ソフト刺し
バラック
第1話
初手、六七歩。角道を開けた僕の手に対し、向いに座る竹井さんはピクリとも動かなかった。角道を開けるか飛車先の歩を伸ばすか。凡そその二種類しかない将棋の始まりに、竹井さんは六十分の持ち時間を全て費やした。竹井さんは直前の対局で負けていたため、年齢制限による奨励会の退会が既に決まっていた。竹井さんは六十分の間何を考えていたのだろう。時計が一周し秒読みが始まった瞬間、竹井さんは一手も指さず投了(負けの宣言)をした。竹井さんの心境を聞ける人間は、僕らの仲間内にはいなかった。
一方僕は、竹井さんとの対局に勝ったおかげで三段リーグに残留し、翌期の平成二十二年の三段リーグを勝ち抜いて二十四歳でプロになることができた。その年は奇しくも竹井さんと同門の水谷が、中学生ながらプロデビューしたのと同じ年だった。
竹井さんとはその後も交流が続いた。特に気が合うわけではなかったが、竹井さんの方からよく連絡をくれた。大学に入り直した竹井さんは、今では高校教師として働いているらしい。将棋は指さず、専ら見るばかりとなっているようだ。
プロの舞台に上がれた僕ではあったが、デビューしてから十年間大した成績も残せず、杉山という僕の名前がB級以上の名簿に載ることはなかった。人付き合いが苦手なこともあって研究会にも属さず、日々実家の二階に引きこもって昔の棋譜ばかり並べている。対局がない日は、日光を浴びないなんてことも珍しくなかった。僕に将棋が無かったら、社会不適合者のレッテルを貼られていたことだろう。
方や僕と同時期にプロデビューした水谷は、八つある将棋のタイトルの内既に三つを保持している。将棋の鬼や神を薙ぎ倒し、A級まで順調に駆け上がり、以降一度も降格をしていない。水谷は紛れもなく将棋の天才だった。
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今期こそはB級二組への昇級を意気込んだ今季の初め、将棋界に事件が起きた。A級在籍のトップ棋士である水谷が、将棋ソフトに負けたのだ。テレビの企画で行われたお遊びの対局ではあったが、水谷の敗戦は将棋界に大きな衝撃を与えた。
僕も二年ほど前に雑誌の企画でソフトと対局をしたことがあった。序盤こそ光る手もあったが中盤以降は怪しい手が多く、全く参考にならないレベルだった。
ところが今のソフトは、水谷を打ち負かすほどのレベルになっている。水谷も特集記事でソフトのことを高く評価していた。序盤の組み立てと、終盤が淡泊になってしまうという弱点がある僕は、特に居飛車穴熊対策として、ソフトを使った研究を導入した。
将棋ソフトは数種類あるが、自宅のパソコン以外にスマートフォンにも入れることができるものもある。人との感想戦が苦手な僕は、敗戦後はすぐに敗着の一手をソフトで探すようになっていった。
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研究に使っているうちは良かったが、ソフトの魔力は対局中にもやってきた。調子が悪かった今期、負ければC級二組への降格が見えてくる対局で、僕は体調不良を理由に対局室から離れた。
休憩室に行くと誰もいない。僕は僕の意思に反して、内ポケットのスマートフォンに手を伸ばしてしまった。そこから先はあっという間だった。雪崩が滑り落ちるように指先は動き、今までの棋譜を打ち込んでいった。
ソフトによれば成り込んできた角取りの飛車には持ち駒の桂馬で合わせるのが良いらしい。絶妙手だ。普通なら歩を打つ場面だが、この桂打ちは先の展開によっては相手玉の逃げ道を消す手だ。
僕はスマートフォンをポケットに戻して対局室に戻ったが、桂馬を打つ手が頭から離れない。ソフトに従って桂馬を打つか、或いはセオリー通り歩を打つか。僕は持ち時間の半分以上をかけ、駒台から歩を取った。
結果は、接戦となったが辛くも僕の勝利となった。ソフトによる神の一手は誰も気づいていないようだった。
引け目がない訳ではない。もしバレたらと思うと動悸がするし、寝付けない夜もある。だが将棋は結果が全ての世界であって、過程なんて問われない。自分の行為はむしろソフトより良かった手なのだと、自らを正当化してしまっていた。
その後も消化試合となっている順位戦では、対局中に抜け出してソフトの最善手を探すことがあった。ソフトの手を採用することはなかったが、指し手に裏付けを得た僕は、自信をもって伸び伸びと指すことができた。
指し方が変わった好影響は続き、ソフトの力を借りずにトップ棋士が居並ぶ竜王戦の本選に出場することができた。あと二回勝てば挑戦者決定戦となり、それも勝てば現竜王とのタイトル戦となる。心から喜べるものではなかったが、同じC級の棋士から羨望の眼を向けられるのは悪い気分ではなかった。
僕が勝ち上がった記事を見てくれていたのだろう。自宅のパソコンでソフトによる研究をしていると、竹井さんから「調子いいね、流石は杉山さんだ、おめでとう」とメッセージが来た。すぐさま画面を閉じたが、その文字が僕の内側でギンギン響いている。
僕は何をしているのだろう。僕を無条件に応援してくれている竹井さんの優しい言葉が、僕を鋭く貫いた。僕の憧れた強さは、僕たちの憧れた強さはこんなものだったのだろうか。
僕はその日の内にパソコンのソフトを削除した。ソフトを手放して以降、中盤以降の指し手が弱気になった僕は、その後のC級一組の順位戦を全部落とした。
