ゴールゲイザー

バラック

第1話 目指せ10秒台

「100m決勝に出場する選手は、招集場所に集まってください。」


 競技場内に放送が流れる。対象選手の名前が次々呼ばれ、最後に僕の名前、星川壮太もアナウンスされたので、僕はジャージを脱いで招集場所に向かった。


 今日は4月の第一週の日曜日。八王子の上柚木陸上競技場に、多摩地区の陸上競技部が集められている。空気は冷たいが桜は徐々に咲き始めている。風はなく、やわらかい日差しが僕たちを包むようだ。


 僕は今年高校三年生になった100mランナー。背も体重も、まぁ平均くらい。偏差値60前後の自称進学校では、耳にかかるくらいの黒髪も男には珍しい白い肌もあまり目立たない。他の部活をしている人から見たら、その辺によくいる高校生。


 ただ、陸上単距離の世界では、ちょっと知られた存在だ。なぜなら僕の100mのベストタイムが10秒6。多摩地区では断トツに速いタイムをだからだ。


 まぁこれは追い風の参考記録だし、僕自身も偶然の記録だと思っている。けれど、タイムの効果は偉大だ。僕の「10秒6」というタイムは、僕の名刺代わりのように広がっていく。

「やっぱり星川きてるよ」

「今年はあいつかな」

 招集場所でも、そんなささやき声が聞こえてきた。前はそんな声を聞いてなんとなく喜んでいたけれど、今はそんな気も起きない。できるだけいいタイムを、圧倒できるスピードで。 


 まずは今日、11秒2を切ること。そしてその先のレースで10秒台を目指す。

「陸上部エースの星川」「10秒台出せるやつ」「めちゃめちゃ足が速い奴」


 圧倒的なタイムで、僕は自分の場所を守ってきた。そしてこれからも守っていかなければならない。そのためには「10秒台」という言葉はどうしても欲しい。


*****


 招集場所から呼び出しがかかり、僕は第8レーンに配された。人によっては内側・外側好みがあるようだけれど、僕は一切気にしなかった。100mにカーブはないし、自分で実験してみたがどこを走ってもあまりタイムに差はなかったからだ。

 体をのばし、太ももをたたいて筋肉に刺激を与えたあたりで、審判員が出てきた。


「On your mark!」


 クラウチングの姿勢を取り、地面に着いた両手の間の一点を見つめる。辺りは静まり、風も感じられない。軽やかに走る僕のスタイルを、中学生のときのコーチが「風のようだ」って言ってくれていたっけ。今日はそんなことを思い出せるほど余裕があった。


「Set!」


 身体を上げ、態勢を整える。


 僕は息を大きく吐いて、号砲を待った。


「パン!」


 音に反射し飛び出す。いい反射をした。いい感覚だ。


 7歩目までに強く地面を蹴って低い体勢のまま加速をする。


 そこから5歩目、体を起こす。僕のベストな姿勢移動。そのままスピードを維持することを意識して、腕を振り地面を叩く。


 僕は勢いを落とさないようにゴールに飛び込んだ。呼吸を整えるためにスピードを徐々に落としながらゴール周辺を旋回する。ゆっくり歩くぐらいのスピードまで落として、僕は電子掲示板を見た。


 11.05


 審判員が、最初に僕にタイムを伝えにきた。そこでやっと僕が一位でゴールし、電光掲示板のタイムが自分のタイムであることを確信した。


 毎回のことだが、僕はゴール後も自分の順位に確信が持てないのだ。一位でゴールした時のみならず、ビリでゴールしたときも自分の順位が良く分からない。走っている最中、自分の体の動かし方や筋肉に意識を集中しているため、僕の視野はぐっと小さくなり、ほぼゴールしか見えなくなるのだ。


 ゴール後のそんな振る舞いや言動から、僕は「GOAL GAZER(ゴールゲイザー・ゴールだけ見つめる人)」と呼ばれるようになっていた。音の響きはカッコいいのだけれど、「あいつはゴールゲイザーだから」なんて言っている周りの使い方を考えると、半分からかいもあるんだろうな、と思う。


 けれど、その言葉自体は、僕は嫌いではなかった。100m走については、タイムこそが最も分かりやすい正義だ。たとえ一位でゴールしようとも、遅いタイムでは「たまたま勝った」だけにすぎない。圧倒的なタイムは、自分の存在を世に知らしめることができる。


 僕はまだ公式タイムで10秒台は出せていないけれど、11秒の壁を乗り越えることができれば、僕は自分の居場所を勝ち取り続けることができる。


 そのためにも、僕は走り続けたいし、走り続けなければならないと思っている。


*****


 最終レースだった僕の片付けが終わるのを待って、ミーティングが行われた。クールダウンが不十分なやつはしっかり行うこと、都大会の日程とそれまでの大まかな練習スケジュール、明日からの学校生活もしっかりと行うこと、などといった話が顧問からあった。


 その後さぁ帰宅、という段になったが、僕は着替えずにストレッチを行った。僕らは普通の都立高校だから、バスを借り上げたり、ましてや自前のバスを持ってたりすることは無い。基本的には現地集合現地解散。僕にはそれがとてもありがたかった。レース後のケアは充分に行いたい、という気持ちもあるのだけれど、それ以上に他の部員と群れて帰りたくなかった。あの、何ともいえない連帯感というか緩やかな紐でつながっているような空気感が苦手だった。電車での移動なら寝るふりをしたり本を読んだり、なんならこっそり車両を変えたりすればしのげるけれど、逃げ場のないバス移動なんてのはもってのほかだった。そのくせ「居場所がなくなる」ことには人一倍怯えていて、自分の座る場所が無くなるくらいなら、一本や二本平気で見送った。


