートフォンを取り出す。
脇のボタンを押しても電源が入らない。
半ば分かっていたことだった。
何かが現れて颯太が怪死する。
そのときから廃村では持ち込んだありとあらゆる電気機器が使えなくなった。
スマートフォンも作動しない。
たぶん有紗も死んだのだろう。
頭の片隅で恭平にも分かっていたのだ。
車までたどり着くことができれば乗って逃げられるというのは、藁にもすがる思いの幻想に過ぎないのだと。
この何かの近くでは電子機器は動かない。そして、何かはもう車のそばにいるのだから。
カチャと音がして後部座席の扉が開き、車が右側に沈んだ。
車に乗ってすぐにドアをロックしなかったことを恭平は激しく後悔する。
頭の後ろの毛がチリチリする感覚で、恭平はあの何かが車内にいることを知った。
両手で握りしめている真っ暗なままのスマートフォンから視線を上げる。
本能は今すぐドアを開けて走って逃げろと告げていた。
それを見るな。
しかし、恭平はそのまま視線を上げ続けてしまう。
何かに命じられるようにのろのろと顔を上げていきバックミラーで後部座席を確かめた。
ハンドルを握りしめたまま恭平は絶叫を上げる。
恐怖のあまり髪の毛がすべて総毛立ち、あごが外れんばかりに口を開いて叫び続けた。
そのままの姿勢で恭平は意識を失う。
後ろから伸びてきたものが恭平の体に触れた。
みるみるうちに肉がそげ皮膚が骨に密着するように干からびる。眼窩は落ちくぼみ唇が無くなって歯がむき出しになった。
スマートフォンがポトリと落ちて転がる。
残っていた骨も足先の方から消えていく。
その場には靴、靴下、ズボン、シャツとかつて恭平を覆っていたものがまるで抜け殻のように残っていた。
恭平を構成していたものの姿が消えると伸ばされていたものは後部座席の方へと引っ込む。
後部座席の扉が開いて閉まった。
何かが引き返していく。
人の語彙力では形容しがたい何かは足音を立てずに姿を消した。
木立の中から蝉が一斉に鳴き始める。
今まではまるで死を恐れて息をひそめていたようにしていた生き物たちが活動を再開した。
さんさんと降り注ぐ真夏の太陽のなか、その場にはヴィッツだけが佇み続ける。
不意に車の中から場違いに明るい音が響き渡った。
スマートフォンの呼び出し音に驚いたのか近くの木立から小鳥が空へと飛び立つ。
三十秒ほど鳴って音は止んだ。しばらくするとまた鳴り始める。
持ち主を失ったスマートフォンは運転席の座席の下で、応答することのない呼び出し音を響かせては止まるを繰り返していた。
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