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早々に投了した順位戦最終局の日、将棋会館の近くの定食屋で夕食を取っていると、三冠でもある同期デビューの水谷が入ってきた。
「一緒に食事をしてもいいですか」「いやです」「全く、露骨な人だ」「人が苦手なもんでね」僕の拒否を無視して、水谷三冠は僕の向かいに座って食事を頼んだ。
「今期の順位戦が終わったらお話しようと思っていたんですが、杉山先生が感想戦もせずそそくさと出て行ってしまったから急いで積ませましたよ。クラスが違うとお会いするのも難しいのに。そういえば同期だというのに二人で話したことありませんでしたね。杉山さんは竹井さんをご存じですか」
僕が天丼で頬を膨らませているにも関わらず、水谷は話しかけてきた。どうやらこの天才は、プロの世界に入っておしゃべりな口と無邪気な自尊心を手にしたようだ。水谷は僕の返事も聞かずに、竹井さんとの昔話や一手も指さずに投了した三段リーグのことを話し出した。
「竹井さんが良く話してくれました。杉山先生は、あの六十分間、一度も自分の顔を見なかったって。普通ありえない。自分が何を考えているのか、プロになることができず挫折した男がどんな顔をしているのか、絶対気になるはずだと。けれども杉山先生はずっと将棋盤を見ていた。将棋だけを考えていたって。地獄から救い出された気分だったと。私は昔話のように語る竹井さんを通して、あなたを尊敬していた。そこまで将棋に向き合うことができる人なんだと」
「買い被りですよ、行っていいですか」
僕は立ち上がろうとしたが、水谷に制された。
「いや少しだけお付き合いください。実は私、杉山先生の対局結果も追いかけていますが、今期の調子は乱高下してますね」
「それが何か」
「ある人は言うんですよ。杉山先生は対局中の離席が多いとか、感想戦での一手がソフトみたいだ、とか」
「ソフト研究を取り入れてるんでね、辞めましたけど。含みがある言い方ばっかりですが、もう行きますね」
僕は汗をかいた手で伝票を握った。
「お引止めしてすみません。でもこれだけは言わせてください。結局、私たちは将棋が強いということしか取り柄がありません。私たちは剥き身の刃と同じです。削りあって鎬ぎあって生き残りをかけているんです。もし杉山先生にそのプライドがないのであれば」
「ないのであれば、何ですか?」
「私はあなたをプロとは認めない。この世界から締め出します。どんな手段を使っても」
僕は睨む水谷を無視してゆっくりと会計をし、店を出た後は速足で自宅に戻った。
そうか、結局僕は、将棋が弱いんだ。
二階に上がると、棋譜や棋書で散らかった部屋の中に、相変わらずの姿の将棋盤がある。僕は電気もつけずにその前に座って、ゆっくりと息を吐いた。呼吸を整えた後、駒を並べて六七に歩を進め、竹井さんにメッセージを送った。
「今から指しませんか」
竹井さんからはすぐにメッセージが返ってきた。
「俺は将棋を辞めたんだ、もう指せない。杉山さんは将棋が強いんだ、自信をもってください」
僕は歩だけが六七に進んだ将棋盤を見つめた。九×九マスの上に、雫が落ちてくるのが見えた。僕は手に持ったスマートフォンを壁に投げつけ、部屋に散らかった振り飛車の棋譜を漁った。
*******
「杉山さん、今日の体調はいかがですか」
僕が無言で挑戦者決定戦の下座に着くと、水谷は僕を嘗め回すように見て言った。
「じっくり盤面と向き合えるといいですね」
僕は水谷の鋭い目をじっと見返し、水谷が盤上の王将を拾い上げるまで視線を外さなかった。
挑戦者決定戦に上がるまでの二連戦はまるで泥沼だった。中盤でリードをされても必死にしがみつづけ、相手の攻めもなりふり構わず受けた。ほぼ敗勢が決まった対局も投了せずに勝ちを拾った。褒められた対局姿勢ではなかったが、僕には白星という証明が必要だった。細い糸を手繰り寄せるように勝機を引き寄せ、文字通り這い上がってきた僕の相手は、三冠の水谷だった。
三段リーグ以来の対局となった三番勝負の第一局は、僕の研究がハマった形で勝利した。渾身の一局だった。ゆったりと居飛車穴熊に構え、様子を伺うような水谷に対し、僕は急戦の四間飛車で向かっていった。玉を囲わずに駒を組み、水谷の王将が隅に入ったタイミングで桂を跳ねた。水谷からしたら想定外の桂跳ねだったのだろう。長考して角を一つ上げたが、それがその場しのぎに過ぎないのは誰の眼にも明らかだった。そこからはずっと僕の勝勢で、終盤に攻勢に出てきた水谷を差し切り、第一局をモノにした。
だが結局、第二局・第三局は僕の大敗で、竜王戦の挑戦者は水谷三冠になった。僕とトップ棋士との差は歴然であり、いいところなく終わってしまった。準備していた作戦は全て受け切られ、ねじり潰されるようにして負けた。
「一局目はしてやられましたからね。私も全力で叩き潰しにきましたよ」
僕が三局目に投了した直後、水谷は観戦記者のフラッシュが光る中で言った。リップサービスもあるだろう。けれども僕は、水谷が僕に対して全力で向かってきてくれることが嬉しかった。
フラッシュの光と熱で少し浮かれてしまったのか、少し前の僕からは考えられない言葉が出てしまった。
「水谷先生、もしよければ僕と研究会をしませんか?」
水谷は少し驚いた風だったが、眼鏡の奥で笑ったように見えた。
「私は強い人としか研究しませんのでね。まずは二人だけで始めましょうか」
ソフト刺し バラック @balack
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