 だから僕は、顧問の指示通り入念にクールダウンを行い、皆が南大沢から電車で帰るところをわざわざバスで八王子に向かうことにした。


 4月だからと言っても、日が暮れてくるこの時間になると充分寒い。僕は念のために持ってきていたマフラーを巻いてバス停に向かった。


「あー間に合った!」


 時刻表どおり正確にやってきたバスに乗り込もうとすると、後ろから友華が走ってやってきた。


「ぎりぎりセーフだ!」


 バスの乗客は僕ら以外に誰もいない。一番後ろの5人がけのシートに座っている僕の横に友華は腰掛けた。


 この、日色友華は、僕と同じ陸上部のランナーだ。とはいっても微妙に種目が違い、僕が100mを専門員しているのに対して、友華は400mが専門だ。彼女は僕と中学校のときから一緒で、最初は100mをやっていたのだが、中学一年の途中から400mに移った。当時その訳を聞いても「なんとなくかな」と言って教えてくれなかった。


 標準的な身長に対して長い手足、細身の体型、背筋の伸び方や後ろでまとめたちょっと茶色い髪なんかは、今となっては軽さが求められる400mに適したスタイルになっていると僕は思っている。そんなこと言葉にすると怒られそうだけど。

「ほっちゃんも今帰るところ?まさか待ってくれてたの?」

「いやまさか。」


 僕は友華の方を見ずに言った。


「怪我したくないからね、クールダウンは充分に行うほうがいいんだよ。反対に友華は遅くない?」

 「みんなと帰っている最中にさ、バスで帰ったほうが早いじゃん、って気づいたのよ。でも流石私のスピードね、きっちり間に合ったよ。」


 友華は胸を張ってそう言った。そんな堂々と言うことじゃないんじゃないかと思うけど。


「それはそうと、優勝おめでとう!この地区じゃもう殆ど敵はいないね。」

「ありがと。でも実感って言うか、嬉しい!っていう気持ちはないんだよな」

「ふーん、そうなの?でもほっちゃんが一位になってくれると、私は嬉しいんだけどな」

「今日の自分の入賞より?」

「うん、もしかしたらそうかも。私はほっちゃんに憧れて走ってる部分あるもんなー。」


 なんだかちょっと照れくさい気分になったが、僕はそれを紛らわすため、首に巻いたマフラーをグッと上げ、窓のほうを見た。


 すこしばかりの静寂。いたたまれなくなって僕のほうから口を開いた。

「友華は何を目的に陸上やってるの?」


 僕は窓を向いたまま話しかけた。それでも、気配や空気の揺れ方から、友華がこちらをまっすぐ見ているのが分かった。


「気持ちいいじゃん。走りきってゴールするとき前には誰もいない。あぁ、自分は一位だ、って瞬間が。ほっちゃんはそんなこと思わない?」


 僕は振り返らず、そのまま答えた。


「あまりそういうのは無いかな。僕のイメージは機械だ。練習によって精巧に作り上げた筋肉、反射能力、技術が狂い無く動いて、自分の最高出力をだす。そして今までに無いタイムを出して皆の目を釘付けにする。最速タイムは、みんなが注目してくれる。そんなとこかなぁ。」

「ほっちゃん、陸上やってて楽しい?」


 友華がそう言ったとこで、車内アナウンスが流れ、終点の八王子駅に着いた。僕はJRへ、友華は京王線へ。それぞれ別の帰り道になる。


 陸上やってて楽しい?その言葉を僕は心の中で反芻した。いや、僕にとってその感覚はない。最初は楽しかったかもしれないけど、今や義務感だ。走ることを辞めたら、好タイムを出せなかったら、僕の存在価値はどこにあるのだろう。そう考えるだけで恐ろしくなる。


「ケガ、しないでね。」


 考え込んでいるように見えたのだろう。先にバスを降りた友華は、振り返って僕に言った。


「ありがとう、気をつけるよ。お互いにね。」

「うん、また明日ね。」

「あぁ、また。」


 そう言って僕は彼女を見送って駅に向かった。背後で、友華が振り向いて手を振ってくれるような気がしたけど、違っていることが怖かったので振り向けなかった。


 また、僕には別の振り向けない理由があった。


「よう、楽しそうだったな、女の子といちゃいちゃ喋って。」


 僕の背後からいつもの声が聞こえた。僕は振り向かず、声のする方にだけ意識を向けた。


「そうだよな、お前は走ってて楽しいって感じたことなんて一度もないもんな。」


 僕はその声を無視した。ときたま聞こえてくる、不安で不愉快な声。姿形はないけれど、僕に付きまとうだけの黒い影。その影は続けて僕に語り掛けてきた。

「おい、無視すんなって。いいじゃないか。いい記録が出たときぐらい彼女の日色さんとおしゃべりしたって。ま、いい記録が出てよかった。これでひとまず、誰かがそのタイムを更新するまで、お前の存在は肯定されるんだから。」


 僕はその影に対し無視を続けてきたが、いい加減うっとうしくなり、右手で背後を払うようにして言った。


「確かにそうだな。お前の言うとおりだ。だから早くどっかに行ってくれ」

「わかったよ、またな。でも、いつかお前より速い奴に会ったとき、お前は絶望させられることになるぞ…」


 影の声はそのままフェードアウトして消えた。


 この影は、中学生のころから時たま現れた。いいタイムを出したときや優勝したときだけでなく落ち込むほどひどいレースをした後にも聞こえてきた。


 いくら振り払おうとしても油断するとすぐに現れるので、僕はその影を打ち消すことを早々にあきらめた。上手く付き合って、できればモチベーションの糧にと思ったが、甘かった。今はもう不愉快でしかない。影の声をはいはい聞いていつかいなくなるのを待つしかなかった。

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