教室の外のカサンドラ
バラック
第1話
電話の向こうで、グラスの中の氷が割れる音がした。短針は十二時を回っている。奥さんも子供も、既に布団の中のはずだ。旦那がリビングで二十代の不倫相手と別れ話をしている間、家族はどんな夢を見るのだろうか。
終わりにしたいという言葉に私がそっけなく返事をすると、彼は大きく息を吐いた。大方ソファにふんぞり帰っているのだろう。
「相原くんは相変わらずクールだね」
保護者からの多数のクレームにより、本社で処分を受けた私を彼が呼び止めた。
合理的で、冷たい印象を与えがちな私は、火遊びには丁度良かったのだろうか。
犬の遠吠えが聞こえる。月明かりの蒼さが心地良い。
「ねぇ私のわがまま、一つ聞いてくれない?」
人事部の課長であった彼は、私の頼みを二つ返事で快諾し、電話を切った。私はアプリから彼とのトーク履歴を消し、生徒が提出してきた英語の課題を広げた。
*****
翌週の四月中旬、私は授業前に校舎長に呼び出された。
「ウチの校舎としては、トップ講師のキミに抜けられるのはとても困るんだけれどねぇ」
校舎長はキッチリ整えられた七三の頭をホワイトボードに向けたまま私に異動を告げた。
ホワイトボードには各校舎の営業成績が棒グラフで並べられている。中でも一際目立つグラフの下に、私たちの校舎名が載っていた。
異動先は、私が勤務する学習塾が昨年オープンした、社会人向け大学の英語講師。不倫相手の課長にお願いをした異動先だった。
「塾で働くのも、想像とは違って辛くなってきたので。丁度良かったです。人を成績でしか見ない校舎長のこと、尊敬はしていましたけど、ずっと嫌いでした」
私は七三頭が何か呟くのを背に部屋を出た。
指示を聞く気もないお嬢様や、モノを壊して知らんぷりする悪ガキ、子の言う嘘を信じ込んでしまう親や、いつでも子どもや保護者の発言を妄信する校舎長の相手をしなくなると思うと、淀んだ雨雲を風が払っていくように、胸の内が軽くなった。
*****
新天地は、ベッドタウンのターミナル駅からバスで二十分の所にあった。事務用品は既に社内便で送ってあったから、大きな荷物はない。勤務初日の今日だけ、電車とバスで向かった。
私が駅前のバス停のベンチに腰かけていると、長身痩躯、長髪を後ろでまとめた三十代ぐらいの男が私の横に座った。風貌や時間帯を考えると、サラリーマンではない。フリーターだろうか。
男はカバンからレポート用紙を取り出して両手で持つと不意に立ち上がった。
「拍手を、して、くれませんか?」
男は正面を向いたまま言った。私に話しかけている?
私が反応できずにいると、更に拍手を要求してきた。私が簡単に手を叩くと、男は満足したのか、正面に向かって深々と礼をし、座った。
「すみません。でも、僕には見えるんです。お客さん達が、期待して、僕をじっと見てくるのが。あなたには?」
目の前には、ロータリーのコンクリートが春の陽をいっぱいに受けている。その奥で風が青い稲を撫でているのが見えるだけだった。
「いや、私には見えないなぁ……」
私は立ち上がってもう一度手を叩き、ベンチから離れてバスを待った。
*****
永いコールの後に彼が出た。電話の向こうでは、ヒーローアニメが始まっているようだ。
異動について、話が違うと彼を非難した。
私が希望したのは、社会人向け英語講座のメイン講師であったのに対し、実際持たされたメインの講座は、社会人向け英会話講座で、対象者は知的障害者であった。
帰国子女であって、小学校教諭の経験を有することから、キミ以上の適任を見つけられなかった。望むなら半年で戻すから、勤務時間外に電話をしてこないように。と業務用の言葉で諭され、私は諦めた。私は電話を置き、安いコーヒーを啜ると嫌な記憶が蘇ってきた。
*****
新卒で勤務した小学校では、個別支援学級を任された。個別支援学級とは、教室での一斉授業を受けるのが難しい子どものためのクラスであり、殆どに知的の障害があった。
初めは子どもにも緊張感があったからか、上手くクラスを運営できていたが、次第に雲行きは怪しくなった。
特別に支援が必要な子どもの言動は、私には理解できず、徐々にコントロールできなくなった。子ども同士のトラブルや対教師のトラブルも増え、事実確認をしようとも、誰が本当のことを言って誰が誤認をしているのか全く分からない状態だった。
報告し相談しようとも、同僚の先生は自分のクラス外には無関心で、管理職も私の指導力の無さを抽象的に批判してくるのみだった。
教室内の些細な事件の後、私は子どもの声を聞かずに行き過ぎた指導をした、と保護者から糾弾された。私は教室を飛び出し、学校には戻れなかった。
*****
英会話講座の初日、教室に入ると二人の受講生がいた。一人はバス停で出会った男で戸塚と名乗り、もう一人の女性は西谷と名乗った。資料によれば、三十代後半の彼らは開校と同時に入学してきたようで、友人関係にあり、IQは70五程度とのことだった。
英会話の講座ではあったが、前任の講義を踏襲してイングリッシュスピーチを重点的に行うことになった。
お互い英語での自己紹介をした後、戸塚が私を怪訝な目で見てきたが、私はその視線を無視した。
「ま、たった半年だから気楽にやろう。二人とも英語は上手だったから、もしかしたら私から教えることはないかもね」
私の投げやりな言葉に対し、少しの間を置いて、二人は手を叩いて喜んだ。皮肉が通じないのか。おめでたい人たちだ。
私は、トラブルに関与しないことと、語学力向上のためカメラを設置することを宣言して、教室を出た。
*****
講義の回数を重ねるごとに二人の様子が分かってきた。普段は二人とも実家から施設に通所し、パンを焼いている。その僅かな日当と障害年金をやりくりし、大学に通っているようだった。
気弱な西谷は、私に怯えながら、自分は戸塚に無理やり連れてこられたのだけど、少しでも何かを上達したいと話した。
戸塚はどもりながら、いつか僕はスピーチで皆を驚かせたい。僕でもこんなにやれるんだってことを見せたいし、僕が沢山の拍手を受ければ、お母さんも、西谷さんも、相原先生も皆を喜ばせられるんだ。と語っていた。
その話を聞くと、私は「教える」ってなんだろうと、自問せずにいられなかった。
*****
リモコンをかざすと、冷気とエアコンの黴臭さが教室を満たしていく。
梅雨は彼らにとっても不快であるようだった。春には笑いかけてくれた路傍の花も今は泣いていており、湿気と一緒に赤いモヤが入ってくるから、出入口はすぐに閉めなくてはならないらしい。
私には信じられない世界だったが、彼らは視線を泳がせながら、必死に説明した。
真摯さ、勤勉さは語学にも成果があった。
「二人とも、発音も話し方もとても上手くなっているよ。私は最初いやいや講義していたけど、今は素直に嬉しいよ。半年だけの講座だったけど、ウチが主催する冬のスピーチコンテストに向けて、後期も担当できるよう私も一緒に頑張ろうかしら」
講義の終わりに私が何気なく言うと、西谷は手を叩いて笑ったが、戸塚は机の中から何かを取り出そうとして、すぐ戻した。どうしたの、と聞いても、顔を横に振るだけだった。
*****
翌週の講義に、戸塚は来なかった。無断で欠席することは今までなかった。西谷に聞いても俯くばかり。トラブルがあったのだろうか。事務員さんに自宅に電話してもらっても、いつも通り出た、とのことだった。
事務室からの報告を受け、西谷に再度問うと西谷はパン工場で聞いたことを泣きながら教えてくれた。
戸塚がこっそり、自分が通っていた中学校に電話し、弁論大会でスピーチをさせてほしいと頼んだこと。何度も頼んで本番前のテスト扱いでOKを貰えたこと。上手くできたらピースサインで相原先生に会いに行くこと。
そうすれば相原先生も、僕たちを気にしないで、自分の好きなことができるだろうって話したこと。
「先生、中学校はここから近いから行ってあげてよ。私はいいから。戸塚君を守ってよ。一時半には始まっちゃうよ」
用意してあったのだろうか、西谷に手書きの地図を握らされた。
一時半って。今から全速力で車を飛ばしても間に合わないかもしれない時間だ。
私は左手首を見やったが、西谷が腕時計を無理やり奪った。急いで急いで、と焦る西谷に私は教室の外に追い出された。
*****
私が「○○記念弁論大会」の立て看板の横を通り抜けて講堂に入ると、戸塚が隅で立ち尽くしていた。間に合ったのかしら。
「先生、ありがとう。でも先生、悲しいんだよ。マイクが、朝礼台が、みんなが僕を馬鹿にするんだ」
戸塚の声を聞くと、私は力が抜けてきた。
「あなたは馬鹿なんだからそんなこと気にしなくていいじゃない」
私はそう言って天井を仰ぎ、ゆっくりとパイプ椅子に座る中学生と大人たちを見た。
「いい天気ねぇ。戸塚君、ここは夢舞台ね」
講堂のざわつき。外からカラスの声。梅雨の合間の日差しが私たちを差す。壇上の花束は手招きしている。マイクはこちらに頭を傾げている。小さな、けれど無数の励ます声が私にも聞こえてきた。
「ホントだ、先生のおかげで、なんだかパワーが、出てきたよ。そうだ、僕は馬鹿なんだから練習通りやるしかないんだ」
ゆっくり動き出し、壇上へ向かう戸塚の肩を私は叩いた。
「甘いよ。皆の度肝抜いてやんなさい」
*****
四月の新入生歓迎のあいさつは戸塚が行った。内容は中学校の講堂で拍手を浴びた、「僕に見えるもの」と同じ。結びの言葉で、戸塚は当時と同様に深々と礼をした。
私が受け持っていた知的障害者を対象とした英会話の講座は、一部を分離して英語スピーチとなり、卒業した戸塚と西谷がその講座を受け持った。私は塾には戻らなかった。
「僕には見える。普通の人に見えないものが見える。ぼくには分からない。普通の人が分かることが分からない。だから僕は信じる。普通の人が、お母さんが、先生が言ってくれたことを信じる。きっと僕の為に言ってくれているのだろうから。だからどうか、僕が見えている世界も、僕にとってはそうなのだと信じてほしい」
私に見えているものは何だろうか。新学期、初めて会った目の前の知的障害者は、私には白い画用紙のように見えた。
教室の外のカサンドラ バラック @balack
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